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シリーズ「日本人は、なにを信じるのか?」~第3回:神仏と共に生きた時代

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<宇佐神宮 リンク [1]より引用>
今回「日本人は何を信じるのか?」シリーズの第3回目の記事ですが、若干の軌道修正を行います。
この間、日本人は宗教心のない特殊な民族であるということを軸にシリーズを進めてきたのですが、仲間と議論や調査を重ねていくうちに、「本当に日本人は宗教心が薄いのか?」という疑問が生じました。
というのも、日本全国どこに行っても神社や寺が数え切れないほど建立しているのは疑いない事実ですし、たとえそれらが支配階級主導で建てられたとしても、受け入れてきた日本人がいたからこそ、現在も存在できていると捉えることもできるからです。
現代人のアンケートだけをもとに、『日本人は宗教心がない』と断定してしまうのは、あまりにも浅い分析なのではないか あるいは、日本人の心の奥底には、日本の長い歴史の中で培われた私達が見落としているなんらかの構造が横たわっているのではないか
という期待感をもって、以下のようにシリーズの記事構成を見直します 🙄
1.プロローグ
2.現代日本人の宗教観
3.神仏と共に生きた時代  今回の記事
4.儒教の影響
5.近世における宗教観
6.葬式仏教とは
7.神話から出発した日本の近代
8.日本人と自然(宗教)
9.精霊信仰とは
10.祖霊信仰とは
11.共同体と信仰
12.日本人は何を信じるのか?(日本人の可能性)

今回は、第3回目の記事からスタートしますが、まずは日本人の宗教感について学んでいこうという主旨で、題して「神仏と共に生きた時代」を扱います
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ありがとうございます
当ブログでもなんどか扱われたことがありますが、古代日本人は、自然現象や山川草木など、あらゆるものの中に精霊=神を見出していました。電気やTVなどがない時代ですから、それこそ天気や季節の移り変わりの目安を自然のなかから読み取ってきたのです。
農耕が伝来する前の生産様式である採取狩猟はいうまでもなく、弥生以降に農耕生産が主要な生産手段であった日本人にとっては、自然現象や山川草木が生活に密着しているのです。つまり、精霊=神は西欧風の擬人化された存在ではなく、身近な存在として意識されていたのです。また、共同体社会であった古代日本の社会においては、自然万物を神として敬うことで、農作物の豊穣を祈り、仲間との結束をはかってきたのだと考えられます。
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リンク [2]より引用>
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リンク [3]より引用>
それら自然、信仰、時間に対する日本人独自の感性は、現在もなお、日本の伝統的なしきたりや年中行事の根底に息づいていると見てとることができます。
(ex.彼岸、お盆、正月、節分、例大祭、新嘗祭)
八百万の神とは、どのような意味があるのでしょうか?
以下『日本人のしきたり 飯倉晴武 青春出版社』より引用します。

