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弥生時代再考(1)~水田稲作が始まって戦争が起きたのではなく、武力支配の後、耕地が拡大した。

弥生時代再考~プロローグから2ヶ月が経過しましたが、いよいよシリーズを再開したいと思います。第1回は渡来人はどのように縄文人集落に食い込んで言ったのかというテーマです。
近年、弥生時代が早まるという事が考古学の世界で取り沙汰されています。“弥生時代500年早まる”という藤尾慎一郎氏の「新弥生時代」の一説です。水田稲作の伝来時期を遺構から炭素年代法で算出し、較正年代を加え、弥生時代が従来の紀元前3世紀から最大紀元前10世紀にまで遡るという説です。これは2003年に新聞発表され、センセーショナルなニュースとなったのですが、その後徐々ににこの説は浸透しており、稲作伝来を弥生時代と定義付けるなら、開始年代は最低でも200年、最大で500年遡る事はほぼ間違いないようです。以下、藤尾氏の説を弥生時代の年代設定と仮定して記事を始めていきたいと思います。
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「紀元前10世紀(3000年前)に九州地方に水田稲作伝来。300年間で畿内に広がり、紀元前6世紀に近畿で稲作が始まる。さらに関東にはその後400年、紀元前2世紀に伝わる。」
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【初期水田稲作は渡来人と縄文人の融合の中で徐々に浸透していった】
紀元前10世紀の水田稲作の跡は佐賀県唐津の菜畑遺跡です。
また少し遅れて前9世紀には北九州の板付遺跡で水田稲作が始まっています。
さらに前7世紀には有明湾で水田稲作が始まりました。
なぜこの時期に北九州で稲作が始まったのか?2つの要因があります。
一つは北九州そのものが持つ地理的特性です。
縄文晩期、既に4000年前頃から九州では畑作中心の栽培農耕が行なわれています。この地域は古くから長江流域の渡来民が徐々に入り込んでおり、栽培技術や栽培品目はその技術と共に大陸から伝え及んでいました。これは稲作に限らず人、物の玄関口であった土地の持つ特性です。
二つ目は福岡の早良平野は縄文晩期の気候変動により広い沖積平野が形成された事です。さらに出来たばかりの平野には縄文人集落がまだ形成されておらず無人の良好な土地が広がっていたのです。これが農耕を営む絶好の条件をもたらし、技術を持った江南人が渡来して直ぐに水田稲作を始める契機になったのでしょう。
玄関口である北九州に絶好の無人の農地があった。これが弥生水田の始まりとなりました。
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さて、この時代にはどのような人が、どういう状況でたどり着いたのでしょう?
大陸から日本列島に渡るのは、今では船舶技術もあり、容易ですが、この時代は命がけです。特に狭い玄界灘は潮の流れが早く、まさに命がけで脱出する要因が大陸側にあった事が条件になります。中国大陸で3100年前に起きた殷から周への王朝転換はそのきっかけとなり人の移動、各地での戦乱勃発を促しました。
3000年前に大陸での戦争圧力で来たのは江南人と古朝鮮人です。彼らが最初の稲作を伝えたのですが、頭骨とコメの種類から有明海と佐賀県の菜畑遺跡は江南人によってもたらされ、北九州の板付遺跡は古朝鮮人によって稲がもたらされたとされています。
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しかし、この時代いずれも稲作は来ても、金属器は到来しておらず、戦争の跡もありません。渡来人は最初は無人の平地にコロニーを作り、漁撈で食いつないでやがて稲作をはじめ、友好的に近づいてきた縄文人に稲作の技術を伝え、また近接同居して共存していました。その辺を著書「王権誕生」では以下のように書かれています。

