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シリーズ「潜在思考の原点・カタカムナ」~日本人の可能性2~

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皆さんこんにちは。
連載「潜在思考の原点、カタカムナ」。今回はその最終回となります。
😀 長らくのご声援有り難うございました 😀
今回は今までのシリーズを振り返りながら、古代人の思考方法、そしてそれを色濃く受け継いでいる私たち日本人の可能性について考えてみたいと思います!
その前に、応援の方もよろしくお願いします。


■古代人の思考を学ぶ、その意義と可能性
このシリーズでは、「カタカムナ」と呼ばれる、日本の上古代に存在したとされる文明の資料を紐解きながら、古代人の思考方法を探ってきました。
シリーズ「潜在思考の原点・カタカムナ」~プロローグ~  [1]
シリーズ「潜在思考の原点・カタカムナ」~カタカムナとは何か~ [2]
シリーズ「潜在思考の原点・カタカムナ」~「カタカムナ」の世界観(1)~ [3]
シリーズ「潜在思考の原点・カタカムナ」~「カタカムナ」の世界観(2)~ [4]
シリーズ「潜在思考の原点・カタカムナ」~似て非なる「陰陽道」~ [5]
シリーズ「潜在思念の原点・カタカムナ」~日本人の可能性1 [6]
その想いの原点には、
環境問題、経済破局など、現代社会が抱える様々な問題を考えるとき、私たち現代人が持ち合わせている観念、例えば市場主義、個人主義、民主主義と言ったような近代観念群、そしてその土壌となっている思考方法にもはや限界があるのではないか、と考えたからです。
そこで「カタカムナ」に着目しました。
この文明は、現在、文献を元に一定の研究がなされており、万物や宇宙の根源を探る、と言った現代の量子力学をも連想させる深淵な思考と追求があったとも言われています。
現代の様な科学技術も装置も無かった遙か古代において、いかにその様な内容を発想し得たのか。
彼らは我々現代人とは全く異なる思考方法を持っていたのではないか。
そしてそこにこそ現代の様々な問題を突破するヒントがあるのではないか。

