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「土器から蛇(隆線紋)が消えた」のはなんで?~ツタ考を受けて~

ツタ考1~4を掲載させていただきました。
ツタ考1~縄文土器が“ツタ”える蛇信仰~ [1]
ツタ考2~森の言葉(コトノハ)~ [2]
ツタ考3~森がはぐくんだ“円環の思想”~ [3]
ツタ考4~鉄が変えた森の思想~ [4]

このような掲載は当ブログでは始めての企画で、それ自体メンバー共々、かなり盛り上がりがあり、るいネットでの佳作掲載も含めてこの論考の注目度は高いものがあります。
このツタ考をいただき、私達の次のテーマ(弥生を解明する)につなげていきたいと考えているところです。

ツタ考4~鉄が変えた森の思想~ [4]において著者は以下のように述べています。

なぜ縄文晩期から弥生時代かけて隆線紋は消えてしまったのでしょう。
なぜ、“ツタ”の重要性はかくれてしまったのでしょう?
(中略)
その結論は「鉄」です。

原文は『ツタ考』 [5]
をご覧下さい

つまり、著者は鉄の伝来、それによる森の整理が進み、それによって縄文以来の自然観を失い、土器から蛇(隆線紋)が消えたとしています。

縄文ブログの仲間とツタ考を扱う中で、土器から蛇(隆線紋)が消えたのは「鉄」そのものではなく、「鉄がもたらす支配思想」や「栽培に伴う環境変化」だったのではないか?との意見が出てきました。

そして、これこそが「ツタ考4~鉄が変えた森の思想~」 [4]のポイントであり、縄文から弥生へと繋ぐ、弥生時代を解明する上で重要な事柄であると思います。

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この「土器から蛇(隆線紋)が消えた」点について、歴史認識、史実も含めて私の考えを述べさせていただきます。





















1.まず弥生土器に見られる無紋土器は北九州に最初に広がっています。突帯文土器として無紋の土器が拡大しました。それは栽培技術を発達させた縄文晩期から始まり、弥生時代にかけて西日本、そして日本全国へと拡がっていきます。

2.この時代に重なるのが中国江南地方からの渡来民です。
江南人は縄文人集落に同化し、故に稲作は戦争を経ずに縄文人に伝播されていきました。つまり、無紋土器だけでなく稲作栽培の技術も同時に日本全国へと拡がっていったのです。そして、人々は日々の採集の森林から、一度に大量を収穫する栽培の平野へと生産様式を確立していったのです。

3.江南人の渡来は2,500年前頃の越人、さらにはもっと遡れば3,000年前の長江文明滅亡時の背走部族、苗族までいきつきます。彼らが稲作と同時に無紋土器を伝え、それを縄文人が受入れました。

4.弥生土器は用途(煮炊き、貯蔵、盛付け)に応じて多様化し、総じて無紋です。しかしその曲線は美しく、決して機能的な道具に成り下がったわけではない(と私は思います)。また、よく見れば薄い紋様や縄文の装飾をわずかながら表現しているものもあります。

5.この土器の縄文から無紋への変化には3つの要素があると考えています。
1)

[8]

こちら [9]よりお借りしました


弥生土器の用途は、その生産様式から貯蔵用、煮炊き用、盛付け用、祭祀用などに応じて多様化していきます。また、一度に生産物を貯蔵する必要性からも縄文土器より数多く造られた可能性もあります。

2)
◆縄文の表現を先端に残した弥生土器

[10]


こちら [11]よりお借りしました


もう一つは、無紋土器は渡来人が持ち込んだ文化であり、それを縄文人が稲作と同時に受入れたという縄文人が持つ“受け入れ体質”の問題です。
歴史的にも日本人は進んだ大陸文化への受け入れにはハードルが低い。これはすでに縄文時代を通じて様々な民族、文化が断続的に渡来する大陸の東の端、島国故の地理的環境と、豊かな自然環境の中で育まれた肯定的体質故のものだと考えています。
江南人はこの類稀な縄文人の受け入れ体質に吸収され、(稲作、土器の)先進的文化は伝えますが、精神は縄文人に組み込まれ、同化していったのです。それが日本人の祖先である弥生人だと考えます。

3)さらにもう少し深く当時の思想性として考えられるのは、稲作、栽培という文化は自然のコントロールが必要です。つまり、自然を注視しながらも、それに対峙し、時に祈りをもって自然界から人間が栽培物を受け取る構造にあります。自然は荒々しいものでありながら、穏やかであってほしいと祈るのです。それが土器の表情に転写し、無紋の紋様を作り出したと考えてはどうでしょうか?


従って、第4章で書かれている「蛇に対して畏怖や畏敬を感じとる意識は低下していった」という部分に対しては濃淡の差こそあれ、私は、むしろ脈々と弥生人に受け継がれ、その後の日本人の自然に対する畏怖の念や信仰として残されていったと考えています。

また、鉄については、大きく2つの要素が考えられます。

一つ目は「鉄もまた祈りの対象」という視点です。
日本に伝来したのは江南地方のたたら鉄です。支配の道具として中国や朝鮮で使われたのはたたら鉄ではなく大量に鋳造できる鋳鉄の方です。その意味からも鉄の製法伝来も江南人から縄文人に緩やかに受け継がれ、その硬くて丈夫な製法は日本刀の品質として長く江戸時代まで永続されていきました。鉄や青銅がすべからく祭祀の道具として用いられた事も決して自然を破壊する道具として最初から用いられたものではないと考えています。

二つ目は「鉄は支配の道具」であるという視点です。
5世紀に到来した朝鮮系の騎馬民族がもたらした鉄文化においては、著者も指摘しているようにそれまでの縄文的な循環や共認といった思想をないがしろにし、鉄は間違いなく武具として用いられ、その後は大規模な開発を行なう農具として大いなる力を発揮します。鉄は支配や自然破壊の開発の道具として用いられ、縄文人や縄文人と混血して各地に存在した弥生人を従える事になります。

これら、鉄や銅が日本にどのように伝わり、その影響を広げていったのかは結構深い追求課題だと思っています。この縄文ブログでも近日中に弥生時代の研究に取り組んでいこうと考えているところですので、そこでこの課題にも取り組んでいければと思っています。

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