「西日本の縄文晩期後半の突帯文土器を出土する遺跡(縄文系)と、朝鮮系無紋土器や初期の遠賀川系土器を出土する遺跡(弥生系)をみると、まったく棲み分けている場合と、圧倒的に多量の縄文系に少数の弥生系がともなう遺跡、圧倒的に多量の弥生系に少量の縄文系がともなう遺跡、が地域の中で共存している事が多い。渡来人や渡来系の弥生人は実に巧妙に西日本の縄文人の社会に入り込んでいったのだ」

著書には巧妙にと書いてありますが、巧妙となるのは次の段階からです。
初期稲作伝来民は大陸での私権闘争の社会を経験しておらず、むしろいきなり始まった戦争や闘争に驚き、逃げ延び、たどり着いたのが日本列島だったのです。その意味では農業は伝えたけど、私権社会の中で序列を作り、管理する農業社会の手法はもっていませんでした。稲作は行なっていたけど畑作や漁労、狩猟との並存であり、稲作への依存度は低かったと思われます。したがって菜畑、板付に登場した初期農耕は徐々にしか広がらず、近畿へ伝わるのに300年かかったのでしょう。
農業が始まれば一気に拡大し、争いが起き、戦争が始まる。この弥生初期の農耕はその定説にならわない、生産様式としての農業だけが粛々と広がった段階だったと思われます。そしてこの時代の農業は統合様式としてはそれまでの縄文時代の共同体社会の延長だったのです。
【農耕が一気に拡大するのは呉越渡来の私権意識が入り込んでから】
第2段階の渡来は紀元前5世紀後半から始まります。主役は中国大陸の呉と越です。
前473年に戦国時代の中、江南地方で呉が越に滅ぼされ、呉人が沿岸を逃げ延び朝鮮半島南岸に移動します。さらにその勢いで北九州、有明に紀元前5世紀から3世紀になだれ込んできます。この時の渡来した呉の難民は既に大陸で激しい戦争経験をしており、農業を中心として階層化された私権社会を作ってきた連中です。負けて逃げ延びたとはいえ、新天地の日本で自らの地盤を固め、勢力を拡大するのは必須でした。
彼らはまた、既に大陸で使いこなしていた金属器を持ち込み、高度化した稲作技術の伝来と共に短期間に耕地を拡大し、縄文人を従えた巨大集落を作ります。それが吉野ヶ里であり、福岡に出来た第2次板付遺跡から那珂遺跡でした。
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吉野ヶ里遺跡の戦争の遺物 リンク [1]からお借りしました
 
この時代には環濠集落が多く誕生します。巨大環濠を持つ吉野ヶ里遺跡では縄文人の竪穴住居が周りを囲み、中心に渡来人の高床式住居があります。縄文人を巻き込んでクニが形成され、明確に渡来人と土着の縄文人は階層分けされていました。戦争跡は弥生時代においてこの時期にもっとも多くあり、弥生人だけでなく縄文人も戦闘で殺戮された跡が残っています。
いわば圧倒的な武力で征圧したのが第2段階の渡来人、呉人の武力支配という手法でした。
さらに前334年には越が楚に滅ぼされ、同様に日本列島に渡来します。彼らは既に呉人が独占していた北九州を外して出雲から新潟に至る日本海側にその勢力を広げていきます。
中国大陸において(あるいは世界中の各地域では)、農耕社会は武力支配の後に飛躍的に拡大しました。民を土地に縛りつけ、上がりを搾取する手法において農業は最も適しているからです。
一般に歴史書では農業が始まると戦争が起きると言われていますが、事実は逆です。
武力で序列社会を形成した後、支配者が耕作地を拡大して効率の高い穀物単独栽培を推進していくのです。

