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ねぶた囃しに、遠く異族の血が騒ぐ

こんにちわちわわです。
今後我がチームは東北シリーズに取り組んでいこうと考えています。これから始まるシリーズに先駆けて、この休み中は、東北名物「ねぶた祭り」にスポットを当ててみたいと思います。
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ネブタの初見は、「弘前藩庁日記」享保七(1722年)七月六日の条で、五代藩主津軽信寿が弘前城下の織座へでかけ、町印をつけた一番から八番までのネブタが紺屋町から春日町へ練り歩くのを見物した記事です。町人の祭りであるネブタは、しだいに盛んに行われるようになり、天保期(1830~44年)には見物人が膨大になり、ものものしい警戒のもとに運行され、城下最大の祭りに発展しました。青森町でもネブタの興行は藩政時代から行われています。
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【ねぶたの由来には東北の暗い過去が刻印されている】
ねぶたの由来は、坂上田村麻呂が陸奥国の蝦夷征討(三十八年戦争・第3期)の戦場において敵を油断させておびき寄せるために大燈籠・笛・太鼓ではやし立てたことを由来とする説。
ほかにも、田村麻呂に制圧されて滅びた蝦夷の残党が生ききながら埋められ惨殺されたとされていますが、その生き埋めの上に土をかけ、その土を素直に降伏し奴隷となった者らに踏みつけさせた、つまり「根」(死)の国へ追いやるための土かぶせの「蓋」ということであるという説。
また、飢饉や疫病の蔓延で大量に餓死し、病死した者を十分な弔いもせずにまとめて土葬した暗い時代があり、そんな被葬者たちの怨念の復活を恐れた人々は、根の国に蓋をする鎮魂の儀式として、 「ラッセー」(「来世(らいせ)」)と唱えているもので、野辺の送りを原形として自然発生した村祭りであるとする説。
などがありますが、現在では、日本全国にある土着の七夕祭りや眠り流しの行事(禊祓い)が変化したものと考えるのが主流となっています。
あれだけ勇猛で壮大な祭りの由来としてはあまりにも陳腐すぎる感はぬぐいされません。
ねぶたの特徴として、大型の灯籠のほか、踊り子が飛び跳ねて踊ることも勇猛な感じを受ける一つの要素です。%E3%81%AD%E3%81%B6%E3%81%9F%E3%81%AE%E6%9C%80%E5%88%9D%E3%81%AE%E7%B5%B5%E3%81%8C%E3%81%93%E3%82%8C%E3%81%A7%E3%81%99%E3%80%82%E3%80%82.jpg
青森のネブタは踊る人達のことを跳ねる人「ハネト」と呼びます。跳ねる踊りというのは、狩猟民族の踊りで農耕民族にはありません。跳ねる動作は動物の躍動を表現しているそうで、アイヌにも跳ねる踊りがあります。「チキチキ」という踊り比べの中にそれがあります。踊り比べというのは、どちらかが倒れるまで続けられる踊りで擬似決闘です。
このように、ねぶた祭りの由来の背景には異族と戦闘になんらかの因果関係があるものと思われます。
ここで赤坂憲雄著「忘れられた東北」の中にねぶた祭りに関する記述がありますので紹介します。
能代のネブ流しの起源については、阿倍比羅夫や坂上田村麻呂の蝦夷征伐の折に、灯りを流し、誘き出して平定したことに由来するといった伝承があるらしい。青森のネブタに関しても、同様の田村麻呂にちなんだ伝承が語られてきた。いまでは俗説としてかたづけられている、この田村麻呂の蝦夷征討にかかわる由来にあえてこだわることにしたい。
それが、眠り流しという南からの文化を受容しながら、ネブタ祭りへとあらたに組み立て直した東北の民の想像力のかたち、いわば精神史の一齣をよく暗示していると思われるからだ。
