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日本の帝王学~各時代における支配者層の教育とは?~ 3、鎌倉時代の家訓

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鶴岡八幡宮
 みなさん、こんにちは!今回は鎌倉時代の為政者・統治者の哲学≒帝王学を時代背景とともに見ていきたいとおもいます。
 前回、桓武天皇から始まるとされる平安時代の帝王学=統治手法を見てきました。当時は、藤原氏の全盛期で、貴族の優雅な文化が有名で約390年間も続きました。初・中期は、神社の格付け(延喜式)の制定による万世一系の天皇制の固定と庶民の共同体を守ることで秩序化され、安定化を目指した社会でした。しかし、後期になると、私権・市場原理の浸透に伴い、変質していき、ほころび始めます。律令制の破綻、税制の破綻が民の生活を圧迫していきますが、一部の農村出身の武士や農民自身は力をつけ始めてきました。
 そして、台頭してきた庶民=武士・農民が、貴族・皇族に代わって新たに政治中枢を打ち立てたのが鎌倉時代でした。しかし、彼らは、社会統治・政治を知らず、無秩序な搾取と略奪を繰り返し、下層農民を圧迫していました。
 こうした中、幕府は、新たな社会秩序の構築に入ります。それは、幕府を超えた武士自身の戒めと弱者保護の政策をもって、公家・皇族の政治と違った政策を採りました。徐々に、下級武士も、民のことを考えないと社会は成り立たないことを理解していき、幕府の政治体制が磐石となっていきます。
 日本の政治体制が、天皇親政、摂関政治、院政、武家政権、執権政治と変わっていく中、現人神信仰・万世一系の天皇制や母系の系譜がほころび始め、力の原理による父系へと転換する中で、その観念に変わる新たな思想が必要になってきた時代でした。
 彼らは、どのような思想で民衆をまとめていったのでしょうか?その武家としての教訓=帝王学とはどんなものだったのでしょうか?
 そのキーワードの一つに、「撫民政策」という政策があります。撫でるように、民衆を大切にするという発想です。さて、この時代の帝王学とは???


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 一般的には、鎌倉時代は、1185年頃~1333年とされていますが、日本史では幕府が鎌倉に置かれていた時代です。朝廷と並び統治の中心となった鎌倉幕府による本格的な武家政権による統治が開始された時代でした。
■当時の時代背景
鎌倉時代 Wikipedia [1]によれば、
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◆その政治は、
鎌倉時代は武士が政権を獲得した時代と一般には認識されているが、依然として京都は鎌倉を凌ぐ経済の中心地であり、朝廷や公家、寺社の勢力も強力だった。武家と公家・寺家は支配者としての共通面、相互補完的な側面、対立する面があった。よって朝廷の支配との二元的支配から承久の乱を通して、次第に幕府を中心とする武士に実権が移っていった時代とみるのが適切であろう。
鎌倉幕府は当初、将軍を中心としていた。源氏(河内源氏の源頼朝系)直系の将軍は3代で絶え、将軍は公家(摂家将軍)、後には皇族(皇族将軍)を置く傀儡の座となり、実権は将軍から、十三人の合議制へ移る。さらに和田合戦、宝治合戦、平禅門の乱などにより北条氏以外の他氏族を幕府から排除すると、権力を北条氏に集中させる動きも強まった。そうして実権は、頼朝の妻である北条政子を経て、執権であった北条氏へ移っていった。
~中略~
また、貨幣経済が浸透。多くの御家人が経済的に没落して、凡下(庶民階級・非御家人層)の商人から借財を重ねた。
◆時代の思想(宗教)は
仏教の革新運動
平安時代までの難解で、大衆への布教が禁じられていた仏教を変革する運動として鎌倉新仏教の宗派が興隆すると、南都仏教(旧仏教)の革新運動がすすんだ。大きな特徴は、平安時代までの鎮護国家から離れた大衆の救済への志向であり、国家から自立した活動が行われた。
