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日本における仏教が果たした足跡4~日本での初期仏教に「教え」がなかったのはなんで?

インドは結局仏教が馴染まず、カーストを肯定したバラモン⇒ヒンズー教の主流が継続されてきました。それはカースト(階級社会)を維持する事を、社会の統合軸として外せなかったからです。ここでは私権社会をコントロールする上で2つの方向性を垣間見る事ができます。

ひとつは階級の固定です。階級を固定する事で無用な争いを無くし、結果としての社会の安定構造を作り出すという方法です。もうひとつは私権社会が作り出す矛盾した現実に対して受け取り方(心の状態)を変える事で適応しようとする方法です。

簡単に言うと通常では認めがたい不合理でも、受け取る側の心を変えてしまうことで受け入れる事ができるという方法論です。インドは前者を選び、中国、日本は後者を選んだのです。

 インドで変化した大乗仏教は、言い換えれば仏教のその効果(心の状態)と階級否定だけを残し、教義や中身はその時々の必要なものに組み替えてよいという立場を作り出した宗教でした。

仏教が変化の宗教であり、解釈の宗教であると言われる所以はそこにあり、仏教の多様性、変幻自在の特性はインドを離れた日本、中国においてなお一層の働きを成したのです。

★中国の仏教取り込みの狙い

大乗仏教はシルクロードを渡って紀元前後に中国に渡りますが、中々根付かず、大衆に拡がるまでに約4世紀強かかったと言われています。

中国の仏教拡大の特徴は、商人が持ち込み、為政者が当時の学者を使って次々と解釈を作り出した格式仏教にあります。その数は400ほどあったと言われ、一旦経典が漢訳されてしまうと元の原文には戻らず、意訳が進んでいきました。従って中国仏教とは伝来の最初からインドのオリジナルの仏教を学ぶ姿勢も意欲もおそらくほとんどなかったものと思われます。

 

ではなぜ中国はそこまでして理解不能な仏教を広めようとしたのでしょうか?中国は春秋戦国の時代に共同体はバラバラに解体され、時の為政者は大衆を統合するための規範や思想の体系(支配を正当化する+大衆の反乱を防ぐ)を求めていました。それが道教であり、儒教でした。しかし当時の中国の時代状況は戦乱の最中で、それまでの道教や儒教による思想統合が体を成さない状態になっていました。新しい国家を作り、異国の大衆や官僚の意識をまとめる上で新しい宗教が必要になり、そこに仏教が摘要されたのです。

大乗仏教は先にも書いたように時々の社会状況に必要な観念を組み込んで変化自在の宗教です。その特徴は中国仏教でさらに摘要、強化され、インドの大衆仏教であった大乗仏教は国家主体の護国仏教に変化していきます。実際、中国での仏教はインドの仏教の思念をほとんど踏襲しておらず、道教の教えである「無」という概念をインド仏教の「空」になぞらえたり、儒教の習慣であった位牌や先祖供養という様式を組み込みました。

いわば仏教という名を持った道教であり儒教だったのです。さらにそれを国家統合に用いた中国(五胡十六国)はその国威を拡げる為に仏教を用いていきます。

 中国仏教

http://japanese.china.org.cn/travel/txt/2012-06/24/content_25722202_3.htm [1]より借用しました。

 ★朝鮮半島に拡大した護国仏教

朝鮮半島で高句麗、百済、新羅に4世紀頃に中国から仏教が伝来しますが、高句麗を除いては、その国家発生の時点で既に仏教が入り込み、いずれも最初から国家が保護する護国仏教でした。この朝鮮半島に誕生した3国はいずれも仏教によって立国した中国の息がかかった殖民国家であった事が伺えます。そして、その延長が大和朝廷であると考えると日本での最初の仏教の位置が見えやすくなります。つまり大和朝廷への渡来民は朝鮮半島経由ですが、その中核に中国出自の仏教を用いた何らかの使者が居た事が推測されます。

map20朝鮮半島の仏教史

http://todaibussei.or.jp/asahi_buddhism/20.html [2]より借用しました。

★蘇我氏が企てた日本侵略

日本での仏教は538年百済の聖明王の使いが経典、仏具を伝来させた事を伝来の端緒にされていますが、それより少し早く蘇我氏が来ています。蘇我氏は渡来して間もなく朝廷に姻戚関係を作って潜り込み、その圧倒的官僚手腕を使って全国に屯倉(みやけ)を作り、既に大量渡来が始まっていた当時の朝廷内に彼ら渡来民を組み込む目的で仏教を認めさせます。

