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日本人の民族特性こそ次代の可能性4~支配者層の特性とは?(1) 属国意識の正体とは 

みなさんこんにちは!
「日本人の民族特性こそ次代の可能性」 [1]シリーズの4回目。今回は「属国意識」について考えてみたいと思います。
前回の記事 [2]では、日本人の受け入れ体質について扱いました。
縄文時代から受け継がれた受け入れ体質は柔軟性や懐の深さ等、現代も残る日本人の意識の基底部を形成し、またそれが日本人の大きな可能性であるという内容でした。
その一方で「長いものには巻かれろ」的に、常に強国のいいなりになる現代の日本の姿勢は、属国意識とも揶揄され批判の対象となる事もよくあります。
特に、属国意識故の外圧捨象→思考停止に陥り答えを出す事が出来ない支配者層(政治家・学者、マスコミ等)の無能ぶりと暴走は、この激動の時代にあって現代日本が抱える大きな問題と捉える事もできます。

その意味でも属国意識の正体は何なのか。
支配者層の属国意識と大衆の受け入れ体質と何か違うのか、あるいは同じなのか。
今、改めて考える必要が有りそうです。
そこで今回は、まずこの属国意識の成立過程を考えてみたいと思います。


以下、当ブログ記事 [3]から引用します。

『属国意識は朝鮮、日本の政治意識として顕著ですが、実はこの意識は中国という大国が中心にあり、その周辺を小国が取り巻くという東アジアの特有の枠組みによって派生したのではないでしょうか。そしてその意識は中心である中国で最初に形成され、それが周辺国に転写したと見ています。


 ■属国意識の根本は中国にあり!
そのきっかけは実質上の中国最初の統一国家、漢以降に行なわれた朝貢という国家関係にあります。朝貢関係とは中国側から見れば圧倒的な国家の力関係を利用して周辺国との序列関係を確定する事であり、周辺国から見れば中国と朝貢関係を結ぶ事で侵略の危機を脱することができるという都合のよい制度です。序列関係上の下を認め、言う事を聞く代わりに大国の庇護を受けるという関係になるのです。具体的には中国と高句麗、新羅、百済がそれに相当し、また日本も大和朝廷は大陸と朝貢関係を結んでいました。
さらに高句麗や新羅が建国される前からも朝貢関係は中国国内で王朝と周辺諸侯が納める小国との間で結ばれていました。
遡れば朝貢関係という形になる以前から中国では王朝交代の度にそれまでの配下の諸侯が下克上で成り上がり王朝を転覆させるという事が常態であったように思います。夏王朝を転覆させた殷、殷を追い込んだ周、周を追い回し、大国を築いた秦、いずれも上下関係を逆転させて王朝が形成されています。
一旦は王に仕える筆頭諸侯がある時に反旗を翻し征服する、朝貢制度とはそれらの歴史を繰り返してきた中国が作り出した安定政策の一環なのではないでしょうか。
しかし、この朝貢関係を結ぶ相手国もしたたかで、この関係を利用しつつも隙あらば逆転を狙うという意識が同時に形成されていきます。』(中略)


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朝貢貿易 図版はこちら [4]からお借りしました
こう見ると、支配者層の「属国意識」とは国家の生き残り戦略の一つであり、私権獲得の為の一つの戦略にすぎません。
その意味で、相手や集団の充足を第一とした縄文人の受け入れ体質とは、全然違う物であると捉えることが出来るのではないでしょうか。
さらにこの意識は日本と朝鮮に支配者層にどのような影響を与えたのでしょうか 

 ■日本は属国になることで建国した。以降は朝貢関係を利した親唐戦略、ほとんどトレースした律令制度、仏教、漢字の受け入れなど、ひたすら大国「唐」を後追し庇護を受ける側に回りました。後に高麗や李氏朝鮮が同様の状況に陥り小中華と呼ばれるぐらい中国より中国らしくなりましたが、日本の建国当時の状況はその時代より300年遡り小中華を目指した時代であったとも言えます。半島同様、日本も中国との属国関係に一心に向かう事で、最大の侵略危機を乗り越えたのです。遣唐使の派遣はその当時頻繁に行なわれますが、ひたすら大国中国の文化、政治を受け入れる為の属国戦略の一環でした。