◆八百万の神
日本人はキリスト教やイスラム教のように唯一絶対の神ではなく、自然万物のあらゆるものに神を見いだしてきました。
俗に八百万の神というように、太陽、月、星、風、雷といった神もいれば、土地、田、山、川、石などに、また、家の台所、かまど、便所などにも神がおり、さらには馬、犬などの動物、松、竹などの植物にも神が宿るというように、多くの神々があまねく存在する点に特色があります。
「八百万」とは非常に数が多いことの形容ですが、この言葉はすでに日本最古の歴史書である『古事記』(上巻)のなかに見られます。天照大神が、弟のスサノウノミコトのあまりの乱暴さに腹を立てて天の岩戸に隠れてしまったので、困った神々が「八百万の神、天の河原に神集ひ集ひて・・・」という記述がそれです。
そもそも太古の日本では、あらゆる自然物に霊魂を認め、それを畏怖し、崇拝するアニミズムと呼ばれる原始信仰が生まれます。やがて、卑弥呼に代表される巫女などが、神のご神託を受けて物事を決めるシャーマニズムにて発展していきました。
一方で、狩猟採集生活をしていた日本人も、米の伝来にともなって農耕生活へと変わっていきます。農耕生活はとりわけ、人間の力の及ばない自然現象に大きく左右されます。天候不順や自然災害による不作はまさに死活問題で、それらを神の怒りと考えたのも無理からぬことでした。そこから、あらゆる自然の営みに神を見いだし、崇める傾向がさらに強まっていったと思われます。
また、農耕社会で定住生活が始まると、土地に対する信仰も強まっていきます。自分たちが生まれた土地を守ってくれる神を「産土神」と崇め、産土神を祀る社を作るようになっていきました。さらに古来の祖先信仰も合わさって、日本ならではの神々への信仰が根づいていったと考えられます。
◆神と仏
現代の日本には神道と仏教が共存していて、結婚などの慶事のときは神式で、葬式など弔時のときは仏式でというように、自然に両者の使い分けができています。
もともと神道は、太古から日本固有の神への信仰に由来するのに対して、仏教は大陸から伝来した宗教です。また、神道は神話に登場してくる神々のように、地縁・血縁などで結ばれた共同体を守ることを目的としているのに対して、仏教はおもに個人の安心立命や魂の救済、国家鎮護を求める点で根本的に違っています。
仏教は西暦五三八年、日本に伝来したといわれます。仏教は豪族たちを中心に、少しずつ日本に広まり、聖徳太子以降、国家に守られる形で急速に浸透していきます。
しかし、そんななかでも、日本古来の神への信仰は廃れることなく、仏教と共存していったのです。むしろ奈良時代以降、神仏は本来同じものであるとする「神仏習合」や、神は仏が仮に形を変えてこの世に現れたものとする「本地垂迹説」など、両者の融合を図る思想が生まれていきます。
さらに平安時代には、それまで国家鎮護が主だった仏教が、しだいに庶民にも根づき、神も仏を尊ぶという、日本ならではの信仰が形成されていきました。
明治政府の神仏分離令で、この神仏混交の思想は禁止されますが、いまなお神への信仰と仏教が融合した習俗は多く残っています。
例えば、お彼岸やお盆はもともとは仏教の行事ですが、そこに日本古来の祖先神への信仰が結びついて生まれた習慣です。
◆氏神と鎮守
いまも昔も、人間は困ったことや追い詰められた状態になると、神に助けを求めたりします。特に地縁や血縁が大事にされた時代は、一番身近にいつその土地の神様に願いを託しました。それが氏神であり、鎮守の神でした。
そもそも氏神は、その地域の豪族である氏一族の祖先を祭った守護神でしたが、平安時代以降、一般庶民にも浸透していき、広くその地域を守る神様となって崇められるようになりました。
現在でも行われている子どものお宮参りは、本来はこの氏神にお参りして、その土地の一員になることを認めてもらう儀式だったのです。
やがて平安時代以降、武家社会が形成されると、氏族社会が崩壊して、氏神信仰も薄らぎます。それに代わり、貴族や社寺の私的な領地である荘園制度が確立されていきました。
そこで新たに荘園領主たちは、荘園を鎮護してもらう目的で、その土地の守護神を祀るようになります。これが鎮守と呼ばれるものです。そして、それまでの氏神でも、鎮守の神を祀るようになりました。
その後、江戸時代にはふたたび氏神信仰がさかんになります。こうした変遷を繰り返すなかで、両者は地域を守る神として、庶民の間にも根付いていきました。

言われてみれば、上記の意識や宗教観は、私たちの生活に見事に溶け込んでいます 😛
しかし、日本人の生活にこれだけ密着している宗教にもかかわらず、外国人に「あなたはどんな宗教を信仰しているの?」とか「日本人は宗教心があるのか?」と問われた際に、明確に答えられる人はそんなに多くないのではないでしょうか。そこで、そのような日本人の意識をうまく表現している書籍がありましたので、紹介します。
以下、「日本人はなぜ無宗教なのか 阿満利麿 ちくま書房」より抜粋引用します。
●神仏とともに生きた時代

