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2011年12月28日

「支配者から見た属国意識」~5、武士とは日本の支配史にとって何か

師走の候。
今年も残すところあとわずかとなりました。みなさん、どんな一年だったでしょうか。
東日本の震災を切っ掛けに、人々の意識が大きく揺れ動いた年だったと思います。
また、原発問題やTPP問題等、政治や経済においても激動の一年でした。
秋から始まったこの「支配者から見た属国意識」のシリーズも、こうした激動の時代にあって、『果たして日本人は考え始めるのか』というテーマで日本の支配者の流れとその意識の変遷、そして大衆の心の有り様を探ってきました。
第5回目の今回は、中世の「武士」の支配に注目してみたいと思います。
この時代もまた、支配者層が貴族から武士へと移る激動の時代でした。
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平治物語絵巻 写真はこちらからお借りしました

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来年の大河ドラマの主人公でお馴染みの平清盛以来、江戸幕府の大政奉還まで実に700年近く、武士は日本の実質的な支配者でした。
以前当ブログで紹介した、戦国時代の分国法も江戸時代の目安箱も、武家政権の施策です。その中身は、単なる「武人」としての豪放さや猛々しさとはかけ離れた、より民の生活実態に目を向けた、現実的できめ細やかな物でした。
文字通り「武力」をその権力基盤とするはずの武士が、なぜ、力による圧政ではなく、公家の時代以上に民への配慮を意識する存在だったのでしょうか。
そこには、日本独特の「武士」と言う存在の成り立ちと、そこで培われた精神性、さらに「お上意識」「お墨付き」等に代表される、日本独自の支配構造の伝統をも受け継いだ、非常に独自性の強い物がありました。

まず、武士とは何か。その起源はウィキペディアによると・・・

武士の起源に関しては諸説があり、まだ決定的な学説があるわけではない。主要な学説としては以下の3つを挙げることができる。
①古典的な、開発領主に求める説(在地領主論)
②近年流行の、職能に由来するという説(職能論)
③律令制下での国衙軍制に起源を求める説(国衙軍制論)
①在地領主論
武士の起源に関する研究は中世の“発見”と密接に関わっている。明治時代の歴史学者・三浦周行らによって日本にも「中世」があったことが見出された。
(中略)
三浦らは、ヨーロッパの中世が、ゲルマン民族の大移動によって辺境で発生した「武装した封建領主」である騎士によって支えられていたことに着目し、日本で平安時代中期から東国を中心とした辺境社会で活躍した武士を騎士と同じ「武装した封建領主」と位置づけ、アジアで唯一「日本にも中世が存在した」ことを見出し、日本は近代化できると主張した。武士は私営田の開発領主であり、その起源は、抵抗する配下の農奴と介入する受領に対抗するために「武装した大農園主」とする。
この学説は広く受け容れられ、戦後も学界の主流を占めることとなった。唯物史観の影響を受け、武士は古代支配階級である貴族や宗教勢力を排除し、中世をもたらした変革者として石母田正らによって位置づけられた。
②職能論
しかし、「開発領主」論では全ての武士の発生を説明できたわけではなかった。特に、武士団の主要メンバーである源氏、平氏、藤原氏などを起源とする上級武士や朝廷、院など権門と密接に結びついた武士の起源を説明できない。
そこで、佐藤進一、上横手雅敬、戸田芳実、高橋昌明らによってこれら在京の武士を武士の起源とする「職能」武士起源論が提唱された。

以上、引用終わり
日本の武士の起源は、上述のように幾つか考えられますが、おそらくそのどれか一つではなく、むしろ2層構造であったことが考えられます。
すなわち、
①土着の農民から発達し、自らの利権を守るために武器を取った、「武装した大農園主」
②皇族・貴族を起源とし(源氏も平氏も、遡れば天皇家の血縁)、朝廷や院などの伝統的な権力との結びつきが強い「武家貴族」
です。
この両者が密接に関わる事で、日本の「中世」は形成されてゆきます。
その知識を元に、もう少し詳しく説明した記事を紹介します。
「武士から貴族の時代へ」さんからの抜粋です。
子供向けに、非常に分かりやすく説明しています!

