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属国意識の源流を辿る4~『漢委奴國王印』や『親魏倭王』とは何か?

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『日本人の源流を探して』 [1]より

日本の支配階級における属国意識は、東アジアにおける中国という大国の周辺諸国の弱小国であるが故の外交戦略であることが問題提起されています(参考:「属国意識の形成過程(2)」 [2])。

では、日本の支配階級における属国意識はどの頃から芽生えたのでしょうか?
日本における中国の冊封・朝貢の兆しとして最初に登場する『漢委奴國王印』や『親魏倭王』に遡り、当時の大陸からの渡来民との流れをおさえてみたいと思います。

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紀元前から8世紀までに、中国や朝鮮から日本に渡来民が来たのは大規模なもので5回あると考えられています。
その第1波は紀元前4世紀の稲作普及時期頃です。
紀元前8世紀頃の中国では、周王朝が滅亡し春秋戦国時代に入っており、この頃から大陸の江南地方の難民(倭族)が日本列島に流れ着くようになった。この第一派は楚が南方を掌握する紀元前3世紀にかけて五月雨的に流れ着きます。

第2波は3世紀頃。中国は、魏・呉・蜀の三国による戦乱の時代。
朝鮮半島では魏による朝鮮半島楽浪郡の制圧を受け、高句麗・扶余族と魏との対立の中、玉突き的に戦乱圧力が発生、南朝鮮には馬韓・辰韓・弁韓等の小国家群が登場します。その戦乱のあおりを受けた者たちが日本に亡命したと考えられます。

では、この渡来と『漢委奴國王印』や『親魏倭王』との間にはどのような関係があるのでしょうか?

『漢委奴國王印』や『親魏倭王』は第1波と第2波の間に起こった出来事です。
第1波によって日本に渡来した呉・越の人々は、戦乱の中での渡来であってそこから避難したいわゆるポートピープルであり、縄文人は彼らを受け入れ、水田稲作を受け入れたと思われます。

そのような状況下で、57年には『漢委奴國王印』を皇帝から授与され、239年には卑弥呼が『親魏倭王』の称号を魏から受けています。しかし、はたしてこれは日本にとって果たして必要なものだったのでしょうか?
『漢委奴國王印』や『親魏倭王』と言うと冊封体制に組み込まれた、すなわち中国の属国になったのではないか?との見方も可能ですが、実際はどうだったのでしょうか?

そもそも中国における冊封体制とは、称号・任命書・印章などの授受を媒介として近隣の諸国・諸部族の長が取り結ぶ、名目的な君臣関係であるが、それは中国及び近隣諸国が遊牧騎馬民族にどう対抗するかという外交上、民族統合という内政上の課題・目的を受けて登場したものです。
また、冊封国側(中国近隣諸国)からすれば、中国からの侵略を回避できると同時に、中国の権威を背景に周辺国に対して優位に立てるというメリットがあります。

【中国からの軍事的圧力を回避する必要のない日本】

当時の漢帝国にとって、最大の脅威は北方のモンゴル高原の匈奴や鮮卑などの遊牧騎馬民族であり、彼らとどう対抗するかが、外交上の主要な課題であった。
また内政においては、春秋戦国時代を通じて流入した遊牧民族や流民化した農耕民族の部族長などを、どう支配下に置き続けるかという重要な課題があった。
そこで、中国皇帝も周辺諸国からの「朝貢」と諸国への「冊封」という体制を積極的に利用する。朝貢に来た使節団を過剰にもてなすことで、内政上のパフォーマンスとして使い、帝国内部の部族長に皇帝の威光を知らしめ、支配を正当化した。
日本の属国意識を決定付けた白村江での大敗北 [5]より


まず『漢委奴國王印』の金印を受けた当時、海を隔てた島国日本では、第1波(紀元前4世紀頃)から57年の『漢委奴國王印』までの約500年間前後は、中国だけでなく、朝鮮からの侵略圧力にも晒されず、大陸の直接圧力とはほぼ無縁の状態であったと思われます。また卑弥呼が魏より『親魏倭王』の称号を受けた239年当時の、魏・呉・蜀の3国分立時代も同様で、大陸の直接的な戦乱圧力は日本には及んでいません。
また、現実的には日本と言っても、その規模は倭人が渡来してきた地方の豪族程度だったと想定されます(参考:『著書分析より明らかにする日本支配の始まり5』 [6])。

つまり、日本には冊封国になるメリットは何もなく、日本からわざわざ冊封・朝貢を願い出たとは考えにくいのです。

■『漢委奴國王印』や『親魏倭王』とは中国のパフォーマンス
上述の通り、日本から望んで冊封・朝貢などの体制をとったとは考えづらいことや、中国の冊封・朝貢体制においても『漢委奴國王印』や『親魏倭王』などに代表される金印を皇帝から授与された周辺国は少なく、隣接国との冊封関係を築くのならまだしも、海を挟んだ島国日本(前述のように地方豪族程度)に対して実質的なメリットは少なかったと思われます。

中国は日本を冊封体制に組み込み朝貢をさせたかったのではなく、単に中国の勢力の拡大を示す、外交及び内政上の一種のパフォーマンスであったという見方ができます。
つまり、この段階では中国に対する属国意識の芽生えはなかったと想像されます。

           

では、日本の属国意識を決定付けた白村江での大敗北までにどのような過程で属国意識が芽生えたのでしょうか?次回はこの当たりについて調べてみたいと思います。

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