と考えたからです。
■古代人の思考方法「類化思考」
当然ながら上古代の文明は資料も乏しく、ましてやその思考方法の追求などは暗中模索です。
そこで、「カタカムナ文献」に加え、東洋史学や日本民俗学といった視点からも追求を重ねました。
そこから見えてきたのは、現代の私たちの思考方法とは全く異なる、「類化思考」と呼べる思考方法でした。
この「類化思考」とは、我が国の民俗学者である折口信夫氏が提起した説です。
以下の記事で詳しく紹介していますので是非読んで下さい。
シリーズ「潜在思考の原点・カタカムナ」~「カタカムナ」の世界観(2)~ [4]
私たち現代人は、物事を捉え、分析し、判断する時、対象それぞれの「何が違うのか」という、異化部分を抽出をしようとします。分類化、比較表、パターン化といった方法、すなわち「別化思考」です。
これに対し「類化思考」とは、対象の同一部分を注視し、そこに法則を見出す思考です。
例えば自然に精霊を見出す様な思考も、その原点には、自らと対象を同一視できる、この思考方法があったと推察できます。
古代人は「別化」ではなく「類化」をその思考の根本に据えていたようです。
万物の成り立ちや宇宙の真理に迫れるのも、物事を細分化し分析する現代の量子力学とは真逆の、万物の共通点を見出しそこから普遍的な法則を導き出すこの思考方法があったと思われます。
■「別化思考」の興隆と限界
この「類化思考」は、当然全ての始原人類に備わっていたはずです。
しかし、有史以降、略奪闘争が世界を席巻するに及んで、他集団から自然外圧に至るまで、全てが警戒と敵視、そして克服の対象となります。
同化能力を原点とする類化思考は急速に失われ、「自」と「他」の区別を原点とする別化思考が世界標準となりました。
市場主義や個人主義等、「個」の利益を最優先する近代観念も、こうした別化思考がその原点にあると言えます。
現在の社会閉塞と、その解決策が見出せない(小手先の弥縫策しか見出せない)原因もまた、こうした思考方法そのものに依拠しているから、と考えられるのではないでしょうか。
現在の統合階級は、環境問題にしても経済問題にしても、部分的・一面的な問題点を抽出し、その対処方に目先的に汲々としています。
こうした極めて狭い視野の範囲内での追求では、本質的な答えに辿り着けるわけがありません。
まずは諸問題の全体像を捉え、360°あらゆる角度から検証する事で問題の共通点や関連性を見出し、その本質に迫る事の出来る思考方法が今は求められています。
ここで、答えの出せない「別化思考」にかわる、古代人の「類化思考」の可能性が注目されます。
■類化思考を色濃く残す日本人の可能性
さて、古代人の類化思考は今や消滅してしまったのかというと、決してそんな事はありません。
日本においては、古代以降も「類化思考」が連綿と受け継がれて行きました。
(「カタカムナ文献」としてその思考方法の一端が現代まで伝わっているのも、その一つの証かもしれません)
何故、日本において類化思考が受け継がれて来ることが出来たのか。
それは、日本が近代まで、共同体基盤を強く残してきたからと言えます。
日本列島の地理的環境、すなわち大陸と切り離された島国であり、温暖湿潤で豊かな国土が、略奪闘争とは無縁の共同体基盤が存続することを可能にしました。
時代々々の支配者層も、力による支配ではなく、共同体基盤を活かした国家運営を行ってきた事も大きいと思います。
共同体の基盤は、言うまでもなく成員の共認関係です。
仕事も、娯楽も、教育も、全てが集団の共認充足と共にありました。
この共認充足の原点は仲間同士の同一視・肯定視と、徹底的に対象に同化する姿勢です。
これは類化思考そのものであり、日本人は近代までそれを維持していました。
一つの事例として、当ブログでも紹介した日本人の災害史観があります。
(リンク) [7](リンク) [6]
日本は災害の多い国です。一撃で生活基盤や多くの人命を奪う大災害を人々は何度も経験していますが、それでも人々は自然を敵視することなく、感謝と畏敬の念を持ち続けてきました。
自然との調和や一体感を是とし、全てを受け容れる意識もまた、古代より受け継がれてきた精神の一端と捉える事が出来ます。
そしてこうした日本人の思考や民族性は、今なお私たちの意識の深いところに刻印されています。
なるほど現代は共同体が解体され、私権社会の中で私たちは生きています。
明治以降、日本に欧米の近代観念が流入し、共同体の崩壊と都市化の波が押し寄せます。戦後はアメリカから市場主義、個人主義が雪崩れ込み、これに拍車をかけました。
現代は、あらゆる場面にこうした観念が入り込んでいます。
しかし、明治維新から150年、戦後70年を経て、これらの観念が私たちの意識に定着したか、と言うと極めて疑問です。
私たちは、市場主義、個人主義の中で暮らしながら、一方でそれらにどこか違和感、非充足感を感じている事もまた事実です。
これは私たちの意識の根底には、今なお古代から受け継がれてきた、対象への同化を原点とする「類化思考」の意識、共同体を基盤とした普遍的な人間性が息づいているからではないでしょうか
欧米発の近代観念が限界を迎えた今、古い観念に変わる新しい認識を構築し示してゆく事が喫緊の課題です。
私たち日本人には、それが出来る可能性を秘めていると考えられます。
その為にも、古代から引き継がれた日本人の潜在思考とは何なのか、改めて深く追求してゆく必要が有ると考えます。

以上、ご静聴ありがとうございました!
最後に、るいネット [8]から、こうした日本人の可能性を端的に表した記事を紹介します。
欧米人もまた、日本人のこうした姿勢に可能性を感じている事が伝わってきます。
縄文体質は世界の人々を巻き込んでいく

震災で目立った「日本人の民度の高さ」と「政府の無能さ」 by台湾メディア

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