農民が自分たちを守るために武士になりました
立場の弱い農民は朝廷からはけんされた国司や国司の代理,また,それらの役人と手を組んだ武装した農民(つまりこの時代の武士のこと)から,自分たちの土地や財産を守るために,刀をにぎりよろいを着て武装(ぶそう=武器を持って戦いにそなえること)しました.これが武士の始まりです.なかでもその地方で有力な農民が多くの農民を支配して武士のグループを作り,自らは指導者になりました,この指導者のことを「棟梁」(とうりょう)といいます.そして,このグループを武士団といいます.
武士団は荘園や国衙領(こくがりょう=国府管理下の農地.つまり朝廷に税を納めているところ),牧(まき=馬をかっている牧場),御厨(みくりや=神社に形の上であげた荘園)と,あらゆる場所から生まれました.
平安時代の中ごろからは律令(りつりょう)と言う法律(ほうりつ)はあっても名ばかりで,国司となった者の中にはその立場を利用して,余分に税を取ったり,人の土地を奪ったりする者も現れました.あまりにひどすぎるとその土地の豪族や農民に訴えられた国司もいたほどです.武士のグループは一族や仲の良い者同士で結束(けっそく)し成長していきました.数が多い方が安心だからです.つまり武士団とは互いに助け合う組織(そしき)だと考えてください.
中にはその力で,他の領地を奪う者も現れました.法律や裁判があってないような時代ですから,ますます武士団は成長していったのです.特に関東地方は開拓地だったために領地の境界がはっきりしていなかったり,都から離れていたこともあって「自分を守るのは自分とその仲間」しかいないという状況です.関東地方に多くの武士団が生まれたのもこうした理由があったからなのです.有名な秩父党とか横山党,武蔵七党とよばれているのは全てこうした武士団のことです.
 
都へ帰らない国司が武士の棟梁になりました
国司となって実際に領地におもむいた者を「受領」(ずりょう)といいます.都にいた時は中流の貴族や皇族でも,ひとたび地方へ行けばとても位の高い,血筋の良い人ということになります.こうした国司の中には任期が終っても都へ戻らず,国司だったときに得た自分の領地に残る者もでてきました.こうした人の中に天皇の一族であった「平氏」や「源氏」がいたのです.
自分達を守るためには,互いに手を結ぶことが一番です.しかし,同じくらいの身分だとどうしてもリーダーを選ぶのが大変で,互いにいがみ合ったりすることになります.「ドングリの背比べ」ですね・・自分達のリーダーは自分達より身分が高くなくてはならない理由がここにあります.それで,豪族達は地方にいのこった「平氏」や「源氏」を自分達のリーダーに選んだのです.
これらのリーダーを武家の棟梁(ぶけのとうりょう)といいます.頼朝の祖先もこうした武家の棟梁でした.やがて頼朝もこうした武士団の支持を得て,関東武士団の棟梁となったのです.

 
以上、引用終わり。
中世以降、日本の支配を担った「武士」も、その多くは土着の農民を起源としています。
当然彼らは共同体をその基盤とし、縄文体質を色濃く残していました。
地方にあって民と苦楽寝食を共にし、一緒に田畑を開墾してきた武士。
その精神は、中央の貴族が「民への配慮」を観念的な統治手法として扱っていたのに対し、より切実で生々しく、故に現実的に民の事を考える様に変わっていったと思われます。
まさに、支配者による「民への配慮」がもう一歩進んだ段階です。
一方、単に力の拮抗する武力集団が割拠するだけでは、戦が絶えず、民にとってはたまった物ではありません。
日本に於ける武家支配のもう一つの特徴は、こうした際限ない武力闘争を調停し秩序を維持する手段として、「源氏」や「平氏」といった、血統の確かな「武家貴族」をそのトップに戴くという方法をとった事です。
この発想は、古代に豪族達が天皇という“貴種”を頂点に据えて安定を図った構造と酷似しています。
時代が下っても武家の支配者は、どんなに武力で圧倒していても「関白」や「征夷大将軍」という朝廷からの“お墨付き”によって統治の正当性を確立しようとしました。
ここには、飛鳥時代以降塗重ねられてきた、「お上意識」を巧みに取り込み秩序と安定を維持する支配思想を見て取ることが出来ます。
武家時代でも、支配層も大衆も、この伝統的な統治構造を踏襲し受け容れることで、闘争を抑止し安定した生活を実現していたと考えられます。
一般的に、公家政権→武家政権は支配構造が全く変わったように捉えがちです。
確かに、農民出身の武士階級が支配者になることで、「民への配慮」が一歩進んだことは間違い有りません。
しかし、古代からの日本の支配者層の意識を俯瞰してみると、その根底にある、共同体基盤を活用することで安定を図る手法、そして支配者層の「民への配慮」と大衆の「お上意識」という意識構造が両輪となった統治構造は一貫していた事が分かります。
政権の主人公が変わってもこの構造はずっと引き継がれており、もちろん現代にもつながる物があると考えられます。
しかしながら現在の政治・経済の状況を見れば、果たして今の支配者層に「民への配慮」の意識が有るのか、極めて疑問です。
むしろ大衆の「お上意識」だけが色濃く残存し、結果として支配者層の無圧力と暴走を許してしまっているのではないでしょうか。
その意味でも、この日本古来の統治手法の事実とその限界・問題点を改めて皆で認識し、これからの社会を考えて行く必要があると考えています。

以上
最後まで読んでくれて有り難うございます!
本シリーズ、年明けは私たち現代人と、天皇制の関係について検証してみたいと思います。
それでは良いお年を!
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投稿者 yama33 : 2011年12月28日 List  

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