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という時代背景です。
 公家・寺家政権から武家政権に統治が移り、源氏三代から北条執権へと移った時代でした。仏教は、大衆へと広がりを見せ、禅宗も導入され、貨幣経済という市場原理が浸透した時代でありました。武士は、平安時代、国家から土地経営や人民支配の権限を委譲され成長した有力百姓等の統制の必要から、軍事権を委譲された貴族や下級官人層などが武士として成長していきました。しかし、鎌倉時代には、彼らの農民への搾取が横行し、税収減、幕府の存続が危ぶまれました。
 このような私権・市場原理が導入される中、国家秩序の乱れに対して、平安時代の現人神信仰・万世一系の観念に変わる、新しい武家政権の大義名分と統合観念=超越観念が必要となった時代でした。
 それは、北条氏が主導した、御家人の私的な権力を越えた戒めの思想、及び、民衆弱者救済も含む制度『鎌倉幕府法(=撫民法)で制定された撫民政策(「撫民」=「民を撫でる」、撫でるように民を大事にする民生政策や御成敗式目)』でした。
◆撫民政策とは
「鎌倉時代の撫民政策(撫でるように民を大事にする)」新川啓一さん [2]より紹介します。
———————————————-引用
歴史的に、日本の支配者層は大衆への配慮(村落共同体を壊さない)を行い、大衆はお上意識によって社会統治を支配者に任せ切ってしまうという、独特のシステムを続けてきました。
鎌倉時代、公家から武士へと支配者が替わっていった際に、より大衆に近い武士たちは大衆への配慮を深くして行きます。
鎌倉時代、北条時頼が始めた「撫民政策」(民を撫でるように大事にする)についてお届けします。
中村孝之氏のブログから、「NHKさかのぼり日本史 鎌倉 ”武士の世”の幕開け 北条時頼 万民統治への目覚め」 [3]を紹介します。
(以下引用)
(前略)
鎌倉時代の初期、武士は農民に対して略奪を繰り返していました…その為、村から逃亡する農民が相次ぎ年貢収入が減少、幕府は存続の危機に晒されました。
事態を打開しようと時頼が始めたのが撫民(民を撫でる)政策でした…農民を撫でるように大事に扱おうというのです。…これを浸透させるために時頼は、禅宗を通して武士に慈悲や忍耐の精神を学ばせ武士そのものの在り方を変えようとしたのです。
やがて武士の中に撫民の心が徐々に芽生え、公家に代わる新たな統治者としての自覚が高まります。
(中略)
◆撫民政策が開始される以前の時代とは?
●鎌倉時代初期 統治に未熟な武士
12世紀末、源頼朝は、鎌倉に日本史上初めて武士による政権を打ち立てます…鎌倉幕府です。それまで公家の土地を管理していただけだった東国の武士たちは、以後、御家人と呼ばれ土地を手に入れ、年貢を自らのものとしていきました。
ところが朝廷の支配から解放された武士の中には、年貢収入だけに飽き足らず、農民に不法行為を行う者が現れます。
この頃、農民から幕府に出された抗議文には、「夜中にあまたの武者が乱入…物品をことごとく奪う」…幕府が支配する東国では、耕作を放棄する農民が続出、ある村では人口の半分以上が逃亡する事態にまで発展します。…その結果、  武士の中には、農民から十分な年貢を集められなくなる者も出てきました。
貞永元(1232)年、こうした状況を打開しようと幕府は初めての法令を定めました…”御成敗式目”です…「農民の家から物品を奪い取ったとしたら速やかに返すように」、この法令によって武士の規律を正し農民から安定的に年貢を集めようとしたのです。
しかし、頼朝が亡くなった後、幕府では有力武士同士の権力闘争が熾烈を極め、幕府の統率力は失われていました。法令を制定しても末端の武士たちまで従わせるには至らず、農民からの収奪は依然として止む事はありませんでした。
(中略)
◆北条時頼の撫民政策
