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「次代の可能性をイスラムに学ぶ」5 イスラム世界の拡大(イスラムは変質したのか)~その1

これまで5つの記事でイスラムについて“学ぶ”という視点から紐解いていきました。
「次代の可能性をイスラムに学ぶ」1 イスラムの女性は充足しているの?!~ [1] 
「次代の可能性をイスラムに学ぶ」2 多種多様な政治経済 [2]
「次代の可能性をイスラムに学ぶ」2 自我経済の終焉とともにはじまったイスラム金融 [3]
「次代の可能性をイスラムに学ぶ?」3 イスラム世界の源流とは_イスラム教前夜の状況~ [4]
「次代の可能性をイスラムに学ぶ?」4 イスラム教の本質とは? [5]
前々回のサイユキさん、前回のちわわさんの記事ではタイトルの学ぶに(?)がついております。一神教であるイスラムの社会、これはキリスト教やユダヤの焼き直しで同じじゃないか?果たして学ぶところはあるのだろうか?疑問符が立ち込めています。
しかし、答えを急いではいけません。
今回はそんな疑問符は一旦おいといて、イスラムのその後の世界拡大の状況をまずは押さえていきたいと思います。イスラムの最大のポイントはその拡大にあるのです。イスラムに次代の可能性を学ぶのではなく、イスラムの歴史を学ぶに切り替えて展開していきます。
イスラムは知らない事だらけ、それだけでも有意義ではないかと思っています。
ちわわさんの記事よりまず始めて行きます。

>そうであるがゆえに、イスラームの拡大は武力支配という側面よりも、経済圏の拡大という側面が強く、イスラーム教徒の拡大も、貧困層の救い欠乏の側面は否定はしませんが、むしろ税金のがれの実利にあった事も見逃せませんし、規範群が「だまし」を倒錯するために、より現実世界に密着しているという点も着目するに値する大きな視点だと思います。

この現実世界に密着という部分がかなり大きいように思います。
イスラムの拡大の歴史をこれから見て行きますが大きくは、商業と宗教という相反するものを「現実」という実体に合わせて、すり合わせていっています。この現実とはその時々の課題であり、社会の秩序や人々の安全、期待などです。
イスラムの拡大とは、征服しながらも人民支配ではなくイスラム社会に支配民を取り込んだ感があるのはその秩序を最大に重んじたからではないでしょうか。


