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シリーズ「日本人は、なにを信じるのか?」~9.日本人の自然信仰と祖霊信仰の成り立ち

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こちら [1]からお借りしました~
 
前回までは、日本人の信仰心について時代毎に分析してきました。
今回は、今現在まで脈々と受け継がれている、人類の起源にまで繋がる自然信仰と、お盆などにみられる祖霊信仰の成り立ちをみていきます。
自然信仰と祖霊信仰はどのように生まれてきたのか?その背景には何があったのか?その真相に迫りたいと思います。
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まずは、自然信仰とは何なのか?
これは原始人類の過酷な状況から生まれてきました。
原始人類が人類以外のもの(外界)を意識し始めた時、自然信仰に繋がる精霊信仰が登場することになります。
その背景を含めた参考の記事をるいネット [2]より紹介します。
「原始人類集団のリーダーは、精霊信仰⇒祭祀を司る女であった」 [3]

まず、この原始人類の生存状況に同化してみよう。
洞窟の中で餓えに苛まれながら暮らしている。主要な食糧は肉食動物が食べ残した動物の骨であったが、それを拾い集めるのは短時間で済み、何より洞窟の外は危険が一杯なので、長時間も居られなかった。
つまり、大半の時間を洞窟の中で過ごしていたわけで、原始人類はその間、何をしていたのか?
まず考えられることは、エネルギー源としての充足の追求であり、それによって人類は充足機能を発達させてきた。
カタワのサルである人類は地上で適応するために直立歩行の訓練を始め、それが踊りとなり、この右・左と足を踏み鳴らす踊り=祭りが日々の充足源(活力源)となった。
この踊り=祭りの中でトランス状態に入り、そこで観た幻覚の極致が精霊である。人類が万物の背後に見たこの精霊こそ、人類最初の観念であり、人類固有の観念機能の原点である。
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こちら [4]からお借りしました~ 
 
脳回路の最先端に精霊信仰の回路が形成されて以降、人類は、生存課題の全てを本能⇒共認⇒観念(精霊信仰)へと先端収束させる事によって、観念機能(→言語機能を含む)を発達させ、その事実認識の蓄積によって生存様式(生産様式)を進化させていった。
精霊信仰に先端収束することによって統合された人類集団では、精霊への祈りが最も重要な課題であり、元々は二足歩行訓練という目的であった踊りや祭りも、精霊への祈りが主要な意味に変わっていったであろう。
また、それに応えるために最も霊感能力の高い者(一般的には女)が集団のリーダーになったはずである。

洞窟生活を余儀なくされた人類は、その不全から、より充足を求めて同化能力を高め、それを外界である自然に向け、精霊を見いだした。これが精霊信仰であり、人類の観念機能の獲得に繋がる。
精霊信仰とは、その後の人類の発展に繋がる観念機能の獲得そのものなんです。
そして、その精霊信仰を発展させ、自然の法則を見いだし、周辺の自然環境を認識出来た中で、集団を取り巻く自然に感謝し、その恵みを期待する。
それが、自然信仰に繋がります。
以下に、縄文時代に自然信仰が成立してきた背景を説明した記事を紹介します。
「縄文人の信仰はいかにして受け継がれたか(1)縄文時代の自然信仰」 [5]

■縄文時代の精霊信仰・自然信仰
自然の恵みが豊かだった縄文時代、食料を確保する手段として、狩猟採集生産か漁猟採集生産を営んでいた。四季の変化もあり、多様な動植物が存在していた日本列島では、恵みをもたらす自然への感謝の気持ちが、精霊信仰→自然信仰へと発展していく。
各共同体ごとに恵みをもたらしてくれる自然への信仰が強まっていったが、”自然”というような抽象的な概念が登場することは無く、(精霊信仰から発展したことからも分かるように)非常に具体性を持ったもので、一つの山、一つの川、海のある部分、などへの信仰であった。例えば富士山の神や三輪山の神、玄界灘の海の神、住之江の海の神などのように、特定の場所の自然物に宿る神であった。
 
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こちら [6]からお借りしました~
   
このような極度な具体性が、縄文時代・日本の信仰の特徴で、中国大陸の「天」や西洋の「ゴッド」というような抽象的な信仰は生じなかった。抽象的な神は「頭の中」に存在するものであり、それはすなわち現実とは切り離され「持ち運びができる」ということである。一方で具体的な神とは、自然そのものに宿る神であり「持ち運びができるものではなかった」。また、様々な自然物に囲まれている縄文人にとっては、具体的な自然物一つ一つに宿っている神が無数に存在することになる。
「無数に存在する」「極度に具体的な」「移動しない自然神」への信仰が、縄文人の信仰形態であり、日本人の信仰の原点でもあるのだ。

自然の恵みが豊かだったからこそ、縄文人は自然に感謝し、自然信仰を深めていった。そして身近に無数の恵みがあるから、身近な具体的な自然に対して信仰していったのだと思います。
この信仰は、国土をほとんど侵略されなかった日本においては脈々と息づくことになります。
一方で、自然信仰が拡がっていた縄文時代から、稲作の伝搬が始まる弥生時代にかけて、自然信仰とともに祖霊信仰も拡がっていきます。
その背景には何があったのか??
自然信仰から農耕神への変遷と、祖霊信仰が登場してきた背景の書かれた記事を紹介します。
「縄文人の信仰はいかにして受け継がれたか(2)弥生時代の農耕神と祖霊祭祀の登場」 [7]

