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縄文体質とは何か?第6回 縄文人(日本人)の信仰とは対象へのあくなき同化

このシリーズ最終回は信仰です。

縄文人(その後の日本人)の信仰の本質は自然が相手の多神教崇拝です。
今でも建物を建てる時には土地の神様を鎮める地鎮祭は必ず行います。正月にはほぼ全ての日本人が神社にお参りし1年間の計を立てます。また、農業では豊作の祭りとして水や太陽等の自然の神に感謝を伝えています。これだけ科学が発達し、都市文明が行き渡った現代でもその祈りの一時、一気に太古の縄文に精神が戻るように感じます。

縄文時代のアニミズム(自然崇拝)に表れるように、その本質は対象へのあくなき同化です。
日本人の宗教とは祈りも誓いも含めて見えない対象(自然やその奥にある精霊)への同化追求の姿なのです。これが諸外国の一神教とはまったく異なり、極論すれば日本人が無宗教といわれる所以です。つまり日本人の信仰心とは同化力の事なのです。

ひたすら対象に同化しようとする、それが心眼で見るという事でもあり、常に祈り続ける姿でもあるのです。一神教のように教義も必要ないし、教団も必要ない、集団の中で同化能力の高い人物がシャーマンとなり首長になっていきました。
この信仰は日本語となり言霊となり現在にも引き継がれています。

最も信仰らしくない民、日本人の存在は人類にとって同化を迷わす宗教は必要ないとも言えるし、その同化能力という点においては最も信仰心の強い民族が日本人であり縄文人であるとも言えると思います。

るいネット投稿の中から紹介します。

リンク [1]
m281.gif私は、日本人のユニークさは狩猟・採集を基本とした「縄文文化」が、抹殺されずに日本人の心の基層として無自覚のうちにも生き続けていることが一番大きな要因だと考える。
(中略)
また、日本語を母国語とすることによる脳の使い方の違いも考えるべきであろう。角田忠信博士が書いた「日本人の脳」という本はそのことを解明した画期的な本であった。
東京医科歯科大学の教授であった角田博士によると、日本人と西洋人とでは、脳の使い方に違いがあるという。すなわち、日本人の場合は、虫やある種の楽器(篠 笛などの和楽器)などの非言語音は言語脳たる左半球で処理される。もしそれが事実とするならば、欧米人が虫や楽器の音を 単なる音として捕らえるのに対して、日本人はその一部を言葉的に捕らえる、つまり意味を感じていると考えることができる。この事は日本人の認識形態、文化に取って非常に重要だ。一般的に意味、つまり、言葉を発する主体は意識体として認識される。しかしながら、日本人にとって楽器などの奏でる非言語音がその一部とは言え、言語脳を刺激して語り掛けているならば、それが人間から発せられるものでない以上、別の意識体、つまり、霊魂、神々、魔物 などの霊的意識体として感じ取られる感受性の高さに結び付くのではないか。また、その事が日本人の精神の基層を為していると考えることもできるからだ。
このことから日本語を使う日本人の脳は本来的にアニミズム的であり、多神教的であると言えよう。そして、おそらくは日本特有の言霊の概念もこの様な認識の上に成り立つ。

リンク [2]
m281.gif縄文人の円の思想

こうして自然の中に抱かれて暮らしていた縄文人の世界観は、また独特のものがあった。それを明治学院大学・武光誠教授は「円の思想」と表現している。「自然界ではすべてのものが互いに深くつながって存在している」という世界観である。
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夏が終われば秋の山野の恵みが、冬が終われば春の食物が現れる。縄文人は、人間とは、このような終わりのない自然界の恵みによって生かされている存在なのだと考えた。
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獣も魚も貝も木も草も、生きとし生けるものはすべて精霊が宿っている。人間もその一部である。その精霊の命を少しだけ戴いて自分たちは生かされている。その無限の命の循環の中に自分たちは暮らしている。とすれば、魚を取り尽くしたり、獣を小さいうちに食べてしまうなどということは、縄文人にとっては許されない行為であった。森を切り払って畑にしたり、牛のための牧草地にしてしまう農耕・牧畜の民よりも、はるかにエコロジカルな世界観である。1万年以上もの間、自然と共生してきた生活の基盤には、こういう生命観があった。
自然に抱かれた縄文人たちは「自然との共感共鳴」をしていて、それが日本語の中にも残っていると小林達雄・國學院大學名誉教授は指摘する。日本語は擬音語、擬声語が豊かなのが特徴だ。川が「さらさら」流れる、風が「そよそよ」吹く、などである。小林教授はこう語る。
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風が「そよそよ」吹くというのがありますが、あれは風が吹いて、音を立てているのではない。ささやいているのです。
どういうことかと言うと、音を、聞き耳を立ててキャッチしているのではなく、自然が発する声を聞いているのです。音ではなくて「声」です。・・・
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縄文人は、人間同士で互いに語り合うように、自然の「声」にも聞き入っていたのである

リンク [3]
m281.gif人類の生み出した観念の一つに「宗教」「近代思想」がある。
しかしそれらは精霊信仰とは似て非なるもの、全く別のものである。
精霊信仰とは自然界を全て対象化し、万物の背後に精霊を措定する事で意識を統合した。自然の摂理を読み解いた、その後の科学技術に繋がる観念原回路である。同時にそれは言語化されておらず、イメージや言葉にならない総体として存在した。精霊信仰とは対象認識そのものである。

一方、宗教、とりわけキリスト教やその延長にある近代思想は現実には存在しない理想や架空のものとして意識を固定する。変えられない現実世界を否定し、現実にはないあるべき姿や、決して実現しない理想を身上としている。神や博愛、自由といったものがそれに相当する。
それらが一旦、観念(文字)として固定されてしまうと外圧の状況に関係なく、強力に人々の頭の中を支配する収束力を発揮する。
当然外圧は変化していくので、現実世界とのずれはどんどん拡大し、その思想は現実に適応できなくなる。

リンク [4]
m281.gif寺田寅彦(日本人の自然観、寺田寅彦随筆集第5巻、1948)
「日本のように多彩にして変幻きわまりなき自然をもつ国で八百万の神々が生まれ崇拝され続けて来たのは当然のこと。」
「地震や風水の災禍が頻繁でしかも全く予測の難しい国土に住むものにとっては天然の無常は遠い遠い祖先からの遺伝的記憶となって五臓六腑にしみ渡っているからである。」
野中涼(環境問題と自然保護-日本とドイツの比較、1999)
「日本人は長い間、この世界をただ主観的に、個別的に、無数の個体の集合としてとらえる傾向が強かったので、「自然」というすべてを総体的にとらえる抽象語を持たなかった。「天地山水」とか「山川草木」や「すべてあめつちの間にある事」などと呼んでいた。自然を客体化させ、それにヨーロッパ語の”Natur”や”Nature”に相当する用語としての「自然」を当てて使うようになったのは、ヨーロッパの科学文化の衝撃を受けた1900年前後のことである。」
安田喜憲(日本文化の風土、1992)
「日本の自然観の特色は、円環的・循環的。限られた資源を有効に利用し、自然を破壊し尽くさない、自然=人間の循環系に立脚した文明を継承、発展。対して、西欧は、自然=人間搾取系であり、自然の側から見れば、一方的に搾取されるといった自然搾取型の文明の性格を持つ。その搾取型の地域システムの核となっているのが「家畜」である。

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