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なぜインドで仏教が根付かなかったのか6~仏教の成立、社会とのズレ

皆さんこんばんは。なぜインドで仏教が根付かなかったのかシリーズ。
今回はいよいよその本丸となる仏教の成立に目を向けてみたいと思います。
題して、 「仏教の成立、社会とのズレ」
さて何がズレていたのでしょうか。
見てゆきたいと思います。
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画像はこちら [1]からお借りしました


ご存じのように仏教は、インド北部にて「お釈迦様」こと仏陀が開いた宗教です。
キリスト教やイスラム教が発祥地で今も多くの信者がいるのに対して、仏教はご当地インドではすっかり廃れてしまいました。
新興の仏教は、結局土着の宗教(というより規範・秩序体系にちかい)であるヴァルナ教=ヒンズー教への回帰の中で廃れてゆきますが、これは教義教典の内容云々というより、当時のインド社会において仏教は大衆の意識から「ズレていた」、ゆえに長期にわたる社会共認を得られなかった、というのが実態と思われます。

さて、当時のインドはどんな社会だったのでしょうか。
これは前回の「古代インドの社会構造」 [2]の中で扱いました。
意識の根底には社会規範や役割規範の要となる伝統的な身分制度「カースト制度」が強く存在していましたが、その一方で当時の古代インドは小国家が勃興、抗争、衰退を繰り返す極めて不安定な時代を迎えており、さらに浸透する貨幣経済の中で商人等の中産階級が台頭し、社会の秩序が大きく揺さぶられていた時代でした
そこで「仏教」も産声を上げますが、当時は他にも様々な思想や観念が登場した百花繚乱の時代であったことにまず注目する必要があります。
以下、山崎元一著 「世界の歴史 3 古代インドの文明と社会」 より引用します。

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画像はこちら [3]からお借りしました

非正統派思想の興起
新思想の誕生
六十二見と呼ばれる思想家群
 
仏教興起時代においても、バラモンたちは、ガンジス川上流域(ガンジス・ヤムナー両河地域)を中心に、自分らの教学を充実させるための努力をつづけていた。かれらの思想をここでは「正統派」と呼ぶことにしたい。しかし、こうしたバラモンの教学は一部の特権集団のみに関わるものであり、宗教運動としては停滞を免れなかった。東方の地に興った「非正統派」の宗教運動は正統派のそうした弱点を衝き、下層民をも加えた大きなうねりとなって展開した。
 ガンジス川中・下流域における政治・経済の発展を担ったのは、国王を頂点とするクシャトリヤ・ヴァルナと、バラモンたちから低い地位を与えられてきた商人階層であった。かれらはいずれも部族制の束縛を脱し、伝統にあまりとらわれることなく行動した。
(中略)
非正統派の主張
 この時代のガンジス川中・下流域で活躍した思想家の間には、いくつかの共通点が存在する。
その第一は、いずれもヴェーダ聖典の権威とヴェーダの祭祀の有効性を否定していること である。
とくに多数の犠牲獣を必要とする大供犠が攻撃の的となった。輪廻転生思想の発達もあって、動物の殺生を厭う傾向が出てきたが、そうした風潮も供犠批判を促している。
 
共通点の第二は、宗教・思想におけるヴァルナ差別を否定したこと である。
バラモンに特別な地位と権威を与え、思想と行動をヴァルナの枠に押し込めようとする制度は、都市で活動する入びとにとって受け入れがたいものである。新思想家たちの主張は、王侯から下層民にいたる都市の住民に歓迎された。
 
共通点の第三は、思想家たちが広範囲の人びとを対象に、平易な言葉で教えを説いたこと である。
この態度は、難解なヴェーダ聖典を独占的に伝えてきたバラモンの態度とは対照的といえよう。仏教の経典もジャイナ教の経典も、初期のものは俗語(プラークリット語)で編まれている。
 
共通点の第四は、いずれの思想家も個人として自己主張をし、信者たちも出身ヴァルナや出身地に関係なく個人として帰依していること である。
生まれではなく、個人の能力、意思、行為が評価された。「個」が血縁の中に埋没していた前代の社会には見られなかった現象である。
以上引用終わり

