- 縄文と古代文明を探求しよう! - http://web.joumon.jp.net/blog -

シリーズ「潜在思考の原点・カタカムナ」~「カタカムナ」の世界観(2)~

%E5%9E%8B%EF%BC%AB%E7%84%A1%E5%90%8D.jpg
画像はこちら [1]からお借りしました。
今回のシリーズは、古代日本人の思考方法を学ぶことで、旧観念に捉われた我々現代人の新たな突破口を見出すことができるのではないか?という仮説をもとにカタカムナに焦点を当てて事実解明に取り組んでいます 😉
前回までの記事でわかったことは、カタカムナの本質は、『物事の全てに共通事項を見出すという同化思考=相似象』にあるということです 😀
さて、今回の記事では、カタカムナ文献をさらに読み解いていって、具体的な相似象の事例と法則、さらには古代人の思考方法と現代人の思考方法とでは何が異なるのか?の核心部分に迫っていきます
本シリーズ「潜在思考の原点・カタカムナ」の前回までの記事はこちらから
~プロローグ~ [2]
~カタカムナとは何か~ [3]
~「カタカムナ」の世界観(1)~ [4]
古代人の思考方法を知りたい!とお思った方は応援お願いします
Blog Ranking [5]
にほんブログ村 歴史ブログへ [6]


