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「お盆」と「ケガレ」から考えてみた事

もう直ぐお盆が来ます。
既に帰省などしてつかの間のお盆休みを楽しんでいる方も居られると思いますが、縄文フログのお盆特集として今回は「お盆」について考えてみたいと思います。
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参考にさせていただいたのは波平恵美子氏の「ケガレ」という著書です。お盆とはこの日本人特有の「ケガレ」という観念から生まれてきているようです。
ケガレとは一般に人が死んだ時に祓いや清めをする儀式のその状態を表しています。
そしてケガレと祟りというものが、日本人古来から現在まで変化はしているもののほぼ一貫して深く内在している事は、私達の日常の意識や行動を考えても納得行くところです。
例えば正月に誰もが神社に行く行為、また葬式はどんなに略式になっても通夜を行い、葬儀をして送り出します。それは亡くなられた方の為でもあり、残った遺族の為でもあるわけです。
また日常ではありませんが私たちが営む様々な神事もケガレを除く儀式としてあります。
私は建設関係の仕事をしていますが、建物を建てる際には必ず神式の安全祈願を行ない、お祓いをします。そして現在ではほとんど無くなりましたが、出産や月経などの非日常の行為もケガレとして長い間、民間宗教の中に存在していたようです。
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よく日本人は無神論者などと言われます。確かに日常的に仏教もキリスト教も信仰しない人が日本人の大多数だと思いますが、このケガレ観念から由来する無形の罪観念が、ほぼ全ての人の意識の潜在的な部分に内在し、それらが死を忌み、罪を避け、現在でもまだ多くの人に本源規範が守られている要因の一つではないかと思うのです。
そういった中でなぜお盆がケガレと関係するのか、波平氏の著書から紹介してみたいと思います。
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>神を祀る神社での儀礼は、まずは何よりも不特定なケガレを祓う事から始まる。その祓いの儀礼は、清浄かつ神聖なハレの状況を作り出し、そこに神の招来の場を設ける為に欠かすことのできない手続きである。神道で最も中心的なハレ観念はケガレの反対の極にあり、ケガレの状況やそれを作り出す存在の否定によって成立する観念であると言う事もできる。
儀礼の発達と普遍性ということからすれば、死によって生じるケガレが最も明確に認識されると言える。しかし、地方によっては「赤不浄(出産や月経に伴って生じる不浄=ケガレ)の方が黒不浄より強い」と言って出産や月経によって生じたケガレの状況が他の領域に入り込む事を食い止めようとする信仰行動が見られることもある。
神社における儀礼から女性の参与を排除したり、神聖とされる空間(神社内の一定空間から山や海などの自然の空間の場合もある)へ女性が立ち入る事を禁じたりするが、女性そのものというより、女性が月経や出産という現象を伴う存在であるためにケガレの発生源として排除されるのだと考えられる。
一方、死や出産、月経に結びつかないのにケガレの状況にあるとみなされ、儀式が行なわれる空間がある。ムラの境界や平地と山地の境目、峠などがそれである。
空間と同様、時間の流れの中でも、死によって生じたケガレを祓う儀礼とよく似た儀礼が行われる事が見出される。盆行事がその代表であり、死者がその子孫の所へ戻って来るとされる。盆の期間中に行なわれる儀礼は葬式や死者供養の儀礼と似ており、この時間帯がケガレの状況にあると言ってよい。盆行事については、日本民族学においてすぐれた論議がこれまで行なわれてきているが、一年二分説に従えば、盆は一年の前半期と後半期との境目にあり、空間の場合と同じく境界線上の時間もまたケガレの状況にあるとみなされ、それに死者が訪れるという時間であるというケガレが付与されたと言える。

上記の波平氏の著書からケガレとは「死」「出産」「月経」「峠や境界などの空間の境目」「お盆などの時間の境目」などとなります。しかし、ケガレとはもっとはるかに社会的な事も含んでいるようです。
1964年の松平斉光の著書「祭―本質と諸相」の中からケガレの具体的な内容を紹介します。(私の方で少し省略しましたが・・・)
1)衛生的に不潔なものを意味する。糞尿を始め・・・・
2)必ずしも不潔でなくても醜怪な感じを与えるもの・・・
3)死(人に限らず、鳥獣も含める)
4)自然から受ける損害の全て(農作物の災害から天変地異まで全ての災害)
5)人間の社会生活を撹乱する行為のすべて(略奪、横領、盗賊、放火、職務怠慢など)
その時代時代での社会意識が好ましくない行為と感じる事
罪ケガレは非常に複雑な観念のように見えるが、決してそうではない。社会通念が「あらまほしくない」と感じるものおよび行為のすべてがこの内に内包されるのであり、むしろ著しく簡明な観念である。ただ、何がそれに当たるかはその時、その所の社会意識を持ってのみ決定されるものである

