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属国意識の源流を辿る6~属国意識の形成過程を通史で見る(前編)

属国シリーズを7月から始めてきて途中少し飛びましたが、いよいよ最終回とさせていただきます。
まずはこれまでの投稿を振り返ります。
属国意識の源流を辿る1~なんで屋劇場における問題提起 [1]
属国意識の源流を辿る2~属国意識の形成過程 [2]
属国意識の源流を辿る3~日本の属国意識を決定付けた白村江での大敗北 [3]
属国意識の源流を辿る4~『漢委奴國王印』や『親魏倭王』とは何か? [4]
属国意識の源流を辿る5~倭の五王が属国の原型 [5]
属国意識の形成過程を見ていくうえで、これまで中国、朝鮮半島、日本列島とそれぞれの角度から見てきました。そこで今回はそれらのまとめとして、縄文晩期から奈良時代にかけての支配者の意識の変遷(あるいは一貫性)を見ていきたいと思います。
日本列島は後から来た支配者が常に古い支配者の上に重なり次々と交代していったという流れがあります。そしてそれはいきなり支配という形ではなくまずは融和、やがてその一派となり、最後には寝返って上に立つという構造を有していたようです。それは日本という土地が海を隔てているが故に大量渡来が難しく、常に小規模な勢力でしか入ることができなかった事も一因であろうし、何より日本に来た部族が大陸で武力で負けた敗賊であるという事がそれらの政治構造を作ってきた要因であることは間違いないでしょう。
縄文晩期を経て弥生時代から古墳時代、大和朝廷が誕生するまでの日本の曙時代を見ていきたいと思います。この時代は激しい渡来人同志の国内での勢力争いがありましたが、同時に日本の属国意識が形成された時期でもあり、勢力争いという闘争課題に対して渡来人たちはどのように対峙したのかがその後のこの国の体質を良くも悪くも決定付ける事になります。
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いつものように渡来民の流れ毎に見ていきます。
【渡来民の縄文人との出会い】
紀元前9世紀頃から紀元前4世紀~江南人である呉越の難民が北九州や山陰地方に渡来します。いわゆるボートピープルの始まりです。この時代の渡来民は春秋戦国時代という中国内の長期間の戦争圧力を受け長い時間をかけて少人数で渡来し、倭人としての集団を日本列島、朝鮮半島南部にわかれて形成されます。最初に呉が北九州に、後に越が出雲を起点に列島内に稲作と青銅器文化を携えて広がっていきます。強国楚に終われ、彼らのうち大半は陸続きの朝鮮半島に第二の基盤を形成する為に集団移動しますが、数百キロ離れた日本まで辿りついたのはその中でもさらに少なく、航海技術をもった一族がまさに命からがら逃げ延びてきています。言い換えれば彼らは朝鮮半島にも残れなかった最も弱い一族であったとも言えます。
それ故に日本列島に到着してからは、優待する縄文人に驚きまた安心して、共存の方向を選択していきます。これが最初の弥生人の基礎集団となり、その後土着化していきます。
渡来人と縄文人の融和と言えば聞こえはよいですが、言い換えれば最初の渡来民は私権闘争は経験していましたが、武力を使って支配する手法を半ば放棄した民がやってきていたのでしょう。
【虎の威を借りた疑似王朝が九州に登場】
しかしその後紀元前2世紀になると秦、漢の中国統一後の領地拡大の波を受けて、朝鮮半島の最初の動乱が起きます、衛氏朝鮮が滅亡、朝鮮半島南端に定着していた倭人集団は押し出されて北九州へ渡来します。彼らは明らかに私権闘争を経験しており、それまでに漂着していた列島の倭人とは闘争性が異なっていました。彼らは北九州で先住民を巻き込んで大規模集団を作り、最初の戦争を引き起こしますが、地域を統合するまでの首長になると安住し、戦争は長期化していません。しかしこの時に出来上がったクニという形の集団間の序列や首長を中心とした階層の出現は日本列島のその後の属国意識を生み出す基盤になっていきます。
こうして紀元前後に成立した奴国、伊都国という北九州に出来た2つのテクノポリスは既に後漢との交易を頻繁に行なっており、漢の領地拡大路線に呼応するような形で57年に金の印章を受け取っています。しかしこの印章はあくまで漢が優位に外交を進める為のお墨付きであり、朝貢の見返りでもありました。こうして巨大帝国漢の恩恵を受けて鉄を駆使して北九州に王朝と呼べる規模の国家が登場したのです。
しかし、漢の滅亡と歩を合わせる様に北九州も没落していきます。倭国大乱の時代です。
【朝鮮半島の動乱が生み出した敗者集団の大量渡来】
同時期に中国、近畿に朝鮮半島で戦乱を経験した百済、新羅からのボートピープルが渡来します。百済、新羅、高句麗は建国以来ほぼ毎年のように戦乱を経験しており、勝った部族はそのまま半島内に残り、負けた部族が周辺に 逃げ延びました。
