- 縄文と古代文明を探求しよう! - http://web.joumon.jp.net/blog -

鉄を軸に古代史を読む~鉄の権益を獲得したことで強大なヤマト王国が誕生。

Posted By tanog On 2019年7月25日 @ 10:25 PM In ⅩⅠエトセトラ(その他諸々) | No Comments

宮津市史編さん委員会が編纂した「宮津市史」に「弥生時代から古墳時代」という節がある。そこに弥生集落の崩壊が全国で起きていたことが記されている。 弥生中期後半、紀元前100年に高度な玉つくりの技術を持っていた奈具岡遺跡、弥生前期紀元400年以前から環濠集落を営み続ける途中ケ丘遺跡、舞鶴市の志高遺跡の集落は、いずれも弥生後期後半紀元300年頃に消滅している。後期から土器の出土が極端に減る。人口減少である。北丹後の福知山市興遺跡、綾部市の青野遺跡も同様である。 丹後では、弥生後期の集落の様相が変わり、明らかな遺跡は少ないという。地域性豊な特徴ある墳墓が出現して、新しい小国家が出来上がていったのだという

弥生人は鉄器を持った渡来人の墳墓づくりに、鉄を手に入れるかわりに参画した。

「倭国大乱」とは、大乱というほどの戦争状態ではなく、鉄の交易が生んだ日本社会の「突然変異」であったと考える。

古代史の謎は「鉄」で解ける~長野正孝 著 より要約します。

■「倭国大乱」の引き金は高句麗の楽浪侵攻

中韓の歴史で両国が隠し続ける不思議な事件が高句麗の楽浪侵攻である。 漢は楽浪郡の統治に手を焼き、二十余年で早くも占領した多くの地域を放棄。新を経て後漢となって間もなくのこと、西暦37年、楽浪郡は高句麗によって突然襲撃を受け、占拠された。後に奪還するので中国の史書はあ大きく扱っていないが、このとき、完全に高句麗に蹂躙され、大量の奪われた鉄が北や東に馬の背で運ばれた。後に二世紀に日本にやってくる素環頭鉄刀や鉄鍬が大量に東海岸に移動したのである

一方、大韓民国と北朝鮮は、高句麗は自分たちの国で、中国の外交部が置かれただけでもともと占領されていないと主張、楽浪郡などの漢の植民地はもともと存在しないという。 楽浪郡を侵略した際、高句麗は返す刀で朝鮮半島東海岸まで達している。この侵攻直後にほろんだ国家、もしくは難民となった民族が扶余、東沃祖、ワイの三国で、船をかき集め日本に上陸した出雲半島と丹後半島に多くが上陸したのは、海の中に出っ張っている地形が目印になり多くの難民がたどり着きやすかったためだ。結果、この二つの半島は、日本海沿岸の他の倭国と一味違う国になった

■鉄の副葬品を有する異形墳墓の大量発生

一世紀頃、日本の墳墓には、縄文時代からそのまま土に埋める土廣墓、中国,朝鮮半島の影響を受けた甕棺、周溝墓、朝鮮半島の影響を受けた支石墓などがあった。ところが突然、全国的に見たこともない四角い積石塚が増え、後に円墳が増えるなど、多様な墳墓が至る所でできる。二世紀から七世紀、古墳時代晩期まで続く。 丹後では弥生中期後半、紀元前100年頃から大小多くの方形貼石墓が出現し始め、古墳時代になっても間断なく異形の墳墓は増え続ける。丹後に間断なく漂着民が来たことと無関係ではない。 大風呂南遺跡、竹野川流域の三坂神社墳墓群、金谷墳墓群、赤坂今井墳墓群など共通しているのは、素環頭鉄刀、鉄鍬、鉄器などの鉄の副葬品が大量にあり、鍛冶跡もある。この地が長く、大陸、半島と交易を続けてきた証である。