 鎌倉の古刹・建長寺(鎌倉市)は、鎌倉幕府の5代執権・北条時頼によって建立されました…御成敗式目の制定から14年後、幕府の実権を握った人物です。
時頼が執権に就いた13世紀半ば、幕府の中には依然として有力武士の権力闘争が続いていました…時頼は、当時最大の勢力を率いて幕府に反乱した三浦氏を攻め滅ぼします。
これによって自らの地位を確固たるものとし、幕府の政治の安定に乗り出します…時頼が最も心血を注いだのは法令を無視して農民に不法行為を繰り返す武士たちの統制でした。
その政策を伝える資料が東京大学に残されています…御成敗式目の後に出された追加法をまとめたものです。…建長5年、時頼が始めたのが撫民政策でした…年貢収入の基となる農民を撫でるように大事に扱おうというのです。
「民が大金を盗むという重罪を犯しても本人一人の罪であり、親類妻子まで罪に問うてはいけない」
「民と掴み合いをしても武士にけがが無い場合は、罪に問う事は出来ない」
時頼は撫民政策に従わない武士たちに厳しい処罰を課していきます。
更に時頼は撫民政策を浸透させる為、武士そのものを変えようとします…日本に伝わって間もない禅宗を取り入れ、建長寺を建立、厳しい修行を通して武士たちに慈悲や忍耐の精神を学ばせたのです。
また作務と呼ばれる寺の日常的な労働に取り組ませる事で決まりごとを遵守する素地を植え付けていきました…。
その後、幕府は鎌倉に次々と禅寺を建立、有力武士から末端の武士まで修行を奨励しました…こうして武士の中に民をいたわる撫民の心が徐々に芽生えて行くのです。
Q:つまり武士のスタンスの大転換なのですね。
東京大学史料編纂所 准教授 本郷和人
「長期的に安定的に収穫を望もうと思ったら、その土地に対してケアをしなければならない…そうなると民衆と真摯に向き合うということが必要になってきたのです…そこで出てきたのが撫民という言葉です」
「日本は、乱暴な殺伐とした歴史が他の国と比べると無いのです…その中でも一番権力闘争が激しかったのが鎌倉時代の初めなのです…次から次へと有力な御家人が倒されていく…最後は北条氏が勝ち残ったのですが御家人たちはへとへとになってしまって…ここいらで精神、心の充実を図ろうというようなことが気運として盛り上がってくるのです」
◆徐々に浸透する撫民政策
 撫民政策を推し進めた時頼は、幕府の裁判の在り方にも取り組みました…それまでは、民の訴状は中々受け付けられる事はありませんでしたが…人員、部署を増設し民の訴状にもキッチリ対応できる体制を組みました。
訴訟が公正に行われるようになって武士の農民に対する態度は、次第に変わって行きました…時頼に仕えた幕府高官が残した家訓です。
「百姓をいたわりなさい…頼み事があるときは、おんびんな態度でお願いしなさい…屋敷に百姓が訪ねてきたら酒の一つでも振舞ってあげなさい」
鎌倉時代中期、武士の間に広まった撫民の心、武士たちは公家に代わる新たな統治者として目覚めてゆくのです。
北条時頼の撫民政策によって武士は民衆の利益を優先する統治者へと成長し、東国において、その統治の経験を重ねて行ったのです。
(以上引用終わり)
———————————————-終了
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御成敗式目の一部
 己を戒め、弱者である民衆を救済するという当時の武士の思想は、武士道に繋がる統治の論理であり、武士自身の家訓として始めて成文化され、子孫に伝えるという思想が生まれました。平安時代の現人神信仰・万世一系の天皇制という統治観念に変わる武家政権の根幹が、撫民政策御成敗式目であったと思われます。
 こうした中、六波羅探題北方・鎌倉幕府連署など幕府の要職を歴任し、第3代執権・北条泰時から第5代執権・北条時頼を補佐して幕政を主導しながら鎌倉幕府政治の安定に大きく寄与した北条重時 [4]武家最古の家訓>『六波羅殿御家訓』『極楽寺殿御消息』等を残していきます。
◆武家最古の家訓:北条重時の『六波羅殿御家訓(ろくはらどのごかくん)』『極楽寺殿御消息(ごくらくじどのそしょうそく)』とは?