前回に引き続き、【楢崎皐月氏のカタカムナ説(3) 宇宙を構成する8つの相似象 冨田彰男 [7]】より引用させていただきます。

********************************************************************
『フォッサマグナ沿線の温泉めぐり』 [8] 「カタカムナ文献」
リンクから、楢崎皐月氏の説の紹介です。
---------------------------------
●第6項 天然は八種類の相似象から成っている
カタカムナ人が見抜いた基本的な相似象は、天然には「球」の相似象があるということだった。天然の大きなものは宇宙球から、恒星、惑星がすべて球であるし、ミクロなものでは原子、原子核、電子が球型である。水も丸くなる性質がある。
カタカムナ人は、このもとは天然のすべてのモノの素粒子であるアマ始元量の微分量である「マリ」が球状であることにある、と観じていた。カタカムナ人は、アマ始元量の微分されたものを〈アメ〉といっている。〈アマ〉は始元量全体の名称で、この素量は(アマから出た芽〈メ〉という思念)で〈アメ〉と呼んでいる。また、〈アメ〉の個々の球状のものを〈マリ〉と呼んでいる。
カタカムナ人が、天然の相似象だけでなく、その他さまざまな相似象があるが、カタカムナ人はそれらすべて、アマ始元量の性質の表れたものであると直観していた。どんな相似象を見抜いていたかというと、およそ次の八種類だという。
【1】正反対称性とひずみ性
天然自然に存在するものには、すべて正と反(陰と陽)が存在している。究極の正反は「カム」と「アマ」の関係である。次の正反は、アマ始元量の究極粒子であるマリの正反である。マリの正反は、マリの回転方向の違い、すなわち右回りか左回りかによって生じている。
なお、すべて正と反が対照的に存在しているが、まったくの対称ではなく、ややひずみをもった対称であるところに特徴がある。これを正反対称性とひずみ性といっている。究極粒子マリは、完全な求形ではなく、ややひずみがある。そのために回転運動が生じ、さまざまな性質や変化が現われるのである。
ヤサカノマガタマは究極粒子「マリ」を表象しているが、完全な球ではなく、マガタマであることがひずみ性を表している。マリの正反対称性の相似象として、現象界に存在するものはすべて正と反が存在しているのである。たとえば、男と女、昼と夜、右と左、縦と横、過去と未来、暑いと寒いなどである。
【2】旋転、巡回、ら旋の回転性
アマ始元量は、究極粒子マリが回転運動し、しかもら旋的な回転をしている。この性質が、相似象でさまざまな現象として現われている。
ミクロなものでは、原子の中で、原子核、電子が自転し、電子は原子核の周りを回転している。大きなものでは、太陽、地球、月は自転し、地球や火星などの惑星は太陽の周りを公転している。太陽系全体も上位の太陽の周りを公転している。さらに大きくは銀河系や星雲なども渦回転している。宇宙球においても、宇宙球全体が旋転している。
【3】対向発生
正と反が対向すると新しいものが発生するという性質がある。究極はカムナとアマナの対向発生である。カムナとアマナが対向すると、さまざまのものが発生する。すなわち宇宙においては、カムナとアマナの対向により物質や生命体やさまざまな星が生成する。その相似象として、雌雄が交わるとこどもが生れるという現象がある。インスピレーションも、人間の内部のアマナと宇宙のカムナとの対向発生の結果である。
【4】同種反発、異種親和
究極粒子のマリにも正と反があるが、このマリには同種のものは反発し、異種のものは親和するという性質がある。この性質は相似象として現象世界に現われている。たとえば、磁石の同極同士は反発するが、異極同士はくっつくとか、人間も男女の異性間は親和するなどの現象である。
【5】統計的存在性
これは、マクロに見ると一定の固定したもののように見えるが、ミクロには絶え物質の出入りや発生と消滅が起こっており、統計的に一定なものであるという性質。宇宙球は、一定の形をもった有限のものであるが、絶えずアマ始元量が流入流出している回転流動体の統計的存在である。
この相似象は、人間や素粒子に見られる。すなわち、人間は、ミクロには絶えず細胞の新陳代謝が起こって肉体は入れ替わっている統計的な存在である。また、電子などの素粒子も固定された一定のものではなく、これを構成するさらに超ミクロの素粒子が絶えず流入し流出している統計的存在であると推定されている。
【6】重合互換性
重合性というのは、異なるものが重なり合って共存するという性質である。アマ始元量には、左旋性と右旋性、膨張性と収縮性、粒子性と波動性などの相反する性質が同時に存在する。また、物質にアマナという潜象界のヌシが潜在するなどの例である。互換性というのはアマ始元量のマリがトキやトコロに互換したり、イカツミ(電気)、マクミ(磁気)、カラミ(力)などに変換したりする性質である。アマ始元量が現象世界の物質に変化することも互換性による。
【7】微分、統合性の周期性
アマ始元量には、分化して小さくなる性質とまとまって統合し大きくなる性質、すなわち波動性や粒子性、膨張性や収縮性という相反する性質が同時に存在する。この他に、それぞれには抗膨張性や抗収縮性という、それらに逆らおうとする性質も存在する。これらを「正反四相」という。現象界における相似象としては、光が粒子としての性質と波動としての性質の二面性をもつなどの現象が挙げられる。
【8】極限循環性
アマ始元量は、宇宙球に流入したのち、きわめて長い時間かかって流出する循環サイクルをしている。この間、アマ始元量はさまざまに返遷する。たとえばアマ始元量でできるさまざまな物質や生命体は、生成(発生)・成長・極限(飽和)・崩壊(死)というように、誕生してから飽和の極限まで成長発展したのち、崩壊して元の状態に還元するという、短期の循環サイクルをたどる。
宇宙におけるこれらの長期や短期の循環サイクルは、永遠につづくが、これらはすべてアマ始元量の極限循環性によるのである。上古代のカタカムナ人は、現象世界における万物万象の特徴はすべて、アマ始元量のさまざまな性質が相似象で現われたものと捉えていたのである。凄い直観力といえる。
<引用終わり>
********************************************************************

正直、詳細部分はわからない箇所もありますが、上記内容を一旦事実と考えた場合、旧石器時代のカタカムナ人(=日本人)が、天然には「球」の相似象があるという認識を見出し、素粒子まで捉えていることに驚きを隠せません
と同時に、別の疑問も湧いてきます。それは・・・
「なぜ、古代日本人は、このような思考ができたのか ということです。
現代人では到底発想もできない思考法を古代人ができたのだとしたら、それは思考に通ずる 『物事の捉え方』 が現代人と古代人とでは大きく異なることを意味します 🙄
そこで、人間の思考能力について切り込んでいる本があったのでみなさんに紹介します
民俗学者の折口信夫(おりくちしのぶ)氏は、自身の研究の中で、人間の思考能力は、「別化性能」「類化性能」のふたつに分けて考えることができると述べています
%E6%9C%AC.jpg
以下、文化人類学者の中沢新一氏が折口信夫について書いた書籍『古代から来た未来人 折口信夫』から引用します

