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日本における仏教が果たした足跡7~蓮如が成した大衆仏教への引力とは

   鎌倉時代にはそれまでの天台宗による護国仏教の教えと行動の矛盾から一気に大衆仏教の流れが始まります。浄土宗、浄土真宗、禅宗、日蓮宗それら今日の仏教に繋がる宗派が一斉に始まります。それら、日本での仏教と国家との繋がりに楔をうつものでした。同時に仏教が貴族や上位の位の人たちのものから商人、町人、女を始めてとして庶民へと展開しはじめた時代でした。

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しかし、その流れは室町時代に登場した蓮如上人をもって本格化し、本当の意味での大衆仏教は室町で確立したと言えます。我が国での大衆仏教の本質とは何だったのか?今回はそれを追求していきたいと思います。

【蓮如の生きた時代にポイントがある】

蓮如上人は浄土真宗本願寺を一代、わずか50年で最下位の弱小教団から最大の宗教集団に引き上げた人物です。親鸞が聖人と呼ばれるのに対して蓮如は実業家であり、血の通った俗人であり、親しまれる先達でした。時に中世のこの時代、短期間に大衆の支持を集めた蓮如の才覚を称して、天下を取った信長に例える人も少なくありません。確かに蓮如の力量は人並みはずれたものがあったのは事実でしょうが、時代の潮流を掴みその流れに乗っかっていったのも蓮如の特徴であり、蓮如の生きた時代でした。このシリーズ最大のポイントになるのですが、日本で仏教が果たしたもう一つの本質がこの蓮如の生きた時代にあると思うのです。

 蓮如上人が生まれた1414年(室町時代中期)は日本の大衆史において大きな転換点となる時期でした。既に惣村が各地にうまれ始め、惣村を核として最大勢力である農民が為政者に圧力を加えるという事が可能になってきた時代でした。一向一揆が起き、時に武士ですらその制圧に手を焼き、すさまじい大衆活力が登場して行く時代にありました。

一方で庶民を取り巻く外圧状況は極めて厳しく、貧困、災害、病苦、世の乱れはこの時代頂点に達し、京都では病役によって1年間で数万人が命を落すなど、人々の不安、苦しみが短期間に増大していった時代でした。政治的にも南北朝が合戦し、時の為政者は混沌としていました。社会秩序が急激に不安定になるのと反転して庶民は新たな共同体を惣村として構築し始めたのです。

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一揆の申状 [1] ←お借りしました

 【蓮如はなぜ惣村に働きかけたのか】

この時代の惣村とそこに働きかけた蓮如を「蓮如」~五木寛之著では以下のように書いています。蓮如がこの時代の農村に着目したのは新しく最も勢いのあった集団=最先端だったからです、

>蓮如がはたらきかけた目標というものは、農村が中心でした。そのころ(15世紀半ば)は中世の荘園という制度が、がたがたになってきていた時代です。逆に言うと農村それぞれの地域において、自分達で農民として自立を意識して行く時代でもあり、日本農村、農村共同体の自立が少しずつ行われた時代でした。

日本の農村というものが大昔からあったように私たちは考えがちですが、そうではなく、この時代に農村というものの大部分が形成されていきます。昔話に出てくるような農村、そういった農村という共同体が成立するのがこのころで、この農村の携帯を「惣」といいます。

この惣とか惣村というものがどういうものだったかを簡単に言うと、たとえばある人数の農家がまとまってひとつの集落を作る。村をつくりあげますと、そのなかで村の指導者というものが農民のなかからおのずと出てきて、リーダーとなる。これは荘園制度の中で中央から派遣してくる役人とは別なものです。

農民自身のなかで、そのような指導者というものを自分たちの暮らしのなかで作り出します。おのずから力のあるものが選ばれていく。それから、自分たちでその村の管理のいろんな取り決めをする。たとえば鎮守の杜とか、お堂とか、神仏の祭祀を自分たちのグループで行っていく。また水の配分とか共同で収穫するとか、お祭りをどうするとか、こういう取り決めを自分たちで実行してゆく。こういう自治的に行うような傾向がそれぞれの農村に発生してくるわけです。つまり、この時代、急速に社会の中心に農村の自治組織が出来上がっていった事が伺えます。

 【惣を講に引き上げた力とは】

そして蓮如の時代を読む力の凄かったのは、この惣村の成立という社会現象に乗じて、それをさらに連携させる講という仕組みを作った事です。同様の著書より抜粋します。この時代に仏教を通じて人々は何を求めたのか、蓮如は仏教を通じて何を実現したのかが表現されています。

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報恩講 こちら [2]よりお借りしました

>蓮如は惣というものを講というものへ大きく膨らませていったと言われます。その講とは一体なんだと考えてみますと、既に仏教の世界では7世紀ごろから講という言葉が使われていますが、仏典とかさまざまなお経を僧侶たちが集まって講義を聴く、その集まりを古くは講と呼んでいたのです。時代とともに一般の信者達が信仰上の教えを聞く集まりを講と呼ぶようになり、その集団自身も講と呼ばれるようになりました。

(中略)

 講というのは人々が集まって、その横のつながりで何かの目的の為につくる、そういう、集団の共同体なのですが、蓮如が考えた講はそういう講のもうひとつ大きなスケールを持った<講の連合>の構想というものだったのかもしれません。すでに本願寺三代の覚如という人が「報恩講式」というものを制定しておりますけれども、蓮如は講を生活のなかで出てくるそういったひとつの形式ということよりも、念仏という精神的な信仰のもとに結ばれた普遍的な大きな共同体というイメージでとらえているわけです。

(中略)

蓮如が考えたのは、その当時の世情のなかで苦しみながら生きている砂のような孤独な農民たちを、地域の惣というグループからさらに大きな、日本のそれこそ全国津々浦々の人々を結びつける宗教共同体というものを確立することだったのではないでしょうか?

