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著書分析より明らかにする日本支配の始まり3~日本に伝わる倭族の習俗~

こんにちわちわわです。
前回の~長江の倭族が日本にたどりつくまで~ [1]では、呉が越に敗れた紀元前473年以降、倭族である呉の農民が稲作を携えて朝鮮半島と日本に流れてきたことを紹介しました。
今回は引き続き、日本に伝わる倭族の習俗に焦点を当てその根拠を補強するのと同時に、後に朝鮮半島からも倭族がやってきた事実も証明していこうと思います。
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以下、『古代朝鮮と倭族』より要約します。
朝鮮半島の中・南部には倭族に属する辰国が建国されていた。それが後に馬韓・辰韓・弁韓に分立するが、それら三韓はなお馬韓の辰王によって統べられていた。
ところが、東扶余国から帯方群に亡命していた王子が、4世紀半ばすぎ東晋の支援のもとに、馬韓を討ち、馬韓の地に百済国が建国される。
支配者の交替はただ政治権力の移行に止まらず、かつての風俗慣行までも変容される。殊に馬韓の神話は、更迭した百済の王権によって抹消され、今ではその内容を知ることができない。
しかし幸いにも、馬韓の特殊な習俗としての「蘇塗」のことが、『後漢書』『三国志』『晋書』の馬韓伝に記されていた。
「又蘇塗を建て、大木を建て以って鈴鼓を懸け、鬼神に事う」 (後漢書・東夷伝・馬韓)
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        済州島のタプ
「蘇塗」とは円いドーム形の仏塔に似た築造物で、円錐状に石を積み上げた塔をさしたものと解される。また、蘇塗のある範囲を聖域と認め、その聖域をも蘇塗と呼んでいた。
蘇塗のある地域へ逃亡者が逃げ込むと捕らえることができず、そのため悪人をつくりやすいと記されている。聖域にのがれると、誰であろうとも捕らえられないというのは、世界に広く見られる習慣である。
前記三書以後の文献から蘇塗の習慣は消滅するのだが、朝鮮本土の錦江流域済州島には現在でもまだ息づいて残っていた。それは塔(タプ)と呼ばれ、村の入口に設けられて悪鬼や病魔の侵入を防ぐことから、防邪塔ともいわれている。
その頂部には自然石の立て石、もしくは自然石の鳥の形象物が置かれている。
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【馬韓に見られる蘇塗の習俗】
タプの頂部には自然石の立て石、もしくは自然石の鳥の形象物が置かれている。
この先端の鳥は、天の神が降臨するときの乗り物である。これに対しタプの頂に置く立て石は、天降った神の依り代とみることができる。
神が実際に降臨して村人を守っていることを具体的に示そうとしたものだといえる。
ところで、そのタプが馬韓人みずからの習俗であったとは思われない。実は中国の東北地方で「オボ」と称し、自然石を円錐状に積み上げた頂に、神の依り代となるヤナギなどの聖木を立て、宗教的対象物にするのが見られる。馬韓を征服した百済人は、東北地方にいた扶余族であった。彼らが百済を建国し、その習俗をひろめたものと思われる。
しかし、蘇塗は百済の建国以前の習俗であったことを考えると、馬韓人が朝鮮半島に渡来する以前の先住者、すなわち濊(わい)族・貊(バク)族の影響を受けた習俗であるといえるだろう。
【江南地方から伝わる、鳥の形象物と注連縄の習俗】
中国雲南省からタイ、ミャンマー、ラオスにかけて住むアカ族という倭族に属する少数民族では、焼畑で陸稲の播種が始まる直前の4月吉日を選び、村人の共同作業で村の入口と出口に木造りの門が建てられる。その門をコローンという。
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それは二本の柱の上に笠木をのせたもので、笠木の上には木製の鳥が数羽おかれる。また、竹のヘギを輪にしてつらねた注連縄が掛けられ、さらに竹のヘギを鬼の目のように編んだ呪具のダレが、笠木や柱にいくつも貼り付けられる。
笠木の上におかれた木製の鳥の形象物は、天の神々が降りてくるための乗り物といわれる。
注連縄は村に侵入しようとする悪鬼や悪霊を縛るためのもの、鬼の目は大きな目をした怪物がいることを示したおどしである。
つまり、村の出入口に設けられた門には、村に侵入しようとする邪霊を脅すための呪具をつけ、また、鳥に乗って降りてきた天の神が、門に近づく邪霊を追い払い、村人を守護することによって、その年の穀物の豊饒がもたらされるのを示すのである。
遠く離れた日本でも、奈良、滋賀、三重の各県に多く見られるが、年頭の仕事初めの日にあたる正月十一日に、村の出入口の道をはさんで両側の大木から注連縄が張り渡される。そして多くの場合、それに鬼の目の呪具がつけられている。
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       鬼の目のつく注連縄
【朝鮮半島から伝わる、鳥の形象物と注連縄の習俗】
現在の朝鮮半島の京畿道を中心にして、村の入口に乱石を低く積み、その上に「天下大将軍・地下女将軍」と墨書した二本一組の杭と、さらに木製の鳥の形象物を先端につけた木を立て、まわりに注連縄をめぐらしたものがみられる。
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このチャンスンという宗教的対象物は、悪鬼や悪霊が村に侵入することを防ぎ、村人を平安と豊饒を願うためのものである。
この習俗がわが国にもみられる。
百済の滅亡(663年)による亡命人が、665年近江国神崎郡に400余人、669年にも蒲生郡に700余人が渡来して住み着き、その後近畿の各地にも移り住んだが、それらの地域では「ダイジョウゴ」と呼ぶ祭りが行われている。それは「大将軍」の訛ったもので、大将軍社という小祠さえみられるのである。
わが国では、「しめ縄」に四手を垂らすことから、注連縄・七五三縄の漢字があてられ、発音の上で「締め縄」の意味を保っている。韓国の「禁縄」も同じく原義を伝えているものである。
わが国では、注連縄を張渡した域内を、神の占有または鎮座を示すものとして、聖域観念でみるように変わっていった。そのために年神さまを迎える正月の期間だけ家の出入口に注連縄を張る。しかし、それは後世の変化によるものである。
韓国でも陰暦正月十五日に注連縄が村の入口に張り渡されるが、各戸の門戸にも張る習俗がある。
      
