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なぜ仏教がインドで根付かなかったのか?5~古代インドの社会構造

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写真はこちら [1]からお借りしました
前回は、「身分制度・ヴァルナの形成」をお届けしました。
今回は、仏教が生まれた時代はどのような社会だったのかを見ていきたいと思います。
 仏教が生まれた時代のインドは幾つもの都市王国が頻繁に闘争を行っており、徐々に統合されていく時代でした。
仏教が生まれた時代と言うと、自分の内面を見つめる平和で落ち着いた社会をイメージしてしまいますが、現実には交易による経済発展と貧富の差の拡大、王に対して商人が力を付け、市場拡大が進展する、私権獲得の可能性が開かれた時代でした。
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それでは、仏教が生まれた時代のインド社会の様子を見ていきましょう。
『古代インドの文明と社会 山崎元一著』からの引用です。

(以下引用)
■古代王国の成立
●ガナ・サンガ国の興亡
ブッダはガナ・サンガ国に生まれた
仏教興起時代(前六〇〇~前三ニ○年頃)の初期、北インドにはマハージャナパダ(大国)と呼ばれる国家群が割拠していた。十六大国と総称されるそれらの国々を国家の形態から眺めると、ヴリジ国やマッラ国のように部族共和制(ガナ・サンガ制)を採る国と、マガダ国、コーサラ国のように王制を採る国とに分類できる。
 ここでいう部族共和制国とは、ガナ・サンガなど「集団」「共同体」を意味する語で呼ばれる国家であり、部族的な集団支配を特色としていた。(中略)
ブッタの時代の北インドに存在したガナ・サンガ国の多くは、ガンジス川北岸からヒマラヤ山麓にいたる地域に拠っていた。小国ではあったが、ブッタの出たシャーキャ (釈迦)族の国もガナ・サンガ政体を採用している。
(中略)
●王国の強大化
仏教興起時代に入ると、ガンジス川の中・下流域に、専制的な王を戴く強国が台頭してくる。
そうした王国の官僚組織と軍隊を維持するための財源は、米の栽培を中心とする農業生産の増大と、都市経済の発展による豊かな税収入によってもたらされた。諸国の王たちは群雄割拠の時代を生き抜くため、富国強兵策を進め、出身地や出身部族、ときには出身ヴァルナにこだわることなく、有能な者を臣下の列に加えた。

(中略)
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写真はこちら [2]からお借りしました
 王の周囲にはまた、プローヒタと呼ばれる宮廷司祭長を中心とする司祭者群が存在した。王権の強化のためにはバラモンたちの宗教的な補佐を必要としたからである。王は財物のほか村や土地を施与することによって、かれらのはたらきに報いた。その一方で王たちは、精神的な支えを仏教やジャイナ教などの非バラモン的な新興宗教に求め、教団に保護の手をさしのべている。
(中略)
仏教興起時代のガンジス川中・下流域では、都市(ナガラ、プラ)が発達し、都市を結ぶ交易活動が活発に行われた。貨幣の使用が始まったのも、ブラーフミーの名で呼ばれるようになる文字の使用が始まったのも、このころである。
厳格派のバラモンたちは郡市の生活を軽視し、商業とりわけ金融業を低級な職業とみていた。
 これに対し、仏教ではそれらの職業による利潤を正当に評価しており、また商人から経済的援助を受けていた。仏典のなかに都市の生活や商人の活動に関する記事が多いのは、そのためである。