■弥生時代の稲作伝播と青銅器祭祀の広がり
縄文時代後期、越人によって(朝鮮半島経由で)稲作がもたらされたが、縄文人がその生産様式を大規模に受け入れることはなかった。
そもそも、狩猟採集生産や漁猟採集生産を、豊かな自然の中で営んでいた縄文人にとって、必要性が薄かったからだ。また、大規模に耕作地を開拓する必要がある稲作は、具体的な自然物一つ一つに神が宿るとしていた縄文人にとっては、受け入れがたいものだったからだろう。
しかし、紀元前4世紀ごろ(2400年前ごろ)から渡来人と共に鉄と青銅器が伝えられると、稲作は全国的な広がりを見せ始める。
中国大陸では青銅器文明の後に鉄器文明へと移行していくが、紀元前4世紀ごろには製鉄技術が確立されており、日本にはほぼ同時に伝来してきた。当時、鉄器は武器や農耕器具の原材料であり、磨けば光り輝く青銅器は祭祀器具の原材料であった。
渡来人が勢力を拡大していくにつれ、鉄製の農機具も広がりを見せ、寒冷化し自然の恵みが減少していた日本列島人にとって農業生産は魅力的に映ったことだろう。
また、越人は稲作技術と同時に、農耕神信仰をも持ち込んだ。多神教世界で生きてきた縄文人にとって、農耕神を受け入れることに抵抗は少なかっただろう。しかし、元来、自然物一つ一つに神を見出していた縄文人は、農耕祭祀を土地祭祀と一体化させていく。つまり、耕す土地の神を鎮めるための祭祀を生み出していくことになる。この時使われたのが、青銅器だった。(戦争が激しかった九州地方では、豊穣の期待よりも戦勝期待が高まり銅剣・銅矛が埋納された。戦争が激しくなかった畿内では、豊穣を期待する農耕祭祀が大きくなっていき、銅鐸が埋納された。)
 
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こちら [8]からお借りしました~ 
   
ここで生まれた農耕神は、縄文信仰と一体となっていたこともあって、「移動しない」。だから、新たな水田を開拓すれば、その度に新しい農耕神が必要となった。実際には、「分霊」しながら農耕共同体が信仰する農耕神が、勢力範囲を拡大していった。
■祖霊祭祀の誕生
農耕と同時に私有意識も持ち込まれたため、農耕共同体での指導者層が徐々に固まっていく。また、農耕共同体の規模拡大に伴い、農耕集団同士の緊張圧力の高まり→戦争圧力もあって、守護神信仰が高まっていった。農耕共同体の指導者層は中国大陸からもたらされた支配概念を用いて、共同体の安定の為、支配を正当化する必要に迫られる。そこで生まれたのが、指導者層の祖霊を守護神と重ね合わせて信仰する、祖霊信仰だった。
この時代には、自然信仰が残ってはいたものの、農耕共同体における重要な祭祀は、農耕祭祀と祖霊祭祀へと移行していた。

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こちら [9]からお借りしました~
 
渡来人から持ち込まれた農耕を縄文人は受け入れ、元々、恵みを願う自然信仰と農耕信仰を繋げて、信仰するようになります。
また、これとは別に、農耕共同体の中で渡来系の支配者を正当化する祖霊信仰が拡がることとなります。
つまり、祖霊信仰は日本古来の信仰ではなく、渡来人の都合によって広められた信仰なのです。
そしてこの祖霊信仰の元になるのは、守護神信仰
闘争集団を正当化する守護神信仰とはなんなのか?
精霊信仰との違いに着目した下記の投稿を紹介します。
「一神教と多神教」と「精霊信仰」。その同一性と差異① [10]

精霊信仰も多神教も観念機能の産物(統合観念)だが、精霊は万物の背後にある無数の現実そのもの=事実観念。人類の本能不全・共認不全を解消し、意識を統合するために人類が作り出した機能。従って精霊信仰を生み出した直接の原因は過酷な自然外圧。
一方、多神教はシャーマンが存在するように、ある特定の集団単位の宗教である。つまり、集団を統合し、秩序化する必然度が高まり、しかし共認統合が十全に機能しない状態が想定される。つまり、それは集団間の同類圧力の激化しか考えられない。古代私権国家の地は豊かな土壌の提供と同時に川の氾濫があり、一歩離れれば砂漠という死の地がある。
当然、限られた豊かな地には複数の集団が接触するようになる。しかも、農耕部族は土地に縛られる。同類圧力がたかまり、集団間の闘争が激化する。私権獲得のための集団自我が発生する。略奪闘争も起こる。共認不全は高まり、共認不全という現実を捨象した何らかの観念で統合する必要が生まれる。捨象するには対象を固定化したほうがいい。万物は多すぎる。特定の神々が選ばれて一柱に収斂していく。やがて特定の集団には「自分たちの」守護神が生まれる。特定の集団⇒都市は極めて一神教に近くなる。

過酷な自然外圧を対象として、それを突破するための最先端機能として誕生した「精霊信仰」に対し、「守護神信仰」は、部族間の同類闘争圧力の高まり→集団自我の発生→共認不全という統合不全を突破するための最先端機能として誕生したのです。
今回は、自然信仰と祖霊信仰の成り立ちについて扱いました。
自然信仰は、自然外圧を対象化した精霊信仰から生まれ、自然の恵み豊かな日本で根付いてきました。
また、祖霊信仰は、渡来人の正当化のためではありますが、闘争圧力を対象化した守護神信仰から生まれています。
この二つの信仰が、現代の日本人にも脈々と残っています。
しかし、異なる外圧を対象とした信仰がなぜ、現在まで残っているのか?
その真相は次回扱います。お楽しみに~ 😀

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