注目すべきは、注連縄の習俗は北緯38度線を境として、その北方のツングース族で構成された地域にはなく、倭族が渡来した南半の地に濃厚にみられることである。
ここで示した注連縄や立て石などの起こりは、倭族が稲作を伴って朝鮮半島中・南部に渡来したときの習俗を伝えるものといえよう。しかも、それは、呉が越に敗れた紀元前473年以降の習俗で、それ以前に遡ることが出来ないことも留意しなければならない。
朝鮮半島中・南部に亡命した倭族の一部は日本列島にまで渡来した。そして日本では村の入口におく塞の神となり、のちにそれは、旅路を守る道祖神と習合した。この道祖神の習俗は、韓国の立て石の習俗がそのままもたらされたのであろう。
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  朝鮮半島の立て石
【鳥居とカラス】
さて、次にであるが、門に鳥の形象物を置く例としては神社の「鳥居」がある。今では神社の入口にあるが、本来は村の門としてあったものである。その村の門が各家の門戸にも移されるようになり、神社は神の住まいとして、人家と同じくその入口に門を建てるようになった。それが鳥居である。
ところが近年の弥生遺跡からは、アカ族の村の門にみる木製の鳥と、形状も大きさも同じものの出土例が多い。
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  池上遺跡の鳥の形象物
弥生時代には村の門に鳥の形象物が置かれ、それが神社の鳥居として伝えられているのであるが、鳥居と称されていることからみて、初期の鳥居には鳥の形象物が笠木の上にあったことは確かである。
わが国のことでまず思い浮かぶのは神使、つまり神の使者とされているカラスである。カラスに霊的能力を認める習俗は、日本全土にわたって広く分布しているが、済州島でも同じ習俗があることを聞いた。
韓国本土では朝カラスがよく鳴くと吉報だという。これに反して済州島では日本とまったく同じく、カラスが鳴くと知人に何か事件があったのではないかと不吉に思う。そして人の死ぬ前にはカラスが家の近くでよく鳴くといい、人の死を予知する能力があると信じられている。
カラスを食べると物忘れをするともいうが、これは霊鳥としてのカラスを食べるのを忌むことからであろう。日本でも腐肉を喰う鳥のため食べないといわれるが、これも同じく神使としてのカラスを食うことを忌みたのであろう。
カラスが死を予告するという俗信は全国に広がっているが、それはカラス信仰の本筋のものではない。広島県の厳島神社、愛知県の熱田神社、京都府の加茂大社などの古社で、豊作を願う年占いとしてのカラス神事は有名である。
【農耕神としての蛇神】
堂は村人を守護する村落神が鎮まるところであるが、一般には堂の神は蛇とされている。
済州島の『耽羅紀年』には、牧師が堂の神として出現した大蛇を斬ったことを記している。
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          済州島の堂
農耕神を蛇とみる思想は、倭族に属する全ての民族に見られる。倭族の東方の終着点の日本でも、田の神は蛇とみられている。
堂の神はあらゆる面にわたって村人を守護する神であるが、村人が最も堂の神に求め願うものは、生きる上で一番重要な農作物の豊饒であった。そのため村落神の祭りは、一般に豊饒を祈願する播種の時期と、感謝の意を表す収穫の時期に行われる。そのことから、村落神が農耕神としての意味をもたらされたのは間違いない。
【古代社会における神の観念】
現代のわれわれは神を目にみえない抽象的・観念的なものとみている。しかし、古代社会においては、神を目に見えるものとして具象的・客観的に捉えていた。それがカラスであり、であり、村人と共に現実の社会生活を営むある特定の女性を、現人神(あらびとがみ)としてみていたということである。
しかし、宗教的観念の発展に伴って、人々は神に個としての名を求めるが、当初は性別がなかった。それが性別も明らかにされると、ついに普遍的神から特殊化された神となる。そして神が個として特殊化されることによって、神々の由来とか系譜などが語られ、あるいは神々の恋の葛藤など、いわゆる神話がつくられることになる。
【日本の支配民の由来は朝鮮半島中南部の倭族であろう】
日本に伝わる倭族の習俗は、先着した長江流域の倭族の習俗に、後に来る朝鮮半島中・南部の習俗が塗り重なって確立したものであろう。
古事記・日本書紀に伝わる神話にも、倭族の神話の一部を垣間見ることができるが、後に百済・任那から渡来する支配民により大きく塗り替えられたとみてよかろう。
このような考察をもとに、大和朝廷と出雲の国の対立を、百済と新羅の対立と重ねて俯瞰してみるのも面白い試みかもしれない。
次回はこの神話に焦点を当て倭族と日本の関係を探っていく。

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