********************************************************************
折口信夫は人間の思考能力を、「別化性能」と「類化性能」のふたつに分けて考えている。
ものごとの違いを見抜く能力が「別化性能」であり、一見するとまるで違っているように見えるもののあいだに類似性や共通性を発見するのが「類化性能」であり、折口自身は自分は「類化性能」がとても発達していると語っていた。
この言い方をとおして、彼は「古代人」の思考の特徴をしめそうとしていた。近代人は「別化性能」を異常に発達させた。
そしてその傾向はすでに、奈良朝からはじまっていた。
ところが、「古代人」たちの精神生活は、「類化性能」を存分に生かしながらかたちづくられていた。
「類化性能」とは、いまの言い方をすれば「アナロジー(類似)」のことであり、詩のことばなどが活用する「比喩」の能力が、それにあたる。
ひとつのものごとを別のものと重ね合わすことによって、意味を発生させるやりかたである。この能力が発揮されると、音や形や意味やイメージのあいだにある「類似=どこか似ている」という感覚をもとにして、ふつうなら離れたところに分離されてあるようなものごと同士が、ひとつに結びあわされて、新しいイメージをつくりだしていくようになる。
このやり方で森羅万象のできごとを見直していくと、月と女性は「似ている」ということになり(どちらも周期的に満ちたり欠けたりする)、蛇と結びつけられ(昔の人は、蛇が脱皮を繰り返すことによって、死と再生を繰り返し生きている、と考えた)、湿気や水と結びついていくようになる。
そこから、「水辺に立つ神聖な女性」という存在が考えられるようになる。
ところが、奈良朝の知識人のような「近代人」には、その思考法がよく理解できていないから、「みずはのめ」は不気味な妖怪になってしまう。
折口信夫の考える「古代人」はこのようなアナロジーの思考法を駆使して、森羅万象を「象徴の森」で覆いつくそうとしたのである。現代の考古学は、そういう「比喩」が獲得されることによって、わたしたちホモサピエンスが出現したと考えている。
つまり、折口の言う「類化性能」こそが、現在の人類の心を生みだしたものであり、その「類化性能」によって世界をとらえる能力を発達させていたのが「古代人」であったとすると、折口信夫の「古代」という概念は、じつはおそろしいほどに深い時間の深度をもっていることがわかる。
その概念は、奈良朝を突き抜け、古墳時代を突き抜け、弥生時代を突き抜け、縄文時代にまで達する、大きな射程をもっている。
それどころか、旧石器時代に現在の人類の心が生まれた、その最初の場面にまで触れようとしている。
折口信夫がはじめようとした学問は、その意味では、未来に属する学問なのだと言える。
<引用終わり>
********************************************************************

折口氏が記述している「類化性能」と「別化性能」の思考能力の違いは、改めて、私たちが追求している現代人と古代人の思考方法の違いを端的に示していると思います
折口氏が展開している類化性能とい言葉は、まさに同化という概念で捉えることがでそうです。極限人類が自然現象の背後に精霊を措定できたのも、身の回りのあらゆる現象から共通項を見出した結果といえそうです。
一方、別化性能は、同化に対して異化という概念で捉えるとスッキリします 😀
※参考投稿
異化という近代科学の思考法( リンク [9])
現代人は、教育や近代思想によって知らず知らずのうち、ものごとの違いを見抜く能力(別化性能)には長けています。しかし別化性能が人類本来の思考法ではないのだとしたら、現在起こっているあらゆる問題に答えをだせないのも必然です
なんであれ、答えをだそうとしたら、対象への徹底した同化が不可欠になります
ここは真摯に古代人の思考法に学ぶ必要がありそうですね
今後シリーズを通してさらに追求していきたいと思います

[10] [11] [12]