 「六波羅殿御家訓」は43か条。重時が息子長時(後に6代執権)への教訓として書いたもののようで、武家の主人としての心構えから礼儀作法や服装に至るまでこと細かに指示した処世訓。「極楽寺殿御消息」は99か条から成り、具体的な教訓もあるが、神仏の信仰とそれによる心の修養を説き、仏教の思想色が濃いようです。両家訓からは重時の宗教観・倫理観、鎌倉時代の武士の生活や主従関係など一般的な思想がうかがえるようです。
 代表的な家訓 [5]を具体的に見てみましょう。
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◆戒め
★悟りを開いた境地に到達するには、物に捉われぬ心が大切だ。他人のためにわが財を惜しまず、また、賢者であっても天下の要職に登用してもらおうと気にかけたりなどしないことが肝要だ。つねにこのような心でいなさい。
★ひたすらに、人のため世のために尽くすように努力することを念願としなさい。それは、行く末のためというものだ。白い鳥の子はその色が白く、黒い烏には黒い色の子が生まれるものである。また蓼(たで)という草は幾度生えかわっても、その味の辛さは受けつぐものであり、甘いものの種は甘い味を受けついでいくものである。そのように、ひとつの事柄は次から次へと影響を及ぼすものであって、人間も、人のためによくしようと思う者は、後の世になってわが身によい報いは来るものである。自分のことばかりを考えないで、世のためになる事を考えなさい。
★乱れ遊ぶとき、平常おとなしい人が気分をゆるして自由な振る舞いをするからといって、一緒になって狂いまわるのは、浅はかなことだ。よく心得て、そんなことのないようにしなければいけない。鵜の真似をする烏は溺れ死ぬ。むやみに人真似をすることは厳に慎むべきだ。狂い遊ぶことがあって、どんなに酒に酔っていても、自分よりおとなしい人がいる前では、着物の乱れにも注意して直すようにしなさい。どんなに騒がしく振る舞っても、精神だけはしっかりと保って、落度のないよう注意することが大切だ。
◆部下への敬い
★自分を敬う部下がいるならば、その者以上に敬ってやるといいだろう。また、自分を敬わぬ者だからといって、敬ってやる心を捨てるのはよくない。人の心というものは、本心は誰しも変わらぬものだから、自分が敬って人から敬われぬようなことがあっても、恩を仇で報いる憐れむべき輩と考えて、一層それを敬ってやるといいだろう。
◆家臣・庶民・女子供・場への配慮
★大勢の人たちと一緒に座り込んでいるとき、茶菓子などが出された場合に、自分もそれを取って食べるように振る舞っても、わざと取りはずしたふりをして、他の者にたくさん取らせるといいだろう。それも人の気付かぬように。
★たとえ身分の低い者であっても、見送りをしてくれるならば、馬をそちらの方向に引き向けて、丁寧に礼をするといいだろう。身分の低い者でも、帰る際には少し見送ってやるのがよく、とにかく、人よりも余計に礼を尽くすのがよろしい。
★所領の田畑の事について、みすぼらしい身なりをして、恥じらいながら、ご相談がしたいといって、やって来る者がいるならば、家に上げてやるがよい。それが、たとえ卑しい身分の者であっても、侮ったものの言い方をしてはならない。やって来る人の位や身分によって、もてなしは違ってもよいが、ことに百姓の者がやって来た場合は、できれば酒を振る舞ってやるといいだろう。そのようにしてやると、同じ公の事であっても、喜び勇んで注進にもやって来るのだ。また百姓の下男でも、卑しみ侮ってはならぬと、家の者たちにいいつけておくとよいだろう。
★物乞いの者が来たら、型通りでもよいから、すぐに物を与えるとよいだろう。たとえ物を与えなくとも憐みの心をもって同情の言葉を与えてあげるといい。何も与えないで、邪険な言葉を吐くようなことがあってはならない。物乞いのやって来るのも、仏の御指図と考えるがよい。
★女子供だからといって、決して軽く扱うべきではない。天照大神様も女神であらせられるし、また、神功皇后も御后様であられ、しかも三韓出兵という大業をなされ給うたのである。なお、幼い者とても軽く扱うべきではない。老いたる者に頼ってはならず、また、若い者にも頼ってはならない。心を正直にして、君を尊崇し民を可愛がる者こそ、聖人と称していいのだ。
—————————————–終わり
です。ここから見えるのは、己を律し、戒め、質素倹約、質実剛健、家臣や弱いものへの配慮、敬いなどの当時の為政者の姿が垣間見られます。これは、西洋の君主論=帝王学とはかなりことなります。また、7世紀の唐代に作られた帝王学の原点ともいわれる貞観政要(じょうかんせいよう) [6]の思想と仏教の影響を受けているようです。(北条政子の思想背景になったようです。)
こういった鎌倉時代の統治者の学=帝王学は、武家自身の戒めと庶民への配慮が見られ、武士道へと成長してきます。
 日本とは本当に不思議です。鎌倉の大仏が奈良の大仏と異なり、少し下界を見るような視線で作られていることからみても、為政者・統治者にて作られた思想や統治手法が時代のイデオロギー(共認のための方便)であったとしても、外来の私権・市場原理に惑わされず、庶民の共同体を壊さずともに生きてゆくという統治手法をとっていることです。
 また、下層武士であってもこれらの規範や規律で己を律して、共認して社会を安定・秩序化させるという方向に進んでいくのです。ここにも、縄文の受入れ体質と規範性が深く浸透していることがわかります。 
 さて、次回は戦国時代の統治者の学=帝王学を見てみましょう。乱世の世をどういった統治手法で統合していったのか?を見ていきましょう。
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