それはどういう事かと具体的にいいますと、つまり惣、村単位の集合体のなかに、親鸞の思想、念仏の思想というものを徹底的に持ち込んでいって、そしてそこに住む人々をが一体となってその信仰を持つ。それによって、そのなかにある同朋意識とか、さまざまなものが、今度はさらにひとつの思想によって、地域単位のグループをアメーバーのように横につないでいくわけです。 

惣というこれまであったもの、長い時間をかけて農民達が熟成し、つくりあげてきた自治的な形態を土台に、その上に今度は講という信仰の集団を2重に重ねる事によって、この村と講のを結びつけ、そしてその地方全体の講が、また共同体の運命体としての意識を持ち、そしてそれは国を越えて日本全国にひろがってゆく。つまりそういう意識によって、大きなうねりが日本全国にひろがっていくということを蓮如は頭の中で夢想していたに違いないと思うのです。

 惣から講へ、これは日本の中の共同体を地域や国家という超集団に昇華させる装置でした。その仕組みを仕掛け、時代の潮流に乗り、一気に駆け抜けたのが蓮如だったのでしょう。同時に様々な負の要因が重なったこの時代だからこそ、この手法が嵌ったともいえます。逆に言えば、主役は大衆自身であり、蓮如はそれを仕掛け、乗っかったに過ぎないのです。

【大衆仏教とは大衆同化の産物】

仏教の拡大、大衆化とは共同体を超えた結集をする為に必要だった材料であり、内実は仏教でなくてもよかったのではないでしょうか。蓮如が提供した仏教とは従来の勉強型、教え型のものではありませんでした。その大衆の需要に照準を合せた平易なものでした。親鸞の難解な仏教を大衆向けに翻訳し、文字を語りで伝え、文章を文で代替する。そういった徹底した大衆同化の作業でした。同様に著書「蓮如」より紹介します。

 >蓮如は京都大谷の寺を失って以来、各地を転々としながら布教、伝道の困難な時期を過ごしていました。そのベースキャンプとなっていたのは近江地方です。琵琶湖のほとり、堅田周辺の雑民集団が旧勢力に追われる蓮如をしっかりと受け入れてくれていたのです。

雑民集団という言いかたは適当ではないかもしれませんが、彼のシンパとなった民衆は、いわゆる良民、常民といった人々ではありませんでした。当時としては偏見の目で見られていた職人、商人、工人、浪人、運輸交通労働者、そして時には「海賊衆」と陰で呼ばれるようなアウトロー集団などが、地主、農民、地侍などの階級とともに五目チャーハンのように混合した共同体と考えてよいでしょう。そこには中世旧体制の崩壊前夜の新しい下克上のエネルギーが渦巻いていたと思われます。

親鸞の同朋主義、仏の前には人間はみな平等である、という思想は、それらの人々にとって闇を照らす光明のように魅力的に感じられたにちがいありません。蓮如は親鸞自身もときとして試みている平易で単純化された表現をさらに断乎として推し進めて、前代未聞といっていいストレートな言葉でそれを語ったのです。そういった大多数の雑民に対して集中的に彼は働きかけたのでした。

この時代の大衆の苦しみとは、階層化し、序列下位に虐げられた大衆の生きる事への苦しみに対してだったと思われます。共同体が惣村として再生したという事は逆に言えばそれまでの血縁での共同体が解体し、地縁で緩やかに結ばれた共同体に変化した事を示します。序列で苦しめられたのと同じくらい、新しい共同体の形を模索しながら孤独に苛まれた人々の不全が増大した時代ではなかったでしょうか?それを一言で言うと心の苦しみであり、非充足であったのでしょう。そういう私権社会への転換点に必要だったのが心の救い、共認非充足への何某かの代償物で、そこに蓮如の作り出した平易な仏教が嵌ったのでしょう。そして仏教とは否定の宗教ではなく、肯定の宗教であった事も彼らに受け入れられたのです。

 【仏教が拡がったのは私権社会浸透の裏返し】

以上、蓮如が大衆を相手にいかに考え、いかに組織化していったかそれを伺える内容を著書から紹介してきましたが、最後にこの蓮如が成した仏教の大衆化、大衆のエネルギーがこの時代になぜ隆盛したのか、そこについて考察してみたいと思います。

この室町時代とは日本における私権社会が大衆レベルまで広がり確立しようとした時代だったのではないでしょうか?それまでは日本において私権社会は上位の一部であり、大衆はそれ以前の共認社会の延長に生きていたのではないか、そう考えるとこの時代の秩序の混乱が説明できるし、それ故にその後に発生した戦乱時代の駆動力にも繋がります。

しかし最も混乱した時代にそれまでは国の一部の間でしか用いられなかった宗教=仏教が一気に大衆化し、その共認形成力はこの時代に登場した力の共認を上回る動きを示したのだと思われます。一向一揆、土一揆はそうして宗教の大衆化と歩を合せて発生し、時の最大武力である信長さえ手を焼いたと言われています。わが国で仏教が大衆力となっていったのは、力の原理で統治できない共同体としての土壌があったからだと言う事が蓮如のこの時代の活動を見て思えてくるのです。

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