(中略)
●商人と交易活動
 都市の経済活動の中心に位置するのはガハパティ(家長)と称される上流市民であった。かれらの代表は金融業者や交易商人であり、ときには都市行政の一端を担わされている。商業はヴァイシャ・ヴァルナの職業とされているが、現実にはバラモン出身やクシャトリヤ出身の商人もいた。
 遠路を往来する交易商人が運んだ商品としては、上質の織物、金銀象牙細工、宝石、栴檀香(せんだんこう)などの高級特産品、鉄製品やもろもろの金属などがあった。
(中略)
 海上貿易活動には、常に難破の危険が待ち受けている。商人たちは出発にさいし神々を祀ったり仏教教団に布施したりして、旅の安全を祈願した。無事帰国し巨富をえた者たちは、お礼詣でを行っている。
 これら大商人以外にも、多くの行商人たちが、荷を背負ったり、驢馬の背に載せたりして、村や町を渡り歩いた。村の集会堂が行商人たちの宿泊の場として利用されることもあったらしい。
 主要な街道にはところどころに関所が設けられており、商人から通行税や商品税を徴収した。貨幣の使用もこの時代に始まった。
インドでは、前六世紀ころはじめて国家の保証印をともなった貨幣が発行されている。
(中略)
 仏典は都市社会を背景にして編まれたものであるが、そこにおいても社会は、四つのヴァルナとその下の賤民階層という五つの大きな枠組みから成るとみられている。しかし四ヴァルナの順序はクシャトリヤを第一とし、それにバラモン、ヴァイシャ、シュードラがつづくという形に変えられている。
 これはブッダがクシャトリヤの出身であること、クシャトリヤが仏教を支持したこと、生まれを重視するバラモン至上主義の主張に仏教が批判的であったこと、などによるのであろう。クシャトリヤ重視の主張は、同じ非正統派であるジャイナ教の伝承にもみられる。
(中略)
●農村と森林
仏教興起時代は、商業活動に劣らず積極的な農業活動の行われた時代であり、開拓の進展とともに、新しい村落が数多く誕生した。ガンジス川中・下流域の平原で見られた集約的な水稲栽培は、単位面積当たりで麦や陸稲の栽培をはるかに上回る収穫をもたらし、マガダ国発展のための基盤を提供した。
(中略)
 耕地は一般に私有されており、農作業はそれぞれの家単位で行われた。村人の間には所有する耕地の広さ、家畜の数に応じた貧富の差が存在した。つまり、広い耕地を所有する地主、奴隷や雇人を使用する富農、主として家族の労働に頼る中農、他人に雇われて働く貧農などが、一つの村に住んでいるのである。富裕な農民は、都市の上流市民と同じくガハパティと呼ばれ、そのなかの有力者が、村長となり、末端の行政官・徴税官に協力して村内行政にあたった。
(中略)
 都市や村は広大な森林に囲まれていた。村の周囲の森の中では牛飼いや山羊飼いが、柵や小屋を作って住んでおり、森の近くの大工村の住民は、森に入って木を伐り出し、都市に運んで家を建てている。猟師たちは森の中の猟師村に住み、獲物の肉や毛皮を都市に運んで売った。
(中略)
 森を出て村や町の近くで暮らすようになった人びとは、村人や市民から、社会の最下層に位置する賤民として扱われた。不可触民として差別されたチャンダーラの多くがそうした森の住民に起源することは、かれらが農耕社会に獣の肉を供給したり、王から森の守備を命じられたりしているところからも知られる。
 森の住民や不可触民はまた、農耕社会の住民から、病気、死、災厄など目に見えない世界と特別な関わりをもち、それらを調伏する呪術力をもつ者とみられていた。古代の文献には、チャンダーラの呪術に関する話がさまざまに語られている。
(中略)
(以上引用終わり)

  
  
 稲作を生産様式とする部族国家は、私権統合されつつも共同体性を色濃く残し続けていきました。そして、周辺の森で狩猟採取を行っていた森の民を不可触民として私権社会に組み込み、農村共同体における4つのヴァルナの人々は、例え下層のヴァルナであっても更に下に不可触民を設けることで安定化し、国家全体を秩序化していきました。
ここで改めてインド特有の「カースト制度」について見てみましょう。

(以下引用)
●カースト制度とその起源
 グプタ朝滅亡後、ムスリム王朝のインド支配が始まるまでの600~700年の間に、ヴァルナ制度の枠組みの内部に多数のカースト集団が生み出され、カースト社会が徐々に形成された。
(中略)
 インドでは、カーストを「生まれ」を意味するジャーティという語で呼んできた。つまり「生まれを同じくする者の集団」という意味である。
 ジャーティ、カーストという語の意味からも知られるように、カースト社会に暮らす人びとは自分と同じ「生まれ」に属する者と結婚せねばならない。またそれぞれのカーストは固有の職業と結ばれており、カーストの成員はその先祖伝来の職業を世襲する。
(中略)
 このようにカーストは自治的機能を具えた排他的な集団である。そしてインド人は貧富の差や失敗・成功に関係なく、自分のカーストから生涯離れることができない。 
 カーストの数は、20世紀初めの調査によるとインド亜大陸全体で2000~3000におよんでいる。そしてこれら厖大な数のカースト、サブ・カーストは、バラモン、クシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラという四つのヴァルナと、その下の不可触民を加えた、五つの大きな枠組みのいずれかに属している。
(中略)
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図はこちら [3]からお借りしました
 村の諸カーストの中心は、最も多くの人口を抱え、最大の耕地をもつ農業カーストである。そしてこのカーストを取り巻くかたちで、農業生産を直接・間接に補助する多数の職人カースト、サーヴィス提供カーストが存在する。司祭カーストのバラモン、書記カースト、大工カースト、陶工カースト、理髪カースト、洗濯カースト等々であり、また皮革加工カースト、清掃カーストなど不可触民に属するカーストも含まれている。中程度の村の場合、村内に存在するカーストの数は20ほどになる。
(中略)
 カースト間のタテの関係とは、ヒンドゥー教の浄・不浄思想に基づく上下の関係である。こうした関係の最上位にはバラモンが、最下位には不可触民の諸カーストが位置し、中間にはその他の諸カーストが上下に並んでいる。
このような上下関係によって、社会には全体として一つの秩序が形成されているのである。

