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中国人とは何者か?~中国の私権性、商業的詐術の起源を殷人に探る1

前回、「南方モンゴロイド=倭族からみた古代中国」 [1] として原中国人=南方モンゴロイドの拡散の歴史をみてみた。今日は、北方、南方の両モンゴロイドが融合した殷を通じて、中国人の私権性、商業性の起源に迫ってみたい。
殷が興った当時、中国北方には5大民族(夏、殷、周、羌、南)があり、お互いに激しい争い(と合従連衡)を繰り広げていた。改めて、中国古代の5大民族を整理しておこう。
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地図(前1000年~前800年頃)はこちら [2]からお借りしました。このブログも非常によく中国を考察されています。是非、みなさんお読みください。


● 古代中国の5大民族(夏、殷、周、羌、南)
○「夏」―― チベット系と原中原人の混血民族。黄河中流域に起こった最初の王国。禹の神話に代表される潅漑技術を携えてきた民族であり、西方から技術を取り入れた半農・半牧の民族であろう。中華民族の祖とされる黄帝はタリム盆地の南側崑崙山脈に住んでいたとされるためチベット系とみていいだろう。神話上は火をつかさどる「炎帝」も祖に掲げており、このことからは先住の焼畑農耕民と混血した結果であろうと考えられる。
○「殷」――モンゴル系と原中国人=倭人の混血民族。その馬車の遺跡と青銅器の武器、残虐性からみて、その支配階級は遊牧民族とみて間違いない。殷が都を転々としたのもこの遊牧民族故の移動性の高さに起因すると考えられる。殷ははじめ夏の下で農耕地拡大を図り、途中から対立関係に転じる。最初に、黄河の支流、しょう(さんずいに商)水を拠点としたことから、商とも呼ばれる西の夏、東の東夷に挟まれたこの地へは、北方のモンゴル高原から、黄河の北方に形成された遊牧・農耕の接触地帯である長城地帯を越えて入ってきたと考えるのが順当だろう。他方、山東省に発達した海洋系夷族の文化を吸収しており、夷族との混血がかなり進んだ民族であろうと考えられる。海洋系夷族は以前「南方モンゴロイド=倭族からみた古代中国」 [3]で取り上げた海洋系倭人。
○「羌」 ―― 羌系=チベット系。上古、夏王朝と争うが、敗退。岳神を擁する。また殷人の目の仇とされ、大量に犠牲として殺戮された
○「周」――チベット系。夏の後からやってきた武勇に優れた遊牧民族。氏姓制度あり。殷・夏に比べると合理主義的。後に羌と同盟して殷を滅ぼす。
○「南」―― 苗族。祭祀に優れ、殷にも恐れられた。なお苗族は北方出身ではあるが、殷代には殷よりも南方に既に進出しており、南人と呼ばれた。苗族は中原の先住民である仰韶人ともされ、中国灌漑農業の祖であり、また最古の潅漑イネ農耕の祖でもある。
中国は今も、チベット、モンゴルとの間で民族問題を抱え続けるが、中国の初期部族も、いずれもチベット、モンゴルと原中国人の混血民族である。
●殷人の特徴1~占術、人犠
古代中国の5大民族の中で、殷人の特徴は、チベット系ではなくモンゴル系であるということ。そして東夷人との混血民族であるという点である。その結果以下の特長がある。
○夷人に対して支配の正統性を誇示するために占術を強化し漢字を生み出した。
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写真は骨占いの遺品。先ず鑚や鑿と呼ばれる穴をあけ,火で灼き,生じた亀裂によって吉凶を占った。「卜」字はこの亀裂の象形からつくられた。 こちら [4]からお借りしました。
殷の特徴はなんといっても占術(シャーマニズム)の発達であり、それに伴う漢字の進化である。占術(シャーマニズム)は勿論、アニミズムの発展したものであるが、アニミズムと決定的に違うのは、単なる祈りを超えて(いわば自然に対する畏敬の念を捨てて)、シャーマン自身が神となってしまうことである。例えばアニミズムとしての雨乞いはいつ降るとも分からない雨を、必死に祈るのであるが、シャーマニズム段階になると、シャーマンが太陽を打ち落として、旱魃から守ったという神話が生まれたりする。(これは日射神話といわれ、この神話の流れにヤタガラス神話などもある)また骨占いは、シャーマンが願う吉凶がでるまで何回も繰り返されたというから、シャーマンの意思は決まっており、占いは単なる手続に過ぎなかったのである。これはいわば、自然を畏れ、それを媒介してくれるシャーマンを敬っている大衆に対して、詐欺を働いているようなものであるが、支配階級側はそもそも、土着民の神に成り代わることだけが目的であり、そもそも、土着民が信じている神は自分が信じている神ではないので全く恐ろしくも何ともなかったのである。
そして、そのような先住民を支配するための詐術としての占術が嵩じて漢字がうまれていく。本当に重要な言い伝えであれば口承とするのが本来の民族の智恵であった。それが文字化されたのは詐術のためにひねり出された観念群であり、潜在思念との断層が大きすぎてすんなりとは覚えられないものだったからではにだろうか?
○羌族を敵視し犠牲とすることで戦争を正当化した
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写真は司母戊鼎の取っ手に描かれた人に噛み付く虎の図章(両方に虎、中央が噛み付かれる人)このように殷の青銅器には人々を脅す図章が多い。 こちら [5]よりお借りしました
殷が夏と対立し、縄張り拡大に乗り出すようになると、夷族に対する支配の正当化はさらに戦争の正当化にまで進む。戦争のためには自民族正当化が必要であるが、もともと平和を求め、贈与関係で部族間対立を回避してきた夷族には、いかに羌族が異民族であるからといって彼らに向かって弓を引くことにはためらいがあったはずである。ところが殷はのちのちの人々からも恐れられるほど、羌族を徹底的に痛めつけた。
河の神に捧げるためといっては他の動物たちといっしょに捕らえた羌族を河に沈め、土の神に捧げるためといっては他の動物たちといっしょに捕らえた羌族を土に埋めた。犠牲としての人、人犠の風習である。つまり神が犠牲として人間を求めているのだから、自分が犠牲になるのがいやなら羌族を犠牲にしようという理屈で、夷族たちに戦争をしかけることを正当化していったのである。正当化のための神器も高度化し、青銅器の装飾は非常に手の込んだものになっていった。ただし縄文のような自然への畏敬の表現ではなく、異族敵視、支配正統化のための神器である。代表的神器は饕餮文青銅器である。饕餮(とうてつ)とは獣神で体は牛か羊で、曲がった角、虎の牙、人の爪、人の顔などを持つ。饕餮の「饕」は財産を貪る、「餮」は食物を貪るの意である。つまり、自分たちの縄張りを荒らす羊トーテムの羌族が襲ってくるぞ、撃ち殺せ、という儀式のための道具であろう。また殷は毎晩、酒池肉林を繰り返したといわれるが、酒の力を借りて、人々の戦争の恐怖を乗り越えさせていったのであろう。これもまた壮大なる詐術である。
しかも恐るべきことに、このような神のためには異民族を殺しても構わないという発想は南方の夷族にも浸透していった。のちのち中原の人々が合理主義的に戦争をとらえるようになっても中国の周辺地では首狩の風習が残ったという。(本来平和を好むはずの日本人が戦前、天皇のための戦争に邁進していったのも同じ構造かもしれない)

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