なぜか、「倭国大乱」時期に四隅突出型という不思議な墳墓が広島の三次市に出現する。この四隅突出型墳丘墓は、渡来が一段落した百年後の二世紀半ばに鳥取、島根から石川、富山各県の臨海部に広がった。総数103基に達したという。 二世紀後半には、出雲市に王墓として、最大の四隅突出型墳丘墓である、西谷3号墳が登場する。この3号墳の土器を調べると出雲だけでなく、出雲で6割、丹後から北陸で3割、吉備で1割と、全国で広く交易していたと考えられる。 出雲の四隅は日本最初の地方国家の形成のまえぶれと考えられる。丹後の遺跡群もそうである。これらが国家の広がりとして認められれば、前方後円墳が国家の連帯の象徴となる以前に、国家形成の萌芽ががあったと考えられる。

■倭国が朝鮮半島で戦った理由

我々は朝鮮半島の歴史を見直さなければならない。 私たちは教科書で、馬韓、弁韓、辰韓という原三国時代がつくられたと習ったが、実態はそれに被せるような高句麗の二重統治が垣間見える。 高句麗はツングース系の騎馬民族がつくった国家で、定住化によって遊牧から次第に離れたが、騎馬による戦力は絶大なものがあった。倭人という海洋民族はこんなすごい高句麗と闘いながら、朝鮮半島の鉄の路の維持に腐心したのである。 広開土王碑には「倭は百済、新羅を属国にした。」とあるが、同盟国の小さな倭が属国にできるわけがない。倭が維持している勢力内の航路についてクレームをつけ、攻撃を始めたとみてよい。倭は朝鮮半島の海上権益を巡り、391年から480年、高句麗と闘うことになる。

倭国は朝鮮半島交易と伽耶の鉄生産の権益を持っていたが、高句麗から見れば、倭の権益は楽浪郡同様魅力的だった。高句麗が南下し始めたことにより、倭と百済、新羅と合従連衝が始まり、当然のことながら、日本列島の倭の連合国家から援軍が派遣された。 高句麗の広開土王は朝鮮史上最強の王である。その強さの秘密は騎馬軍団の戦闘システムにある。 倭国の衰退は五世紀初頭の広開土王の大敗より始まる。朝鮮半島で鉄の交易を生業としてきた倭国と伽耶は、その後、半島の東側の交易拠点を次々と失うことになり、代わりに高句麗、新羅が海運業を始め、半島全域から日本海交易を直接行うようになったからである

倭国大敗の150年後、562年に伽耶が滅亡し、その後100年、盟友の百済も同じ騎馬民族の新羅に660年滅ぼされる。そして、百済復興を助けるべく、出兵した日本も663年白村江で、唐・新羅の連合軍に敗れた。海洋民族は騎馬民族にはどうしても勝てない。 朝鮮半島の倭国が滅びるまでの200年、倭人と伽耶人は、少しづつ九州、瀬戸内を経由して帰化した。唐によって高句麗が668年滅ぼされ、大勢の高句麗人もまた日本に来た。武蔵国の高麗群や高麗神社、北陸の小松はその痕跡である。

伽耶は朝鮮半島の歴史にほんの一時、瞬間的に「できた海洋国家であり、工業国であった。だが、この工人の多くは大阪平野に移住し、強大なヤマトの国をつくることになる。 一方、モノづくりの民を追い出した朝鮮半島は、産業が空洞化し、搾取する貴族と、働いても報われない奴婢の国として残った。

倭国は高句麗の広開土王に敗北したが、結果としては日本海をはさんで離れていた鉄の精錬所を集約したことで、かえって工業力を高めることができたのである

 


Article printed from 縄文と古代文明を探求しよう!: http://web.joumon.jp.net/blog

URL to article: http://web.joumon.jp.net/blog/2019/07/3523.html

Copyright © 2014 縄文と古代文明を探求しよう!. All rights reserved.