(中略)
 
●多数のカーストから成る村落の形成
 古代の村は農耕民を主体とする比較的単純な構造をもつものであったが、グプタ時代以後に、多数のカーストを抱え込んだ村へとゆるやかに変わった。こうした村落社会の再編成は、おそらく次のような経過をたどって進行した。
 村の経済活動の中心は土地保有農民である。かれらは古代以来の農民と、地位を向上させたシュードラ耕作者、さらに新たに農耕民となった旧部族民などであり、大多数はシュードラ・ヴァルナに属すとみられるようになっていた。
 この時代に農民たちは、それぞれの地域で農業カーストとして団結し、他カーストによる経済的な侵害から自分たちの生活を守った。つまりかれらは村の支配的なカーストとなったのであり、かれらのなかの有力者が村長や長老として村を治めた。
 雨季と乾季のはっきりしたインドで、農業において最大の収穫を上げるためには、限られた時期に大量の労働力を用いる必要がある。しかし、そうした労働力の提供者を、農繁期だけのために村に常住させておくことはできない。
 一方、職業の専門化がカーストの形成というかたちで進み、またヒンドゥー教の浄・不浄思想が浸透した結果、他カーストの労働に頼らねばならない種類の仕事が増えた。たとえば、宗教儀礼の執行、大工・陶工・理髪・洗濯の仕事、死畜の処理や汚物清掃といったさまざまな労働である。これらの労働の提供者は、いまやそれぞれのカーストに所属する者たちであった。
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洗濯カーストの写真はこちら [4]からお借りしました
 そこで農民は、これらのカーストの成員に住む場所と生活の保障を与えて、かれらを村に抱え込んだ。新たに村に住みついた者は、バラモンなど一部のカーストの成員を除き、農繁期における農業労働を提供した。こうして農民は、日常生活において自分らにふさわしい浄性を保ち、農繁期に安定した労働力を確保するという、二重の希望をかなえることができたのである。農業以外のカーストの成員にとっても、村での定住生活は願わしいことであった。安定した生活のためのさまざまな便宜をえることができたからである。
(中略)
 
●不可触民差別は広がった
 四つのヴァルナの下には、被差別階級である不可触民の諸カーストが存在した。グプタ時代以後の社会でシュードラ差別が徐々に消えたのとは逆に、不可触民差別はさらに複雑に発達した。シュードラ差別のかなりの部分が不可触民差別の中に吸収されたのである。
(中略)
 農耕社会の周縁部に住んでいたそれぞれの賤民集団は、部族組織をカースト組織に変えて維持しつつ分散し、村々に定住したのである。かれらは村の生活における「不浄」部分の分担者として、また農繁期の労働者として迎え入れられた。
 不可触民の存在は村人たちに一種の優越感を与え、そうした感情によって、不平等に起因する村内の緊張関係が緩められた。こうした安定は、地方の権力者や地主・土地所有農民の期待に応えるものでもあった。
(以上引用終わり)

 カースト制度とは単なる差別制度では決してなく、私権社会と共同体性を両立させる統合システムだったのです。
 共同体性が崩壊した私権社会では、固定の身分序列は差別制度になってしまいますが、共同体性を色濃く残したインド私権社会では、争いを止揚し社会全体の秩序化、安定化を第一とした社会役割共認の重要なシステムとなっていました。
 私権社会における上下関係は明確にしつつ、それぞれのカーストが職業=生産の場、婚姻制度=生殖の場を保証された共同体維持を前提としつつ、社会の中で無駄に争わず共存できる、人々の安定期待・秩序収束に応えるもの、それがカースト制度だったのです。
 さて次回は、このようなインド独特の社会構造、そして市場社会が進展する時代の中でどのように仏教が生まれ、どのように人々に受け入れられたのかをお届けしたいと思います。

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