(前略)
この点、私はかねてから、「自然宗教」と「創唱宗教」という区別が日本人の宗教心を分析する上では有効だと考えている。「創唱宗教」とは、特定の人物が特定の教義を唱えてそれを信じる人たちがいる宗教のことである。教祖と教典、それに教団の三者によって成り立っている宗教といいかえてよい。代表的な例は、キリスト教や仏教、イスラム教であり、いわゆる新興宗教もその類に属する。これに対して「自然宗教」とは文字通り、いつ、だれによって始められたかも分からない、自然発生的な宗教のことであり、「創唱宗教」のような教祖や教典、教団をもたない。「自然宗教」というと、しばしば大自然を信仰対象とする宗教と誤解されがちだが、そうではない。あくまでも「創唱宗教」に比べての用語であり、その発生が自然的で特定の教祖によるものではないということである。あくまでも自然に発生し、無意識に先祖たちによって受け継がれ、今に続いてきた宗教のことである。
(中略)
 ここでいう「無宗教」とは、「創唱宗教」に対する無関心という意味であることをもう一度確認しておこう。「無宗教」だからといって宗教心がないわけではないし、ましてや欧米人がいう「無神論者」というわけではない。あくまでも「創唱宗教」に対して無関心だということであり、多くの場合、熱心な「自然宗教」の信奉者であることはすでに見た通りである。
 では、どのようにして「創唱宗教」に対する関心を失っていったのであろうか。話は、日常生活のすべてが神仏とともに営まれていた中世にさかのぼる。
 中世の定義は難しいが、さしあたり三つのことが信じられていた時代だといって間違いはないだろう。一つは、神仏の存在が文字通り信じられていたこと。第二は、仏教とともにもたらされたインド人の世界観である六道輪廻、つまりあらゆる生き物は地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天、の六つの世界を経巡り続けるということを信じていたこと。前世や来世の存在と生まれ変わりが信じられていたのである。そして第三に、死後、地獄や餓鬼、畜生といった世界に落ちないように、死後の世界の救済が切実に求められていたこと、この三者が一体となって信じられていた時代が日本の中世なのである。
 中世の代表的な宗教家・親鸞を例にとってみよう。親鸞が当時革命的な念仏思想を説いていた法然の弟子になったのは、死後地獄に堕ちないようにするにはどうしたらよいのか、という悩みからであった。
 当時の多くの人々が出家して僧侶になった理由の一つは、六道輪廻の恐怖から逃れるためであった。それには仏になるのが最上の解決方法であった。仏とは、最高の知恵を身につけることによって二度と六道を輪廻することがない存在にほかならない。そして出家して僧侶となることは、その仏になる道をひた走ることを意味した。
 だが、仏になるための修行をどうしてもやり通すことができないという深刻な問題が自覚されはじめる。煩悩、つまり自分で自分をコントロールしきれない、根の深い欲望が真正面から問題とされるようになってきた。親鸞の悩みはまさに自分のなかに深く巣くう煩悩の克服に無力であるところにあった。そうした悩みのなかでは、いかにいわばカリキュラム通りの修行を重ねてもなんの効果もなく徒労感だけが残る。
 親鸞が具体的にどのような欲望にさいなまれたのかは、定かではない。だが、このままでは死後は地獄に堕ちるしかないというせっぱ詰まった思いにとりつかれていたことだけは確かである。その苦しみを解決するために、京都の町中の六角堂にこもった。観音のお告げを受けるためである。
 当時は、人々は解決が容易ではない問題にぶつかると、しばしば霊験あらたかな神仏のお告げを求めて社寺にこもることが習わしなのであった。そこで人々は、夢のなかで神仏のお告げに出会うことができたのである。夢は、中世人にとっては、神仏に出会うための不可欠の通路なのであった。神仏は、夢を通して人々にその意志をあらわすと、信じられていた。
 親鸞の場合も六角堂にこもり始めて九五日目の暁に、観音のお告げを受けることができた。そのお告げをきっかけに、親鸞は、死後の救済を与えてくれる人として法然を訪ねるのである。
(中略)
 六道輪廻の苦しみから解放されたい!そのための有益な方法ならばその実践には惜しむところはない。それが中世人の大方の生き方なのであった。そこでは宗教に無関心な生活などありえなかった。
(後略)

ここまで見てきたように、日本人は無宗教どころか、むしろ宗教と深いかかわりがあることが読み解けます。
しかし、日本人の宗教観が、西欧の宗教(キリスト教やイスラム教など)と大きく異なる点のは、誰かがつくった宗教を信仰しているのではなく、自然発生的に生まれた宗教を信仰しているという点です。だからこそ、生活に溶け込んでいるから、なかなか見えてこないのかもしれません 😉
次回は、親孝行という言葉に代表されるように、現在も生活の中に浸透している「儒教の影響」について扱います。お楽しみに

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