『東日流(つがる)由来記』に採録されている田村麻呂伝承は以下のようなものだ。
桓武天皇の世に、勢州鈴ヶ山に大丈丸という悪徒がいた。手下の悪徒があまたいて、異形異類に姿を変え、京都に出て人家をおびやかし、金銀資財を奪い取る。そこで、田村将軍に大丈丸を退治するようにとの勅定があった。大丈丸はこれを聞いて、鈴ヶ山から日光山に逃げ、さらに津軽へと来て、阿舎羅山に隠れ住んだ。名を源九朗と改め、変装し、蝦夷と手を組んで大いに仇をなした。
田村将軍は花若丸と名を改め、阿曾部の森の鬼退治と号して、面をもって顔を隠し、ひそかに阿舎羅山へ向かった。大丈丸は畏れ、外の浜へ逃げ去るが、田村将軍は臣下の内蔵に追いかけさせた。大丈丸はようやく逃れて、前は海、三方は大山の平内山に立て篭もった。
内蔵は計略をめぐらす。七月初旬のこと、ネフタをこしらえ船に積み、灯火を多くつけて、そのなかに兵士を隠し、笛、太鼓、鐘、ササラで囃しながら、平内の海に流しやった。
大丈丸は不審に思い、手下の者を引き連れて、海辺を見物していると、数艘の船がネフタを積んで流れてくる。囃しに、ササエイヤササエイヤ、ネフタ流れよ、まにはつに留まれ、その間に切れ出せ、という。この段、後の世まで残り、七月七日のあいだネフタを興行することになった・・・・・。
田村麻呂の悪徒退治伝承とからめて、ネブタの由来が語られている。この『東日流由来記』が、藩政期のネブタ伝承として唯一のものであるという。
1662年という成立年には疑いがもたれているが、近世にすでに、ネブタの起源を田村麻呂との関わりで説く伝承が流布していたことは、想定して誤りであるまい。大丈丸が悪路王や女酋・阿屋須などに変わることはあれ、田村麻呂ないしその臣下が灯籠(ネブタ)を作り、笛や太鼓の囃しで彼らマツロワヌ異族を誘い出し、退治したとする大筋は動かない。
青森のネブタの絵の題材は、主に歌舞伎の出し物か『三国志』から取られている。ほぼ例外なく、勇壮な戦いの図柄である。雄雄しい勇者とマツロワヌ者との戦い、この構図のしたには、明らかに田村麻呂の異族征討にちなんだネブタの起源が沈められている。しかも、弁慶、天草四郎、村上義光、明智光秀、平景清といった、敗れた側に属し、非業の死を遂げた武将たちが好んで描かれていることは、田村麻呂に討たれる異族の側への心情的な荷担を暗示している気がする
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ネブタの起源伝承として、田村麻呂の異族征討が語られてきたことは、やはり、偶然ではあるまい。眠り流しの祭りとしての本義は、おそらく怖れや災いを祓い捨てることにあった。それを都市の祭礼として、大掛かりに演出するとき、眼に見えぬ怖れや非業の武将やマツワロヌ異族へと可視化される。平家の武将・悪七兵衛景清などは、まさに怨霊そのものであった。
村々の習俗としての眠り流しが、大胆に物語的な転位を遂げることで、田村麻呂のネブタ起源伝承を分泌し、やがて、あの極彩色のネブタの絵を生んだとは考えられないか。

祭りは長い年月をかけ、その時代に適応したかたちに塗り重ねられ進化し続けています。しかし、その根底にある意識は変わることなく現在まで受け継がれているのです>。
【「祭り」の多面性と核心】http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=32588
祭り自体、その意義・目的・様式など、歴史的に何層にもわたり塗り重ねられ、変遷をたどってきました。従って「祭りとは?」という問いに対する答えも多様です。ここでその解答のいくつかを紹介します。