社会潮流の中で様々な思想が芽生え始めていた、そしてその担い手は、貴族や商人を皮切りに、下層市民へと広がっていった事がよく分かります。
興味深いのは、彼らは古代宗教にありがちな死後の「救い」を求めたのではなく、既存の権威や枠組みを取り払うことで、より自由で広範な思想や行動を希求した点です。
現実社会の中で充足感や活力源を見いだそうとする、インド大衆の活動的な姿が目に浮かびます。
こうした中でいよいよ仏教があらわれます。 
以下、引用します。

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仏陀の悟り 画像はこちら [4]からお借りしました。

仏教の成立
ブッダの生涯とその教え 
仏教の開祖ゴータマ・シッダッタ(ガウタマ・シッダールタ)は、ヒマラヤ山麓に拠っていたシャーキヤ(釈迦)族の有力者の家に生まれた。
(中略)
 ゴータマは生後すぐに母を失ったが、叔母の手でなに不自由なく育てられ、結婚して一児をもうけた。しかし感受性ゆたかなかれは、恵まれた環境の中にあっても老・病・死をはじめとする人生の問題に悩み、29歳のとき妻子を棄てて出家した
 出家したゴータマは、新しい宗教活動の盛んであったマガダ国に行き、6年のあいだ苦行に専念したが、満足な結果はえられなかった。そこで苦行をやめ、今日のブッダガヤーの地に移って、菩提樹の下で静坐・瞑想に入り、悟りを開いた。35歳のときのことである。これ以後ゴータマは、ブツダ(仏陀、悟った者)、シャーキヤ・ムニ(釈迦牟尼、シャーキヤ族出身の聖者)などの尊称で呼ばれることになった。
 その後の45年間、ブッダはマガダ国・コーサラ国をはじめとするガンジス川中・下流域の諸国を旅して回り、修行と教化の日々を送った。教化の対象は、王族やバラモンから、都市・農村の下層民にまでおよんでいる。
(中略)
 ブッダは生きることを「苦」とみて、そこから脱するための道を求めた。
そしてその苦の原因が、諸行無常(あらゆる存在は遷り変わる)という真理に気づかず、無常である存在に執着するところにあることを知った。人間はいつまでも生き長らえることなどできず、また最愛の人ともいつかは死別する。こうした諸行無常の真理をわきまえない無意味な願望が煩悩であり、その煩悩のとりこになった凡人は、迷いのうちに輪廻転生をくり返すとみたのである。
(中略)
仏教教団サンガの成立
 ブッダは悟りを開いたあと、ブッダガヤーの地を離れて、ヴァーラーナシー(バナーラス)へ行き、郊外の鹿野苑(ろくやおん)(現サールナート)で苦行時代の5人の仲間に教えを説いた。これが初転法輪(しょてんほうりん)といわれる出来事である。この5人がブッダの弟子になったことにより、仏教教団が誕生した。
 その後もブッダの周りに、かれと同じ方法で悟りをえようと志す出家者(比丘(びく)、原語のビクシュは乞食する人の意味)が集まり、教団はしだいに大きくなった。仏教教団をサンガ(僧伽(そうざや))と呼ぶが、これは集団、共同体を意味する語である。仏法僧という三宝のなかの僧は、個々の僧侶の意味ではなく、仏教教団サンガのことである。

以上、引用終わり
他の思想と違い仏教が特徴的なのは、まず開祖仏陀が、裕福な階級の出身なのにも関わらず 「すべてを投げ出している」 点、そして悟り、解脱といった、あくまで 現実社会からの超越を志向 している点です。
もっとも、これを大衆にも響く観念体系としてまとめ上げたのはやはりお釈迦様の凄いところで、存命中は広く大衆に受け入れられたようです。
しかし、仏陀の非凡な能力とカリスマ性に依存していた感も否めず、現実に立脚しない観念群に支えられた思想基盤の脆さは、彼の死後すぐに露呈します。
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仏陀の死を嘆く弟子たち。画像はこちら [5]からお借りしました
以下引用です

