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地域再生を歴史に学ぶ~第3回 日本列島、東と西の違い

日本の地域論を縄文時代のネットワーク、古代から中世の荘園制度による共同体空白期と扱ってきました。次は地域再生の中世、惣村を扱う予定でしたが、中世を調べる中で新たに出てきたテーマがあります。
惣村は主に西側、畿内を中心に鎌倉時代後半から発生しています。さらに惣村が成熟し、政治勢力に対抗する一揆を起こしたのも近畿が発祥でした。一方、関東以北の東側地域には中世において武家社会による安定した社会が形成され、中世以降は庶民においても西側世界と大きな差異を発生していきます。
この日本列島の東と西の違いはどうやら共同体の再生過程においても大きく影響しているのではないか、むしろこの西と東の違いが日本の地域論を解明するひとつの鍵にならないか、そういう思いにいたりました。

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今回扱うテーマは日本列島の東と西の違い です。
この論を展開したのは社会史学者として第一人者でもある網野義彦氏です。今回網野氏の著書から引用しながら、なぜ西側に最初に惣村が発生したのかについて考察していきたいと思います。
まずは東と西の違いについて書かれたくだりです。「列島の歴史を語る」より抜粋です。

>これまで日本人・日本は「縄文の時代から単一の民族を成していた」また、通常「大和朝廷の統一といわれる時期から一貫してひとつの国家をこの日本列島で形成していた」というような理解が、どことはなしにわれわれ自身の中に深く根を下ろしているのではないか、そしてそのことが、日本人あるいは日本民族を本当の意味で理解するうえでかなり大きな盲点を作り出してきたのではないか。・・・(中略)・・・・

この日本列島には現在の日本人の先祖が古くからいたといわれていますが、<東日本>と<西日本>とではその実態は大きく違っていたのではないか、ということもそのひとつであります。方言の面で東と西の間には大きな違いがある。これはもう東国方言、西国方言の違いとして有名な事ですし、民族の面でも東日本はタテ社会、西日本ではヨコ社会と言える。「宮座」というものが東日本にはほとんどないという現象や神社のありかた。家父長権は東に強くて、西のほうはずっと弱いなどいろんな事例を挙げることができます。

考古学の分野では旧石器時代から東と西には違いがあり、弥生時代の前半にかけてまでは東は縄文、西は弥生という時期が二百年くらい続いたとしていますが、古墳時代、大和朝廷の統一といわれている時期から考古学者の目が東と西の問題には注目されていないと思われるのです。律令国家の形成時期から東と西の違いはほとんど問題にされなくなる

ところが、9世紀に入って律令国家にガタがくると、すぐに東と西の違いがまた表面化してきます。律令制は外から移入した制度である為、たちまち地が見えきます。平将門、藤原純友という形で現れてくるのです。ここからは東と西の問題を考慮に入れないと日本の歴史は理解できなくなります。10世紀から12世紀にかけてははっきりと東国国家といってもよい国家が姿を現し始めたと見ています。その東国国家の先駆けが将門であり、継承したのが頼朝の国家である鎌倉幕府です。鎌倉幕府は鎌倉公方、後に北条氏に受け継がれる。ですから、鎌倉、室町、戦国時代を通じて、日本列島には2つ以上の国家があったのだと考える方が事実に即していることになります。・・・・(中略)・・・・

中世の武士団のあり方についてみると、東のほうでは惣領を中心として、そこに庶子たちが集まってタテの関係を軸とした強力な主従的武士団を構成する。ところが、西のほうでは一国の武士たちがお互いを傍輩と言い合って、同じレベルの人間同士としてヨコに結びつく傾向が非常に強い。これは百姓の世界でも同様であった。

これに関して「東と西の語る日本の歴史」より紹介します。
>東側は広大な土地を持つ御家人という領主が下人を使い、領域をイエとして住み込ませ、百姓を支配しており、東国の郡、郷の管理は領主に支配力によって成されていた。
一方で西側では一、二町から数町の田畑を請け負う力がある百姓(本百姓)が数人から数十人集まり、わずかな下人、所従をもち合同で管理していた。
これら西側の体制を知らずに東国から西国に着任した地頭の支配に対して、彼らは著しく反発し、抵抗し続けた。時に朝廷に訴え、地頭の乱暴を認めさせ、罷免に成功するのである。こうした百姓、とくに名主、本百姓の間にみられる強い連帯、それに基づく東国の地頭に対する抵抗は、鎌倉時代の西国のいたるところで起こっているが、東国ではほとんど見出すことができない。
東国の社会は領主のイエ支配を中心に、タテに百姓たちが領主と結びついた家父長的な性格の強い主従関係が基礎になっているのに対し、西国の場合は百姓の小さなイエがヨコに連合したムラ的な結合が発達していた

【なぜ西側に惣村が発生したのか】
西側に惣村が発生した理由については、既に上記で示したように網野氏が答えを出しています。惣村が発生する以前から百姓による自治組織があったのです。網野氏はこれを西側の稲作農耕と東側の畑作農耕で対比させており、稲作の生産体が畑作に比べて連合、協力の要素が強いことをその要因の一つとして指摘しています。

しかし、不思議なのは天皇家のお膝元であり最も国家支配の強い西側、それも畿内を中心にこの百姓の自治組織が形成されていったことです。これは稲作、畑作と言った生産形態だけでは説明できない問題です。
私はやはり真っ先に律令制が入り込み、本来共同体である日本社会において、水と油である外来の律令制を推し進める矛盾の中で大衆自身が防衛的に結束したのではないかと見ています。つまり最も強い支配圧を受けた地域から先に共同性が再生した、そういう見方ができるのではないでしょうか?

この西と東の違いは現在にも多少なりとも伝承されています。大転換の時代にあって、未だ古い秩序が支配して社会が混迷を極める中、関西、特に京都を中心に元気な中小企業が萌芽し、逆に大企業中心の東京型は没落の兆候を示しています。これも自治の西、管理の東を表している一現象ではないでしょうか。まだ結論を出す段階ではありませんが、地域社会の自治の有り様が社会体制を決定付ける根拠の一つになるのではないかと思っています。

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