それまでに国内の豪族連合は物部氏が取り仕切る神道で統合されていましたが、蘇我氏は仏教の登用を申し出て朝廷に認めさせた上で物部勢力を武力で押さえ込み、朝鮮半島から渡来した勢力を仏教を用いてまとめるとその力は頂点に達していきます。

h01_photo-main(法隆寺写真)

 実質的には天皇と並ぶ力を有していたと言われる蘇我入鹿は645年にクーデター(一巳の変)で殺害されます。今でも謎の豪族と言われる事が多い出自のわからない(一説では百済の高官?)蘇我氏ですが、先に述べた中国から朝鮮半島への仏教を用いた殖民支配の手法の流れを見て行くと、この蘇我氏とはまさに百済経由で中国が送り込んだ(仏教を使った)黒幕であり、日本支配の中心人物ではないかと推察されるのです。

 

★仏教は国家建立に必要な仕組みだった

蘇我氏消しのクーデターとは当時の大和朝廷を支えていた豪族連合がこの蘇我氏の狙い(侵略)に気がついて、このままでは国が乗っ取られると危惧して手を下した天誅ではないでしょうか。大和朝廷を支えていた豪族連合とは葛城系から連綿と続く神道系の豪族です。本来ならここで仏教対神道の逆転が起き、仏教への流れは止まるはずなのですが、実際には蘇我氏亡き後も蘇我の政策は引き継がれ、仏教への依存、傾斜は継続します。

 天武天皇、持統天皇を経て、藤原不比等によって日本でも朝鮮半島同様に律令を軸とした護国仏教が成立します。一方で神道は天皇制として温存され、奈良時代の国家黎明の時代に既に神道、仏教が合い並ぶ事になります。神仏習合が唱えられたのは明治以降ですが、日本は既に仏教定着の時代から神仏並存の状態にあったと言えます。

なぜ蘇我亡き後に神道に戻らなかったのか、なぜ神仏が並存したのか?次にその理由について考えてみます。

 

★日本での仏教創始から見える目的とは

これは当ブログのグループで議論して導き出したのですが、結局のところ日本においては仏教とは(当時の)国家統合の唯一の手段だったのではないか?という仮説です。

既に白村江の戦いで破れ、唐の勢力による侵略の危機にさらされていた大和朝廷は一刻も早く国体を作らなければなりません。急場を凌ぐ策として既に蘇我氏によって注入されていた唯一の統合手法である仏教を用いて国家建立を急いだのです。既存の宗教として神道を持ってはいましたが、神道では律令化も中央集権化へも筋道が成り立たず、必然として国家統合に仏教、大衆統合には神道という分化が行われたのでしょう。

だから日本での仏教は最初に仏教建築という形から入り、直ぐに律令制、国家体制へと繋がり、官僚が難解な仏教を学んだのです。

一方で神道はその土地の神(=人々の共認)と中央の天皇をつなぐ役割において機能しており、共同体を残存させ、その頂点に国家を作った日本としては神道もまた統合に組み込まれ機能していました。

つまり、仏教が国家の貴族、公家といった上位構造の統合を担い、神道が大衆統合を担う、この2重構造が日本の場合、国家黎明の時代から働いていました。故に奈良時代、仏教は護国仏教として大衆とかけ離れたところに在り、その思想としての中身の方は当面、必要なかったのです。

東大寺春日大社

 奈良時代に同時に建立された東大寺と春日大社

 ★まとめ

日本での仏教の登場は宗教としての思想性が薄いという点で、非常に特徴的であり、中国、朝鮮半島と同じ護国仏教とはいえ目的は異なります。以下今回の記事で示した事をまとめておきます。

1.中国は仏教の可変性を使い、国家統合のしくみとして改変して用いた(その実態は道教であり、儒教だった)

2.朝鮮半島の護国仏教とは中国の殖民支配の一環である。

3.蘇我氏による日本への仏教渡来、拡大は中国支配の使者だった。

4.蘇我氏暗殺は既存豪族による侵略排除の動きではないか。

5.奈良の護国仏教とは国家建立の手法の一環だった。

6.神道が残ったのは、日本の共同体性の現われだった。

7.日本は仏教が国家の政治統合を担い、神道は大衆統合(支配)を担う2重構造で始まった。

8.日本での仏教は仕組みだけが必要で、中身は2の次であった。

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