仏教の展開
仏典編集のはじまり
ブッダの没後、師の言葉の理解をめぐって意見の対立の生ずるおそれが出たため、長老マハーカーシュヤパ(大迦菓(だいかしょう))は、ラージャグリハ郊外の七葉窟(しちようくつ)に500人の比丘を集め、教団の規則(律)とブッダの教説(経)を確認しあった。これが第一結集として知られる仏典編集会議である。
 結集の原語「サンギーティ」は「一緒に唱えること」という意味である。当時の教団では文字を使用しておらず、全員でくり返し唱えることによって暗記したのである。このときの律と経が、後世の諸部派によって多少の改変の手を加えられつつ伝えられ、今日の『律蔵』と『経蔵』になった。
仏教教団の分裂
 第一回の仏典結集から100年間は、教団の統一がなんとか維持された。そしてこの間に仏教は、通商路にそってガンジス川上流域や西インドに伝えられた。
教団の組織は、ローマ・カトリック教会の組織とは異なり中央集権的なものではなく、一地方の比丘の全員が集まったところに一つの自治的な教団が形成されるというものである。そのため布教活動が遠隔地におよぶようになると、地方で独自の活動を行う集団も現れた。 
仏滅後100年(あるいは20年)に開かれた第二回の仏典結集は、ガンジス川中流域の豊かな都市で安易な修行生活を送る比丘たちと、遠隔地の厳しい環境のなかで布教・修行の生活を送る比丘たちとの対立というかたちをとった。
 (中略)
 戒律や教義の理解をめぐるこのような対立が原因となって、第二結集のころ(一説によると第二結集の結果)、教団に最初の大分裂が生じ、保守派の上座部(テーラヴァーダ)つまり長老たちの部派と、革新的な立場をとる大衆部(だいしゅうぶ)(マハーサンギカ)が成立した。
さらにその後の200年間に、二大部派の内部に新たな分裂が生じ、合計20ともいわれる部派となった。 

以上引用終わり
現実離れした理想論、観念論をこねくり回して対立し、権力闘争と分裂を繰り返す。
そこには社会や人々の意識に目を向けた形跡はありません。
まるで、どこかの国の学者や政治家達を見ているようです。
ここで、現実に立脚したかつての社会秩序体系がリバイバルします。
以下引用です

正統派の抵抗-ヴァルナ制度の理論と現実
ヴァルナ制度の理論的根拠
 ガンジス川中・下流域で都市が発達し、入びとがヴァルナ制度の諸規則にとらわれずに活動していたころ、その西のガンジス川上流域は、依然としてバラモン文化の中心でありつづけた。
(中略)
バラモンたちは、時代の流れに抗し、身分秩序の強化と維持をめざしてヴァルナ制度の理論の確立を図った。そうした努力の結晶が、『ダルマ・スートラ(律法経)』 である。
ダルマとはインド思想の中心概念の一つで、真理、教理、義務、法律、慣行などさまざまな意味をもつが、ダルマ・スートラのダルマは、各ヴァルナに属する者が守るべき宗教的・社会的な規範を意味している。「スートラ (経)」とは、暗記しやすいように要点を簡潔に記した作品のことである。
 この文献の語るヴァルナ制度の理論は、およそ次のようなものである。
 
(1)人間社会は、バラモンを最高・最浄とし、クシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラと、しだいに地位・浄性を低下させる四つのヴァルナから成っている。
この世の生まれは前世の業の結果であるから、人は生涯にわたって自分のヴァルナから離れることはできない。
 
(2)各ヴァルナは独自の職業と結ばれている。それぞれのヴァルナに生まれた者は、自分のヴァルナの職業に専念せねばならない。それこそが、よりよい来世をえるための最も功徳ある行為である。
 
(3)各ヴァルナに属する者は、同じヴァルナに属する者と結婚せねばならない。また各ヴァルナの成員は、日常生活において、それぞれのヴァルナにふさわしい慣行を守らねばならない。
 
