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日本の源流を東北に見る(4)~東北に根付かなかった水田稲作

こんにちわちわわです。
前回は「水田稲作を拒否した縄文人」について扱いました。今回は、その続編として、水田稲作の広がりと、東北はどうであったのかについて触れてみたいと思います。
福岡空港南端にある板付遺跡において縄文晩期の層から水田跡が発掘されました。その後、さらに古いと思われる2600年前の「日本最古の水田跡」が玄界灘を望む唐津市、菜畑遺跡で発見されました。
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両遺跡共、高度な排水設備などを備えており、水田稲作が始まるのが弥生時代という定義を覆し、200年~300年時代をさかのぼって、縄文晩期に水田稲作が行われていたことが証明されました。
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【東日本に根付かなかった水田稲作】
弥生式土器の最古のものが遠賀川土器で、遠賀川土器が出土するムラこそ、その地方最初の水田農耕のムラであり、米そのものだけでなく、農具類なども付随して出土します。
この土器の出土分布から、北部九州に伝播した水田稲作は2~3世代、ほぼ半世紀で西日本一体に広がりました。
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対して、東日本における遠賀川土器の出土地は点在しているに過ぎず、水田稲作を受け入れるには相当の葛藤があったものと推定できます。
この時期、大陸では周王朝が衰え、春秋の覇権争奪の時代に入っており、朝鮮半島や中国大陸から、渡来圧力がかなり強かったと思われます。したがって、かなり多数の渡来人が日本列島にやってきたと考えてよいでしょう。
それは、米の増産がもたらした人口増中であった北部九州で、深刻な耕地不足を生じさせ耕地獲得競争が渡来人の東進を促進させ、西日本各地に遠賀川土器の拡散をもたらしたと考えられます。
【東北における水田遺構の発見】
青森県津軽市の砂沢遺跡(弥生前期中頃)で、水田遺跡が出土しました。岩木山から流れる冷たい水をいったんため池にため、少し温めてから田んぼへ入れるという高度な技術水準を持った水路も同時に発掘されています。
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一方、この砂沢遺跡からは、狩猟や漁労に使う石の道具なども沢山発掘されており、このムラの住人は農業を主要な生業として生活していた人達でなく、狩猟・漁労・採集の生産活動に依拠していたと思われます。
さらに、稲作農耕文化を示す鉄器や青銅器の祭祀に使う道具などの遺物も見られません。稲だけがやってきているのです。
垂柳遺跡は弥生中期の水田遺跡で、この遺跡のある田舎館村は、東北特有の偏西風「やませ」が吹き込まない温暖な盆地で、現在では反当り収穫が何度も日本一になったこともある米所です。
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この垂柳の弥生中期以降は、突然稲作の証拠がなくなり、水田も見つからなければ、籾殻の付着した土器も発見されていません。これは蝦夷征伐が終わる9世紀の初めにかけて続きます。
蝦夷の地が序列による力の原理で支配された本土に組み込まれて初めて生業としての水田稲作が行われるようになるのです。
しかし、冷涼な東北の地では、水田稲作は行われるものの、たびたび起こる自然災害や天候不良による不作により、大量の餓死者を出す歴史を繰り返してきました。
今の米所としての東北が定着したのは、稲の品種改良が行われた明治以降になってからです。
東北地方の凶饉年表からみる冷害の歴史 [1]
それまでの東北の産業は農耕はリスク分散の手段にすぎず、狩猟・漁労・採集を生業とした生活を脈々と続けてきたのです。
かくして東北人は自然を対象化し続け、縄文体質を色濃く残してきました。多彩な工芸品や稀有な文豪が存在するのも、こうした産業の営みに起因していると思います。

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