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第4部 「明治以降の支配者の変遷」~戦後の支配者の意識の変化

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(「焦土と化した東京」爺の暇潰し庵 [1]より)
富国強兵を旗印に明治以降、軍国主義に突き進んだ日本は、第二次世界大戦での敗戦を経て、民主主義国家へと変貌していきます。
戦後から高度成長時代の日本は、(特に支配者は)戦前と何が違っているのでしょうか?
この頃の支配者は、明治以降、支配的だった金貸し派なのか、元々明治以前からいる庶民派なのか。
戦後の政治リーダーの政策を振り返りながら検証していきます。
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それでは、戦後から’70年頃までの主な歴代首相はどのような政策を執ってきたのか。
日本を如何に守り、さらに国民への配慮を如何に行ってきたのか、という視点で見ていきましょう。
吉田茂 「戦後保守政治の基盤を築き、日本独立を実現」
[4]
(「サンフランシスコ講和条約 調印式」台湾は日本の生命線! [5]より)
第一次吉田内閣ではマッカーサーの占領政策に協力。以降、経済復興に力点を移した米占領政策に忠実に、経済安定九原則の実施と大幅な行政整理を行う。
1951年、全面講和論を退けて自由主義諸国とサンフランシスコ講和条約を結び、さらに日米安全保障条約の締結によって軽軍備による経済発展を目ざした。
戦後の冷戦構造の中で、ある意味、アメリカを利用し、軽軍備による日本独立を成立させたと言えよう。
(参考:yahoo!百科事典 [6]

占領下、吉田が民政局主導の非軍事化・民主化政策に可能な限りの抵抗をしたことは誰もが認める事実である。また、彼は日本の復興・独立を誰よりも真剣に求め、講和実現のために渾身の努力をした。その際になされた「自由主義陣営の一員」として日本を再出発させるという選択は今からみても見事といえる。
(参考:日本政策研究センター [7]

岸信介 「60年安保闘争の影で独立した日本を目指した」
[8]
(「国会を取り巻いた、安保反対闘争」どこからどこへ [9]より)
安保反対闘争を引き起こした反民主的・強権的政治家、また「A級戦犯」でありながら、戦後数年を経ずして首相にまで上り詰めた反動政治家、という評価もあるが、一方で、脱占領政策、独立した日本の確立を目指した政治家でもある。

「憲法改正・再軍備・自主外交」という一連の主張によって特徴づけられるが、それは「占領下日本の政治」に代わる「独立日本の政治」を改めて追求する政治的動きともいえた。
~中略~
 この流れの中心に立つ政治家はいうまでもなく岸信介である。彼は単純な「反吉田」ではなく、「独立日本の政治」を最も純粋に、かつ強力に追求しようとした、むしろ明確な路線を把持する政治家であった。
(参考:日本政策研究センター [7]

 
池田勇人 「所得倍増計画」
[10]
(「所得倍増計画の時代」ユーキャンの通信販売 [11]より)
首相としては所得倍増計画を打ち出し、日本の高度経済成長の進展に最も大きな役割を果たした政治家。
「所得倍増」をスローガンに掲げて経済重視の内政主義を打ち出した。そして国民の怒りを一身に集める結果となった前政権の反省から、池田政権は徹底した「低姿勢」と「寛容と忍耐」を全面に打ち出し、国民との対話を重視する姿勢をとることに務めた。
池田の時代には、日米安全保障条約の締結により日本は国土の防衛をアメリカに一任できるようになり、高コストの軍事費(防衛費)を抑え経済政策に優先的に配分できるようになった。
国民所得倍増計画の目的は輸出増進による外貨獲得を主要な手段として国民所得(国民総生産)を倍増させ、これによって雇用を拡大し失業問題を解決する(完全雇用を目指す)ことで生活水準を引上げることにある。
またこの過程で地域間・産業間における所得格差の是正もその目的とされている。具体的には農業近代化、中小企業の近代化、経済的な後進地域の開発(工業の分散)である。
(参考:ウィキペディア 池田勇人 [12]
佐藤栄作 「非核三原則と沖縄返還」
[13]
(「沖縄返還協定 調印式」毎日jp [14]より)
池田勇人の高度成長路線に批判的な立場を取り、その歪みを是正すべく、「社会開発」、「安定成長」、「人間尊重」といったスローガンのもと、ブレーンらとともに自らの政権構想を練り上げていった。
かつて池田の経済優先の姿勢を批判し続けた佐藤だが、皮肉にも佐藤政権の下で日本経済は池田時代以上の成長を続けた。
(参考:ウィキペディア 佐藤栄作 [15]
非核三原則核武装論でアメリカを脅して、「核の傘」を保障させるというのは、佐藤なりに日本の国益を考えた行動だったとは最低限いえるかもしれない。
(参考:きまぐれな日々 [16]
沖縄返還
米軍を残しつつも、まずは領土を取り戻すという点では評価できよう。
 
