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集団って何? 個と集団が渾然一体となって集団を作る力を持つこと=生命体に同化

欧米の集団が「社会と個人」に対して日本人の集団は「世間」と言われている。

日本人と欧米人の集団思考には違いがある。それは個人が原点か集団が原点かに規定される。下記の論説ではその違いを示し、さらに日本人の集団志向についても2種類に分かれるとしている。安定期には男性原理が、混乱期には女性原理が集団の特性になる。論説では後者を自由に活動する個々を適宜に集団に構成する「信長志向」としているが、集団第一でもなく個人第一でもなく群れる事により集団が結束され方向性が決まっていく、言い換えればより生命原理に近い形が信長志向で、故に根源的な女性原理と表されるのだろう。

今我々が目指す集団は個が集団に所属して守られる江戸方式ではなく、個が集団を作り、集団が個を包括し、方向性を生み出していく、いわば集団を作る力を持つ集団であろう。そういう意味では生存するために必然として集団を形成する生命体にこそ集団の原点がある。

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 リンク [1]より抜粋しました。信長と家康という2つのパターンで集団を表現しています。

日本人は「集団志向」であると言われる。
その「集団志向」の実態は、集団や組織を思考や行動の主体として捉えて、自己のアイデンティティをその一員として位置づけるという志向性である。
一方、欧米人の「チームプレイ」は、あくまで自立的な「個人」がチームを組んで集団としての成果を上げるというもので、「個人」はチームを離れても自己のアイデンティティを失わないし変化もしない。

このような違いがどうして生じるか。

それは、欧米人は単身で超越者と対峙する「個人」であり、その総体である「社会」に暮らすのに対して、日本人は帰属する人間関係の総体である「世間」に暮らし、そのアイデンティティはそこでの位置づけである「分際(自分)」として感受し表現するからであるつまり、日本人の「集団志向」とは「世間」志向に他ならない。

 そして、日本人の「集団志向」は2タイプある。

 1つは、集団を身内で固める「家康志向」である。
これは、江戸時代270年の幕藩体制において日本人の血肉となった。日本人が誰に教わる訳でもなく物心ついた頃には自然体でやっているのがこれである。つまり、日本人は特段の意識をして言動をコントロールしなければ、自然体で「家康志向」の一般にムラ社会と言われる「世間」にその一員として暮らしている。これは、身内と他所者を分け隔てる志向であり、時に、みんなと同じ考えをもち同じ物言いをする者だけを身内とみなし、みんなと異なる考えをもち異なる物言いをする者を他所者(ex.非国民、反日)とみなす。つまりは無自覚的に時に意識的に「全てを分け隔てる男性原理」を土台としている。

 もう1つは、自由に活動する個々を適宜に集団に構成する「信長志向」である。
これは、戦国時代、信長が顕著に展開したことに因んだネーミングだが、信長の最大の敵だった一向一揆や、信長がその取り込みを狙った鉄砲生産などの先端技術拠点だった寺社勢力の境内都市や、堺の環濠都市なども展開した志向である。つまり、江戸幕府成立前夜までは「信長志向」の方が世の中の動かす主流のダイナミズムだったのである。それは、身分や職分の垣根を乗り越えた連帯や実力主義の抜擢を特徴とした。信長によって農民出身の秀吉が抜擢されたことや、堺の国際商人が大名に抜擢されたことや、境内都市とそこに集積した外来知識を媒介に難民が職人になったり勧進をする聖になって諸国を遍歴したり、様々な地方の様々な身分の信徒が石山本願寺に結集したり、である。目的を共通項として身分や職分の垣根を乗り越えた集団や組織を形成する点において、意識的に「全てを包み込む女性原理」を土台としていると言える。

 「家康志向」の「世間」は、農本主義を基調とし、定住社会と定住民を前提とするのに対して、
「信長志向」の「世間」は、交易主義を基調とし、転住社会と転住民、移動社会と移動民を重視する、
という対照性が指摘できる。

信長は戦国大名には珍しく、居城を移しつつその城下への家臣の一族郎党を従えた転住を強制して中央に進出したことが、以上の対照性を象徴している。信長は明快に重商主義であり交易拠点に居城を展開している。

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