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天皇制と奥の院の共通点とは・・・「すべて裏から支配」

金貸しの世界は古くは海賊に遡る。4000年前~3000年前に海の民と呼ばれる海賊が地中海に登場し、3200年前にカルタゴを建国。以後交易民として地中海を制覇するが、2200年前にローマ帝国に滅ぼされて一旦消滅。以後イタリア、スペインに再結集してサボイ、デルバンコ等の氏族となり、銀行を生み出し、現代に繋がる金貸しの親玉、奥の院を形成した。

この金貸しの最大の特徴は決して表舞台に出ない事。現在も世界中の企業や資本家を牛耳っているロスチャイルド家を実質上コンロールしているのも彼ら奥の院の存在である。この金貸しの特徴は、「資力第一」で「裏から操る方が利益大、損失小」という鉄則を持っており黒幕であり裏の存在として十字軍遠征以後の世界を支配してきた。宗教革命を引き起こし、近代思想を生み出し、共産革命を仕掛けた。第一次、第二次大戦も彼らが絡んでいる。今回のコロナ禍においても彼らが仕掛けた騒動である可能性が透けている。しかし、マスコミ初め彼らを決して上げる事はできない。政治的にも企業としても登場せず、常に為政者や国をそそのかし、対立を生み出し、その両者から利益を得てきた。市場とはそれ単独では存在せず、国家に巣食う寄生虫のようなものとはよく言うが、奥の院の存在そのものが市場の本質と近似しており、それは彼らの出自が海賊であり、略奪という最も効率の良い商売をしていたからだ。

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日本の天皇制。実はこの奥の院に極めて似ている。

いくつか似ている点を挙げてみる。同時に過去のるいネットの記事にその根拠が掲載されているのでそれも紹介したい。

1)出自は海の民。中国や朝鮮半島からたどり着いた徐福や秦氏、百済の一派が天皇制を立ち上げた。
2)天皇制は天皇自体が政治を担わない事。一国の長という位置づけを与えられながら、役割は祭祀だけであった。
3)表の天皇の存在そのものは江戸時代まで存在薄く、大衆にとっては居ても居なくてもよい存在。しかし天皇が時の為政者を任命し、承認する制度は変わってない。つまり本当の支配者は天皇の奥に存在する秦氏であり、百済王族の末裔 藤原氏である。
彼らは裏に隠れる事で天皇制を使って日本をこれまで2000年間間接支配してきた。
4)天皇は祭祀の長であり、全国の神社、寺社の総元締めになってきた。
5)国家や為政者であればトップの力が落ちれば取って代るが、天皇制を敷く日本は建国以来、史実上は天応家の交代がなく国としては一度も分裂せず続いている。南北朝という危機はあったが、それも両者の話し合いと実質的な奥の院である秦氏のコントロールの中で制圧されてきた。

奥の院も天皇システムも似た構造。

・出自は商人、
・表舞台に出ない、裏から操作
・資力が第一
・歴史が永続してきた
・国家に寄生している

そしてこの構造とはきわめて長持するある意味非常に優れたシステムなのだ。
私権社会が終焉し、資力第一にしてきた彼らがそのまま生き延びるには資力から共認形成力(操作力)へ転換しつつある。しかし共認支配と本物の共認とは異なる。人々がその操作に気が付き、事実追求をベースにした本物の共認時代に転換できるか、それがこの優れたシステムに対応できるかどうかの分かれ目でもある。

日本の古代官僚制の歴史(4)~奈良時代の官僚制度

大化の改新以降、その後の法整備によって日本は氏族的連合支配から全住民を地域に従って行政的に組織し支配するという国家形態が作られた。それらを実現するために天皇制は権威化され神聖化絶対化されていった。国家において天皇は国土創造の神の子孫であり、アキツミカミすなわち「人間として現れている神」と言われる神的な権威であり、同時に全国土も人民も天皇の所有とした。
律令の条文には天皇の権限については何ら定められていないが、天皇は法を超越するものであり、天皇は国家そのものであるとみなされた。
現実の支配は、天皇から任命された官僚によって、法と機構を通じて実現される。この点から言えば律令国家「日本」は前代の氏姓貴族が各個にその氏人・部民を支配することをやめ、天皇を中枢としてみずからを統合し、一体となって全人民を支配する権力機構であった。
中央政府は天皇の祖先神々を祭り、神社を管理する神祀官と、一般国政を行う太政官の2官に分かれ、太政官には太政大臣の下、左大臣、右大臣があり、政務を総括しその下で行政は八省に分けて行われた。べつに官吏を監察する弾圧台その他の機関もある。

天皇制が担っていた役割とは何か [1]

奈良時代に列強である唐に対抗するためにいち早く律令制を取り入れた新生日本国であったが、ほとんどが唐の律令制の模倣のなか、唯一天皇制というシステムだけは日本のオリジナルとして組み込んでいた。
中国の皇帝に匹敵する役職であるが、中国の皇帝が政治も神事も統合する実質上の最高権力者であったのに対して天皇は神事のみを扱う最高位であった。神事は政治の上位に位置づけられていたため、天皇は形式上の最高権力者であったが、実質上の政治権力は太政官である藤原が握っていた。
大宝律令は藤原不比等自身がプロデュースしており、最初から実質と形式を分離する為政者側の思慮があったものと思われる。

なぜこのような制度を執ったのか、これについては様々な理由が考えられるが、邪馬台国の時から政教を分離していたように、日本の政治体制は伝統的に神事を政の上に置く事で集団を統合するというシステムが構築されており、それが天皇制の母体になっているのではないかと推察する。
西洋の法王制と日本の天皇制、どちらも政教分離で共通しているように見えるが、似て否なるものである。西洋の場合は皇帝という絶対権力者が後に大衆を支配するために宗教を使って法王という位を作る事で宗教を支配の道具にしたが、日本の場合は地域の土着豪族集団を中央に統合するために宗教(神話)が使われた。神話の世界で架空の祖霊(天皇)を物語として地域に定着させる事で武力を使わずにクニを統合する手法を編み出している。その点で神事は常に上位であり、政治は神事に仕えるという位置にあった。
西洋でも中国でも皇帝が武力で滅ぼされると国の名前が変わる。日本の場合は幕府が倒されても天皇血縁が継続している限り国名は変わる事がない。この日本独自の政教分離システム=天皇制があったからこそ、大きな戦乱を起こさず、時の為政者が倒れても建国以来日本の歴史は継続することが出来たと言えるだろう。

「寺社は「金貸し」であり、その頂点が天皇家? [2]

往時の寺社勢力は、国家の政治経済(社会)の中枢に位置していた。財閥勢力であり、治外法権を把持する特権階級だった。なぜなら、寺社は莫大な財とそれを維持するための武力を持っていたからである。いまでもバチカン市国は、その財政が闇のなかで、マフィアともつながり、巨大な金融組織となっている。同じようなものだったろう。室町時代から戦国時代にかけて、日本の資産の大半は寺社が所有していた。当時は八大財閥があって、自治都市の堺と大山崎、それに細川高国、大内義興、あとは寺社が4つ。しかもその4つのうち3つが比叡山関連だった。

 

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