田中角栄 「日本列島改造論」
[17]
(「日本列島改造論」現物教材 [18]より)
言わずと知れた「庶民派」首相。
日中国交正常化や第一次オイルショックなどの政治課題に対応。
都市から地方への富の再分配を試みた日本列島改造論で一世を風靡したが、後にその政策が狂乱物価を招いたことや、金脈問題への批判によって首相を辞職。
さらにアメリカの航空機製造大手のロッキード社による全日空への航空機売込みに絡む収賄事件である「ロッキード事件」で逮捕され自民党を離党した。
 
以上、歴代首相を見ていくと、占領下からの国家独立、そして独立した日本の確立に奔走しつつ、追いつけ追い越せの経済成長を実現してきた点で、国家、国民のために邁進してきた政治家と言えるのではないでしょうか。
一方で、アメリカ、金貸し派は、まずは日本を経済成長させて、市場を拡大させたい意図もあり、市場拡大する分には庶民派の政策も静観していたとも言えます。
市場拡大という点で、金貸し派庶民派も思惑が一致したことで、戦後、庶民派が活躍できたとも言えるかもしれません。
そして、この政策等に国民も一斉になってついてきた。農村共同体を解体されつつも、終身雇用など擬似共同体的な企業で働き、国民一丸となって日本復興に進んでいった結果なのだと思います。
まずは焦土と化した日本を復興する。
この想いを国民で共有し、政治家も官僚も国民も一体となって復興に全力を挙げていった。
その想いは「みんなで豊かになる」ということ。
戦後、豊かになる’70年頃まで、このみんなで豊かになるという想いは共有され、政治家も私益だけではなく国民のためを想った政策を進めてきたと言えるでしょう。
そしてその背後には、潜在的に持っている縄文体質による共同意識が戦後の急成長を実現させたと言えるのではないでしょうか。
しかし、その豊かさが実現した’70年頃を境に、支配者と国民の共通認識は崩れ、官僚も国益より省益、私益へと傾いていく。
参考:るいネット「官僚制と試験制の通史的総括(戦後~現在)」 [19]

「官僚たちの夏」に象徴されるように、戦後の官僚は、「敗戦」という現実を前に、「経済復興」という「国益課題」に向けて邁進した。霞ヶ関の殆んどの役人は精励潔白で自分たちが日本の再建を背負っていると考え退官した後も民間に入り指導をし、官民が共に日本再建に向けて歩む役割を果たした。いわゆる天下りである。しかし天下りも、経済成長が一定の成果を収めると、国益よりも省益へと矮小化され、更に小泉改革以降、省益よりも自分の利益へとさらに矮小化されていく。

そして’80年頃から政治家、官僚の国民離れが顕著になっていく。
豊かさが実現して以降、なぜ支配者は民への配慮を忘れていったのか?
さらに、このことは弥生時代の朝鮮支配層にまで遡る属国意識が高まっていくことに繋がります
この続きは次回。お楽しみに 😀

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