松平氏はケガレは社会的価値体系と結びつくとしています。
これまでのところで気になるのは「出産」と「月経」です。なぜ「めでたい」はずのそれらがケガレになるのか?それについて池波氏は以下のように書いています。
実は70年代に女性の生理休暇が話題になった事がある。先進産業国の中で出産と育児以外に月経に対して有給休暇を与えていた国は日本以外にはなかった。これは生理休暇が職場における女性保護とは別の意味で定められていた事を指摘している。月経中は生産と関わる公の場から女性は退くべきだという考えが男性の側にも女性の側にも基層的に存在していた制度ではないかと考えられる
月経、出産をめぐるケガレ観念は死をめぐるケガレ観よりわかりにくいですが、逆にそれらを共通化する観念がケガレ観念の本質かとも思えます。
岡田重精氏の「古代の斉忌」の中で語っています。
出産と死は一つには生命のない存在ないしは人でないものから人へという誕生も、人から人でない死者(あるいは祖霊や仏やカミ)へ変化する死も、ともに大きな変化の発生であり、このような状態や状況がある段階(ないし次元)から次の段階へ移行する場合、通文化的にみてそれを不安定で、どっちつかずで、したがって危険な状態とみなし、それに特別な意味を与えて儀礼を行なってきた。このような移行中の状態はまだしばしば不浄な状態ともみなされる。
近藤直也氏は「ケガレの構造」の中で以下のように書いています。
誕生、成人、婚姻、葬送に際しての通過儀礼において、祓いによって次の段階へ移行するという点においては共通している。しかし、子供から大人へ、娘から嫁への通過は有から有への変革であるのに対して、出産は形のないものから形のあるものへの変革であり、一方、葬式は有形から無形への変革である。この二つは有形から有形への変革と比べた場合、はるかに大きな変革であってその為、何度も何度も祓いを繰り返されなければならない。このような変革のための祓いという目的が不明瞭になる為、新たに死のケガレという観念が作り出される。つまり本来の意図が忘れ去られたために穢れているから祓うのだと説明するようになる。

さまざまな民俗学の著書の記述を紹介しましたが、それらを受けて縄文ブログとして改めてケガレを考えてみたいと思います。
【まとめ】
①ケガレとは集団共認によって形成されている。総じてケガレとは「あらまほしくない=あってはならない」社会規範が観念化したものである。
②祓いとは通過儀礼の一つである。通過儀礼の際の不安定な状態をケガレとして固定した。
③出産も死は無から有、有から無へ状態の変化であり、人も集団もその状態をケガレとして重要視した。
④ケガレとは人だけでなく空間や時間においても同様に考えられる。お盆はその一例。

このケガレ観念はいつ誰が持ち込んだのでしょうか?
大和朝廷が出雲を畏れたことは有名ですが、伊勢神宮にアマテラスと並べて出雲のオオクニヌシ神を祀ったり、出雲の地を先住民から奪い取ったのに、国譲りとして以後も敬ったのは出雲の祟りを恐れたという説があります。奈良時代には藤原家が権力を争い激しく朝廷を揺さぶりますが、その結果藤原家に不幸が続き、それは祟りだと恐れられ、遷都が繰り返されます。また平安時代にはこのケガレ意識がどんどん貴族社会に広がり、死を忌み嫌い、公家社会から軍事が消滅していきます。これによって武家社会のお膳立てができ、鎌倉以降の武士は軍事に徹した専職集団となっていきます。
こうして見ていくと一見、ケガレとは渡来文化の一つのように考える事もできますが、中国、朝鮮に日本同様のケガレ、祟り、清めという文化はありません。おそらくはケガレとは縄文人の自然崇拝の変形したものではないでしょうか?それらが日本の天変地異の自然の中で渡来人に転写し、渡来人―土着人の共通意識を形成していったのではないかと思います。
縄文人は自らの力の及ばない自然の力を恐れ敬い、時にすさまじい自然からの罰を受ける事を経験してきました。地震や火山の爆発が頻繁に起きるのは日本の地形の特徴でもあり、その列島の中で長い時間形成されてきた自然崇拝の信仰は、どうしようもない対象を説明する非論理体系を生み出します。これがケガレ観念の特徴の一つではないでしょうか?つまり、どうしようもない外圧や逆らえない状況を迎えると、この観念を使って納得してしまう。(集団の不安を解消する為には、せざるを得なかった)
そういう精神構造がケガレや祓いなのではないかと考えてみました。

いったんケガレや祟りとしてある事象を固定化してしまうとそこで思考停止します。このケガレ意識は一方で集団規範として機能しながら、一方では中身をそれ以上追求しない悪しき慣習ともなっていくのです。あるいは目に見えないものや理解できない事柄を「あらまほしくない」ものとして総じてしまいます。
私はこの間なんでや劇場でも言われてきた日本人の特徴=「考えない日本人」は「属国意識」「お上意識」「神国観念」同様に、このケガレ観念からも浮上してくるのではないかと思っています。
この度起きている日本を取り巻く状況、「フクシマ原発事故」や「米国発の世界恐慌⇒日本経済の破局」は極めて不安定な状況ですが、決してケガレやお祓いで済むものではありません。どうしようもない自然の力と何とかしなければいけない社会の在り様は分けて考えなければなりません。
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そしてそこから改めて集団の規範=「あらまほしくない事」を自分たちで作っていく事が必要になります。松平斉光氏が64年に提起した「あらまほしくない事」とは時々の社会で変化していくとしています。まさにこの人類の歴史の境界に立ち会うことになった私たちは古代人がケガレによるお祓いを何度も何度も行なったように、何度も何度も私達の向かうべき方向への共認を作り出し、繰り返して定着させていく必要があると思います。
お盆企画からずいぶん離れた結論になってしまいましたが、これからの日本人には忌み嫌う物を単にケガレとして片付けられない“脱「ケガレ」観念がが求められるかもしれない”という提起をして最後のまとめとさせていただきます。

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