1・祭りの意義は、世界の始まりの時間を神といっしょに過ごすことにある。祭りの中での、人の時間ではないとき、ケ(日常)の正気や秩序を失うとき、人は神の世界にいる。本来の祭りのクライマックスは、酔いつぶれることである。カオスであり、神に近づくことなのである。一晩中、踊り明かす神憑かりの時間である。 ハレとは、日常(人の秩序)を超えた時間、神の時間である。そして、祭りとは神話の再演であり、世界の死と再生なのである。
2・本来動物の本能とでもいうか、心と体に鼓動を呼び起こし共に共振して、個々の集まったエネルギーをぶつけ合うことにより、理屈ではわからない自然の力によって、みんなで良い方向に生きようとする儀式である。
3・祭りは「神を供応する」心から出たもので、神とともに自分たちも楽しむものなのである。それは神をもてなし、神が楽しみ、その恵みを受けながら人々も楽しむのである。
4・祭りとは「祀る」ものである。祀る対象があって、そのために祭りをするのである。対象をあがめ、讃え、鎮魂し、そして一体感を得るために、血わき肉おどらせるのである。
 
5・祭りは惰性的嫌悪感にみちた生活という日常の対極にある、つかの間の非日常世界である。現実という見える世界をとびこえて、見えざる非日常世界へと遊泳できるのだ。そこには夢や希望や、ロマンや、ノスタルジアや、エロスや、デーモンや、ありとあらゆるものが混在している。祭への参加者は、その摩訶不思議な非日常空間に身をゆだね、自己忘却し、自己解放をはかろうとするのである。
6・「まつる」とは、神に捧げ物をたてまつり、まつらう(おそばに待ち侍る)ことである。そうするためには「みそぎ」「こもり」によって心身を十分に清めることが必要であった。村の祭りは村中で行なうものである。祭る神は共同体の神である。各人の願いを祈るのが祭りではない。村の共同の願いを、定められた機会にだけ、神に再確認するのが祭りである。願いを神に押し付けたりは決してしない。また、神は祭りのときにしか居ないし、来ない。祭りを執り行う者、つまり祭祀権をもつ者こそ、太古の首長であった。ただの神主ではない。そしてこのリーダーのもと行なうのが祭りなのであった。 長い斎みこもりのあと、来臨した神を祭祀者が中心になって共同体メンバーみんなで迎え、たてまつりまつらい、共同の願いを再確認するのがお祭りだということになる。
7・そもそも「祭り」は古代の「政」(まつりごと)に端を発する。「政」は神々を「奉る」厳粛な儀式でもあった。人々は営みの全てを神に委ね、祭りを通して災いを振り払い、吉事がも たらされるよう祈願し、同時に神々とともに酒を酌み交わすことで邪念を取り払い、明日への糧としたのである。
8・祭りは基本的に神を奉るものとされているが、柳田国男民俗学によれば、神とは基本的に有難きもの、つまり滅多にないもの・・・として存在し、神とは基本的に荒ぶる神としてとらえられていたようだ。祭りとは、荒ぶる神を静める行事であった。
このような祭りに対する諸説から、祭りの多様性を伺い知ることができます。ねぶた祭りにもこれらの要素の中からその本質を見極めることもできそうです。
【ねぶたから学ぶ東北への想い】
ネブタの狂おしい笛や太鼓や囃しのなかに、飛び跳ねる若者たちの姿のなかに、ネブタの絵の原色の赤のなかに、異族の血の騒ぎを見ようと眼を凝らし、あるいは、ヤマト武将・坂上田村麻呂によって制圧された、遠く祖先に連なるかもしれぬ異族への鎮魂の旋律を聴こうと耳を澄ますと、忘れ去られたもうひとつの東北の精神史が呼び起こされる気がします。
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ネブタの狂躁が果てると、そこに秋が佇んでいるといいます。
東北の短い夏が終わりを告げますが、「ねぶた祭り」が、現実の世界に生きる力を育んでくれるのでしょう。

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