(4)四ヴァルナの区別は人類出現の昔にさかのぼる。人間の生命がランクと機能を異にする身体の各部分の調和によって維持されるように、社会は四ヴァルナがそれぞれの役割を果たすことによって、平安に維持される。
 
 
結婚に見られる柔軟な現実対応
しかし現実には、ヴァルナ制度の理想とは相容れないさまざまな事態が生ずる。『律法経』 の編者であるバラモンは、こうした事態にきわめて柔軟に対応した。そうした対応は結婚と職業の問題によく示されている。
 ヴァルナ制度は、各ヴァルナの成員が自分と同じヴァルナの者と結婚することによって維持される。しかし違法とされる異ヴァルナ間の結婚はしばしば見られ、その結果として混血の子も多く生まれた。これを放置するならば、ヴァルナ制度は根底から崩れてしまう。
 この事態に対処するため、バラモンはアヌローマ(順毛)の理論を唱えた。つまり、男が上位ヴァルナ、女が下位ヴァルナの組み合わせを、髪の毛を上から下にとかすような自然な関係と認め、この組み合わせを準合法としたのである。
(中略)
窮迫時における柔軟な現実対応
 ヴァルナ制度では、人びとは自分のヴァルナに固有な職業で生計を立てるよう求められている。しかし現実の生活においては、その理想に反する事態がしばしば生じた。
(中略)
 理想と現実の間のこうした矛盾は「窮迫時の法」という臨時法を定めることによって解決された。困窮に陥っている者にかぎり、下位ヴァルナの職業で生活することを準合法として認めたのである。
(中略)
「窮迫時の法」は、あくまでも臨時的な救済法であり、本来の職業で生活できるようになった者は、ただちにその生活に戻らねばならない。しかし現実には、この法を一つの口実として、自己のヴァルナの職業とは異なる雑多な仕事に従事する者は、きわめて多かった。このように「窮迫時の法」は、ヴァルナ制度の理想と現実との間の溝を埋め、四ヴァルナの大枠を維持させるための有効な理論だったのである。

以上、引用終わり
なんと柔軟で現実的な制度でしょう!
一目して、仏教など、かないっこない!と思ってしまいます。
と同時に、仏教のなにがズレていたのか、その中身が鮮明になってきました。

仏教は現実社会やそれを構成する人々の意識を対象化せず、現実を捨象した観念世界に埋没してゆきます。観念世界に埋没すればするほど、みなの意識からズレてゆく、というのは当然といえます。
これでは人々の期待に応える事など出来ません。
挙句の果てには教団内で権力争いと分裂を繰り返してゆきます。
これでは大衆に受け入れられ、定着する訳がありません。

もっとも、新興宗教が勃興する中で、バラモン階級もその存在意義をかけて、現実と人々の意識を直視し、硬直した思想と体制を見直したのかもしれません。
その結果、社会秩序を司る身分制度を「安定」基盤としつつ、様々な現実の問題に柔軟に対応する「変異」の要素を併せ持つことで現代まで続く精神基盤となり得ました。
そしてこれが、「ヒンズー教」へと発展してゆきます。

「安定」と「変異」は様々な外圧に適応するための、いわば「自然の摂理」です。
社会秩序もまたその例外ではないと言うことが、この事実からも見て取れます。
翻って現代社会を見ても、今は「自由」や「個人」を偏重し、序列や身分制度を旧弊とする風潮があります。しかしこれは「普遍」「安定」をないがしろにした、いびつな社会体制と言えるのではないでしょうか。現代社会の諸問題もこうした観念の「偏り」に起因していることは明らかです。
観念のみに傾斜し、社会とどんどんズレて行ったインドの仏教。
「安定」と「変異」を両輪とし大衆に深く浸透していったバラモン教とカースト制度。
現代社会の諸問題を解く鍵もここにあるように感じます。

このバラモン教がさらに発展し、諸聖典やカースト制度を引き継ぎながら出来上がったのが、現在ほとんどのインド人が帰依する「ヒンドゥー教」です。
次回はこのヒンドゥー教をつぶさに見てゆきたいと思います。

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