今回は「京都大学アジア・アフリカ地域研究所」の小杉 泰氏の論文「イスラムはどう変わってきたか」 [6]
を参考にイスラムの拡大史を解明していきたいと思います
イスラムの拡大には2段階ある
イスラムの拡大については2段階あります。第1段階は7世紀から12世紀にかけてのいわゆるイスラム帝国の形成期です。この拡大はまさにムハンマドが作ったメディナ発のイスラム共同体を拡大していく過程です。第2段階は13世紀以降に始まり今日に繋がっていくイスラム商業圏の拡大です。
★第1段階の拡大~アッバース朝による交易網の確立(7世紀から12世紀)
【イスラムの拡大は世界史的大事件】
イスラムは7世紀のアラビア半島で誕生したあと、半島からあふれ出るように東西に広がった。わずか1世紀ほどの間に東は中央アジア、西はアフリカ大陸を経てヨーロッパのイベリア半島まで達した。この「大征服」は版図の広がりと征服の速度において、世界史的な大事件である。ローマ帝国をも上回る版図は空前の規模であり、その後もこれを上回る征服事業は13世紀のモンゴルの大征服までなかった。
大征服によってイスラム世界の「中核」ができあがり、世界宗教としてのイスラムが誕生した。しかしイスラムは征服をめざして誕生したわけではないし、なぜ大征服にいたったのかは、実はそれほど簡単には答えられない。
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【イスラムの拡大目的は宗教の拡大ではない】
ヨーロッパでは「イスラムが剣によって拡がった」と長らく信じられていた。イスラムは「右手に剣、左手にコーラン」の宗教であり、そうであるならば、大征服が生じたのもイスラムという宗教の本質に起因することになる。しかしこの見方は前近代のヨーロッパのキリスト教的な偏見を反映したものとして、現在の歴史研究では否定されている。
史実に照らしてもイスラム王朝が宗教を強制した痕跡はないし、征服軍は征服地の住民にイスラムへの改宗を勧めるより、宗教的な自治と引き換えに人頭税の貢納を求めた。
【イスラムはどのように拡がったか】
どのようにして大征服が広まったかについては以外にも宗教的側面は殆どなく、当時の対外的な関係の中で生じていた政治的、軍事的圧力の色彩が強い
イスラムがまだ誕生して間もない頃のこの地域はビザンツ帝国とササン朝ペルシャという2大帝国が長期に渡り戦争を繰返していた。アラビア半島に誕生した小国をこの2つの大国は「小さい芽のうちに摘むべし」と攻撃の対象になる。大帝国からの攻撃に対して、できたばかりの新興国イスラムは抵抗し、善戦した。中でも、内部の部族の統合だけでなく、征服した土地の部族にも地位を与え、イスラムの戦線に参加する制度を敷き、必要な兵力を備えた。イスラムとこれらの大国との関係は当初圧倒的な差があったが、イスラム軍ははるかに組織され、注意深く戦略を練り、優れた戦術を駆使してその差は逆転し始める。
大国側の慢心と長い戦線による疲弊もあり、まずはササン朝ペルシャを滅ぼし、さらにビザンツ帝国の版図の半分を奪う事になった。正統派カリフの時代からウマイヤ朝時代の大征服によってイスラム帝国が完成していった。
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【アッバース朝は何を成し得たか】
さらにその後のアッバース朝はイスラムという新しい統合原理を貫徹し10世紀半ばまでこの世界で磐石な商業圏を確立する。ウマイヤ朝までは支配者層のアラブ的紐帯を重んじた。たとえイスラムに改宗しても、非アラブ人は「2級市民」の扱いを受け、実体はアラブ王朝であった。749年に誕生したアッバース朝は、民族、言語を超えたイスラムを原理とする体制を確立し、ムハンマド時代に既に作られていた「民族を超える世界宗教」としてのイスラム原理を拡大していった。
具体的にアッバース朝で成されたのは東アジアから地中海にいたる広大な商業圏の確立である。東西を結びつける広域のネットワークが形成され、その結果、当時世界最大の都市バグダッド(150万人)を作り、交易の拠点を充実させた。交易ネットワークを支えたのは天文学や数学、海域における航海術などのテクノロジーと、商業や契約システムを制御するイスラム法という「ソフト」であった。
アッバース朝は直接的にはモンゴル軍によって1258年バグダッドを攻撃、消滅した。
実態は11世紀以降に帝国内が分裂する事で力を弱め、さらに十字軍の進出などで西欧世界に押され、自滅、自然消滅という形で最初のイスラム世界は幕を閉じた。
まとめ

イスラム帝国はモンゴル帝国に先んじて登場した世界最初の広域帝国である。拡大の要因は周辺大国からの武力外圧であり、それを克服する事で結果として縄張り拡大をなし商圏拡大を実現した。注目すべきは建国当時からその組織力、戦略による軍事で大国を圧倒し、進出してきた事である。
一方でその治世は決してイスラム改宗を勧めるものではなく、支配地の自治を優遇する緩やかなものであった。その集大成であるアッバース朝では東西の貿易のネットワークを構築し、民族、言語を超えた超集団のイスラム原理が有効に働いた。商売の為に拡大し、完成したイスラムのシステム(=法、規範)は商売をさらに繁栄させていった。

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次回は後半の2段階目の拡大を扱っていきます。東南アジアに拡大したイスラムです。

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