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シリーズ「日本と中国は次代で共働できるか?」                                     3~道教から中国の可能性を探る

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道教を追求するのはなんで?
陰陽五行、神仙(仙人)思想、風水、気功、漢方医学。これら日本人にもお馴染みの中国文化は、みな道教思想と深い関わりをもっています。
道教の歴史は古く、その源流は文明以前に遡ります。中国人が戦争を始める前の思想が、いまも残っている可能性があるということです。
18世紀、中国の小説家魯迅は「中国の根底は、すべて道教に在り」という言葉を残しています。そこに、今後日本が協働していく可能性があるのではないか。それを明らかにするために、道教を紐解きます。


道教とは何か
 
一言で云えば、日本における神社信仰(神道)の中国版である。
 
それで分かった方は、もう卒業です。
 
 
道教は中国人の意識の中に深く浸透している
 
日本人は無宗教といわれています。しかし、何かにつけ神社にお参りします。お宮参り、七五三、合格祈願、縁結び、厄除け、結婚式に至るまで神社です。かといって信仰について問われれば皆、無宗教と答えるでしょう。
 
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中国の縁日(廟会)         道教寺院での初詣
 
中国も似たような状況なのです。8割が無宗教。しかし、日本人と同じように初詣にいき、日々祈願し、とくに農村部では神々の誕生日にはお祝いをし、奉納の演劇や縁日が開かれています。
 
道教の思想はどんな特徴があるのか
 
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道教発祥の地の一つ青城山の山門 
 
家の神棚には神様、仏様が飾ってあります。場合によってはキリストもいっしょです。この信仰の柔軟さは、庶民に限らず、道教の施設(道観)でも見られます。そこでは道教の神様と仏教の神様が同居していますし、 なんと歴史上の英雄も登場します!なんでもありの多神教の極地です。
  
驚いてはいけません。
 
日本でも菅原道真、徳川家康、蘇我入鹿、歴代天皇などが神様として神社に祀られています。一神教のような排他性がないのです。だから、求心力も生まれにくく、宗教らしくありません。その根底には現実志向(現世利益)に基づく“いいものはなんでも取り入れる”意識があると思われます。一神教は原典や戒律を大切にしますが、中国の道教はいいものを塗り重ねていく構造になっているといえるでしょう。したがって、道教は、思考や文化の出発点(原因)になっているのではなく、結果であるとも云えるでしょう。(そこも西欧と違う)
 
その現実志向の柔軟性の結果、教えの内容も多様です。様々な願いに応えてくれる様々な神様がおり、占いや予言あり、健康法や医学あり、宇宙の真理の追求あり、さらには性の奥義あり、といったぐあいです。
 
 
道教の塗り重ね構造の概観
 
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道教の聖地のひとつ泰山 
 
道教の起源は、古代の母系氏族社会の民俗信仰を基層として、殷代の巫術、周代の鬼神、春秋戦国の黄老学説、秦・漢代の神仙思想、唐・隋代の仏教が塗り重ねられています。
 
その時代に流行った思想をどんどん吸収していったなんでもありの思想体系です。しかし、何でもよいのではなく、大衆が積み上げていったことをイメージすれば、「これはよさそう」というみんなの総意が蓄積した充足イメージの集大成であるといえるでしょう。
 
つまり、道教の特徴は
●とにかく現実志向(現世利益)→実践的で観念性が弱い。
●なんでもありの多神教(八百万の神)→柔軟で排他性なし
 
 
道教は現在、どうなっているのか~壊滅から拡大へ
 
道教は清代まで大きく変化することなく存続します。しかし、清王朝が倒れ、中華民国が成立すると、国民党が神祠の存廃条例を発布し、いくつかの道教の観や庵は接収されます。祭祀も制限され、道教は封建社会の迷信的な体系として知識階級から遺棄されます。また、1966年からの文化大革命(社会主義運動)によって弾圧され、壊滅的打撃を受けます。
 
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道教の道士 
 
それでも道教は根強く残っています。中国道教協会の統計では、現在、道観(道教寺院)に居住している道士は3万人近くおり、在家の正一教の道士は約6万人。正式登録された道教の活動拠点は3万ヶ所あるそうです。
 
近年、世界的にも道教に対する関心が高まっています。
日本ブームと共通する本源回帰の表われではないでしょうか。
  
 
中国は協働対象足りえるのか
 
道教には、多分に本源性が残されています。その象徴ともいうべき言葉があります。ある道士(仏教の僧侶に相当)の言葉です。
 

道教では言葉や仕草、ものの扱い方、振る舞い、すべてが運気に関わっていると考える。相手を大切にする心や人を愛する心は、言葉ではなくとも、ものの置き方や包み方、自分の動作・振る舞い・仕草などに表れる。作法に則って振る舞い、きれいにきちんと包んで相手にものを渡す、そうした心配りや相手を思いやる心は目には見えないがエネルギーとして周りに伝わる。

 
 
また、道教の経典ともいうべき『道徳経』にも次のような言葉があります。

賢人には定まった心はない。
だが、人々の心をその心とする。
(第四十九章)

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道教には可能性がある
 
道教は、その起源からして捉えどころが無く、雑多な信仰の寄せ集めの観が否めません。それは、根本思想に柔軟性があり、現実志向で、なんでも受け入れる精神性が生んだのです。その宗教性の薄さも、排他性の無さも、良いものは受け入れるところから到達した必然だったといえるでしょう。
  
それは日本と同様、本源的共同体が温存されたことによります。温暖な気候ゆえの生産性の高さ(豊かさ)もありますが、彼らを支配した遊牧部族が氏族共同体そのものであったことが大きいと思われます。バラバラの個人が結集した西欧の略奪部族とは自我の大きさが格段に異なります。
 
中国では、受け入れ体質の農耕民に対して、その集団性や文化を残したまま支配しました。共同体(共認充足)が温存された結果、現実は充足対象のままであり、西欧のような現実否定に基づく架空観念(ex.あの世)は必要なかったのです。
 
また、特筆すべきは、多くの宗教が多かれ少なかれ女性を敵視し、性を封鎖しているのに対して、道教は性を探求している点です(ex.房中術)。これはインドの民俗宗教を基盤にしたヒンズー教にも見られます。
  
中国人の意識の深層に、本源性を色濃く残した道教の精神が残っているのなら、その道教(の精神)を紐帯として協働の可能性はあるでしょう
 

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