日本列島においても武力支配から序列社会の形成、農地拡大という路線は大陸と同様に進行したものと思われます。しかし、支配される側(縄文人)の抵抗があまりに少なかった為、武力行使は最初だけで、後は武器はひたすら権威の象徴物、祭祀具として用いられます。一見平和裏に進んだと思われる弥生農耕も実際には、この前4世紀を境とする社会統合の変化によってもららされたのです。そういった意味では弥生時代を生産様式で定義するのは適切ではなく、共同体社会から私権社会への社会統合の変化で定義した方が適切でしょう。従って弥生時代は500年早まったのではなく、やはり従来の歴史書どおり前3世紀辺りが適切なのだと思います。
【畿内の稲作地帯を押えたのは第三の勢力、楚の末裔では】
日本列島は九州から近畿へ300年で農耕が伝わり、前6世紀には奈良盆地や神戸で水田跡が見られます。しかし、その後水田遺跡は拡大、連続しておらず、代表的な大規模水田跡、唐古、鍵遺跡が登場するのは前1世紀になります。これを九州からの勢力が伸びてきて支配したと見る事もできますが、先の章で述べたように後発の渡来民が先着の渡来民集落を避けるようにして新天地を押えていったとしたら弥生中期で稲作地帯が一気に大型化した近畿もまた、呉、越とは異なる勢力が新たに押えていったと思われます。
前3世紀の大陸の状況は秦が中国統一した時代です。前223年、楚が滅ぼされ、秦建国の直後に万里長城建設に楚人が送り込まれました。長期化し過酷な労働を強いられた楚人が流民し、彼らが近畿へ入ってきた可能性があります。また、この時期始皇帝に命じられ巨費を投じて渡来した「徐福」男女3千人の存在があります。この徐福と楚人を重ねて見る事はできないでしょうか?著書「王権誕生」では弥生の稲作伝来の中心に徐福が関与しているのではないかと書かれています。

>「「史記」始皇帝本記によれば、前221年、国内を統一した秦の始皇帝は、斉の方術士「徐福」の上書に応じて巨額を投じ、東海中の3つの神山に仙人を求めさせたという。また史記や三国志には徐福は平原広沢を得て王になったとか、蓬莱神仙を得られず、始皇帝の註殺を恐れて、この州(日本)に留まったという記述もあった。はたして本当に徐福に率いられ、五穀を携え、百工を含んだ童男童女数千人からなる集団が大挙して列島に渡来したのか、真実は計り知れない。だが数家族単位で幾重もの波となって半島から渡来した多くの「徐福」が稲作技術や金属器製作技術をたずさえて渡来し、積極的に普及させたことが、弥生文化幕開けの大きな原動力になったと私は推測する」

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(徐福の経路図 ●印は徐福伝説のある地域)リンク [2]から借用しました
最も後発の楚人=徐福が近畿に金属器を携えた一大農業地帯を広げていったと見れば以後の大和の拠点が近畿になって行ったこととも整合します。
また、この楚人が作った大和の前進は、銅鐸、銅鏡が先んじ、武力ではなく最初から権威と呪術で統合しました。各地に徐福伝説も残っている事からも、彼らが表面上、縄文人に取り入ったことが伺えます。最も巧妙に縄文集落に入り込んでいったと言えるのは、この徐福の一派のように高い技術と神話、呪術がセットになった渡来民たちでしょう。
これら3つの段階を見ていくと以下のようにまとめられます。
1.10世紀~農耕技術だけを伝えた初期渡来民(江南人+古朝鮮人)⇒まだ縄文延長の共同体社会だが、次の稲作拡大の下均しになった時代。
2.前5世紀~武力で従え、クニ(巨大集落)を作り上げた私権社会経験民(呉、越の難民)⇒序列を元にした私権社会の始まり
3.前2世紀~始皇帝の圧力から逃れ、高い技術と呪術を駆使した平和志向の支配者(楚=徐福)⇒後の神社統合に繋がる国家統合の始まり?
※農耕社会の仕組みの基礎となった弥生時代はやはり第2段階から始まる。

また、これらは西日本での支配形成段階で、愛知県以東の東国への稲作伝播や支配はもう一段階後になります。弥生時代後期に濃尾平野で縄文人と激しい戦乱の跡があり、また東日本では稲作は伝わっても土器(遠賀川)は伝わっておらず、容易に支配できなかったのが実態でしょう。

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