中国はすでに戦乱の最中で逃場は限定されており、中国に向かえない彼らは集団ごと日本に渡来することになります。3世紀から5世紀の渡来民はこのように百済、新羅、高句麗の3国の敗者氏族が渡来しますが、既に先住渡来民が定着している北九州、山陰、北陸を避けて瀬戸内海から近畿へと隙間を縫って定住していくしかありません。
よくなぜ奈良のような辺鄙な山奥に古代の日本の中心が在ったのか疑問がもたれる事がありますが、瀬戸内海の奥のさらに山を越えた盆地は、追手となる敵から逃げのび、防御する為の絶好の地であったことを考えれば適していることがわかります。同時に瀬戸内海沿岸に続々と作られた高地性集落も背走した半島の部族の集落の意識を反映しています。
【渡来民同志の序列形成は武器を使わずに行われた】
しかし、彼らは敗者ゆえに戦争を用いない統合手段を作り出します。これら渡来民が作った集団は土着民を巻き込んで大型化し、さらにそれぞれの集団の規模に見合う古墳を作って集団間の序列を形成します。世界中の事例を見ても序列形成には必ず戦争や小競り合いがつき物です。ましてや異民族同士の集団です。しかし、この状況下でも戦う事を選ばず、古墳を競って作りあうという形で序列を構成し、また巨大古墳を作る強いクニ集団と関係性を持つ事で自集団の防衛力も強めるといった“連合”という政治手法が形成されます。
古墳時代とはこうして“連合”という形で属国意識(寄らば大樹の陰)が形成されていく過程でもありました。しかしながら武力に拠らない為、圧倒的な序列差は生まれず、天皇は持ち回りで連合の間の上位集団(クニ)の中で順番にあてがわれていました。
さらに時代を追って5世紀、6世紀には任那、百済滅亡といった事態を経て、それまでの敗者だけでなく、長らく勝者であった一国の王族の一派が流れてきます。それに付随して国家官僚や豪族といった力のある輩も日本に漂着します。いわば外戚渡来です。
すでにキングメーカーとして半島の情勢を抑えていた葛城氏を排除し、蘇我、藤原といった新興勢力が力を付けていきます。
【新興勢力が取った支配の手法とは・・・婚姻戦略】
しかし、彼らが取った手法もまた朝鮮半島で培われた属国意識由来でした。いくら半島の王族や上級官僚とは言え日本に来ればただの渡来氏族です。彼らが上位に上がるには武力は使えず、それまでの半島内での関係を使って、大和王朝の中核に入り込むしかありません。その手法が既存王朝との婚姻でした。蘇我も藤原も天皇家と婚姻関係を形成する事で中心に入り込んでいきます。また一方の天皇家側も既に外圧が高まっている半島の情報をいち早く入手する為に外戚の彼らを取り込んでいった方が有利です。取引が成立したわけです。
さらに彼ら新興勢力の勝敗を決するのが土着民の巻き込み力です。蘇我氏は土地管理という要職を利して各地を把握、いち早く仏教を取り入れるとそれを使って半島から先行して渡来した大和の住民である貴族階級も巻き込んでいきました。世界各国の古代国家がいずれも武力で大衆や氏族を従えたのに対して、全く逆の手法で懐柔していったのです。
蘇我氏の大衆からの評価がいかほどかは知る由もありませんが、蘇我氏討伐の後も同様の政策が継続した事から敏腕であった事は間違いないでしょう。決して上に立たず、2番手3番手で上を動かす政治手法はこの時から既に我が国の基本スタイルであり、同様の手法を次代の藤原氏も取る事になります。しかし言い換えれば権力の中枢は常に力の原理ではなく、支配者組織の中の派閥競争、内部工作で決まっていく事がこの時代から始まっていたとも言えます。
内部には徹底的に人脈で工作し、対外的にはひたすら朝貢や迎合路線で戦わずして切り抜ける。武力を持たない、あるいは武力による統合を知らない我が国のリーダーはこのようにして形成されたと言えます。
【日本史上初めて登場した武力集団が属国を決定付ける】
ただ、その原則に従わない一派も居た事は事実です。それが継体天皇であり、天智天皇です。継体は力で九州王朝を攻め込みたまたま突破しました。外戚である天智はついに敵無しとなった大和王朝を武力王朝に変えれると過信して白村江に攻め込み大敗します。
いずれにしても武力である兵が全くの素人集団ゆえ戦力にならなかったというのが事の実態だと思います。白村江以降、敗走した大和朝廷は徹底した属国戦略、以前にもまして敗者故の属国意識が外交戦略の中心になっていきます。こうして日本の曙時代(奈良時代)は唐の徹底的な模写から始まっていきました。

本シリーズはここで一旦打ち切りとします。
まだかなりの部分解明していく課題が残っており、奈良時代以降属国意識が温存されさらにそれに呼応する形で大衆のお上意識が形成されていった過程は、数ヶ月の間を空けて、扱っていきたいと思います。
その意味で今回のまとめは(前編)とさせていただきました。 🙂

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