■朝鮮と日本を分けたものは・・・しかし朝鮮半島と日本が大きく枝分かれするのが、平安時代以降になります。
894年遣唐使の中止などそれまでの朝貢関係を排除する事に成功しましたが、それは単に唐が内戦によって弱体化したという相手側のお家事情に他なりません。また、相手が弱体化すれば一気にそれまでの国家間の序列関係を排除できるというのも海という防衛網を持つ日本特有の動きです。同時代の朝鮮は一様に中国の圧力は受け続けていました。
ここから日本は独立国としての路線をとり始めます。しかし、一旦植えつけられた政治手法はその戦場を国内に移したに過ぎず、平安時代以降は内政としての属国意識が継続します。寄らば大樹の陰、序列関係の形成と転覆の機会を伺うといったせせこましい政治意識はその後の日本の権力闘争に転写され、存続したのではないでしょうか。

一方朝鮮の方は高麗、李氏朝鮮と時代を経るに連れて中国との属国関係はより強力になり、まさに小中華として存続する道を選ぶ事になります。
一旦道が分かれたかに見えるこの2つの小国は属国意識の変遷過程が異なるだけで、中国に近接する朝鮮半島はよりストレートに、海を隔てた日本は意識下に潜伏しながらもその本質は変わらず、今日まで及んでいます。既に中国という脅威はなくなったものの、新たな属国対象として欧米を追従した近代史はその意識が潜伏していた事の証左でもあります。
 (以上、引用終わり) 

日本は大陸と海で隔てられた島国です。
その地理的要因により、日本人は朝鮮人ほどに属国意識が顕在化することは少なかったようです。
朝鮮半島は中国と陸続きであり、そこで晒される圧力は島国日本とは比べものになりません。
朝鮮は中国との関係に国家の存亡そのものが懸かっており、常に中国の顔色を伺う状態であった事は想像に難くありません。そこで刻印された「属国意識」は、極めて深く大きい物でした。
これに対し、四方を海に囲まれた日本では、大陸からの圧力は数段下がります。
加えて、戦乱が少なく、温暖湿潤で物なり豊かな日本では、安定第一と秩序収束が大衆の一番の期待となります。
朝鮮半島から来た渡来人達も、こうした安定収束と受け入れ体質の縄文人達と触れる中で、彼らの持っていた「属国意識」もまた変化していったと考えられます。
大国との力の序列を自国家の存在基盤とした朝鮮の属国意識は、人同士、集団同士の共認関係と秩序構築を安定基盤に置く日本的な意識に変質して行きます。
天皇家を絶対不可侵の存在として共認し、それを頂点に戴く事で安定維持を図る仕組みや、
諸侯間において盟主との序列関係をデモンストレーションとして制度化した江戸時代の参勤交代制など、
朝鮮半島から持ち込まれた純属国意識は、国内の安定維持と秩序形成のために変質させた日本独自の「属国意識」へと変わって行きます。
これが日本における属国意識の正体なのではないでしょうか。
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参勤交代の図 こちら [5]からお借りしました
しかし、属国意識の本質である、「長いものには巻かれろ」と外圧を捨象する思考、事が起こってから「どうする」を考える思考は日本人の意識の深層に刻印されている事もまた事実であり、今後起こるであろう市場社会の崩壊や社会の混乱といった状況に対応する事が出来ません。
その事を理解し、どう考え行動すれば良いのかを考えてゆく為にも、日本人の民族特性の一つであるこの属国意識の正体を今ここでしっかりと追求してゆく必要があると思います。
そこで次回は、現代における属国意識について、引き続き考えてゆきたいと思います。
ご期待下さい!
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