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シリーズ「人類の部族移動」その10 海の民の侵略で地中海沿岸の部族共同体は崩壊

 前回は少なくとも3500年前には略奪闘争の玉突きによって、地中海沿岸とメソポタミア・コーカサス地方には略奪部族の支配国家、あるいは山賊・海賊しか存在しない状態になったと考えられるとありました。この略奪集団=海賊は、当時【海の民】と呼ばれていたそうです。
今回のテーマは
【海の民とは一体何者か?】です。

次のような展開で進めます。
好戦性・略奪性が強く、力の原理が強力であったミケーネ文明さえ滅ぼした海の民とはいったい何者か?
その略奪集団が勝てた真の理由「それは略奪以外に飯を食う道がなかったから。」とは?
スパルタ・ローマはどういう国家だったか?
戦争の起源と拡大過程
部族共同体が崩壊して山賊海賊の集まりが3000年前には定着しました。部族という共同性がなくなり国家の統合軸が他国との戦争でしかなくなっていくのです。戦争の起源とその拡大過程です。誤解を恐れずにいうとこれがギリシャ・ローマ文明の背景であり、それまでの国家とまったく違う点です。
245353 2/6なんでや劇場(5) 2900年前、海の民の侵略で地中海沿岸の部族共同体は崩壊 [1] より
まず【資料】
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画像の確認 [2]①「■コーカソイドの部族移動」図解ポップアップしてみてください
画像の確認 [3]②「■Y染色体亜型の世界的分布」地図ポップアップしてみてください
①好戦性・略奪性が強く、力の原理が強力であったミケーネ文明さえ滅ぼした海の民とはいったい何者か?

そのミケーネ文明も3150年前に滅亡する。その前後に地中海では、印欧語族の一派ラテン人R1bがローマを建て、アナトリアでは3200年前ヒッタイトが滅亡する。その犯人は海の民である。海の民とは何者か?
絶えざる掠奪闘争によって大量に再生産される略奪集団=海賊である。この略奪集団が逃亡奴隷も加えて大勢力に膨張していった。
ミケーネがかき集めてきた奴隷たちは、地中海沿岸の人口の大半を占めていたセム族Jやハム族Eである。ミケーネには奴隷狩りのための戦闘部隊が存在し、奴隷狩りや奴隷の統率のために、セム系の傭兵が使われた。アナトリアで奴隷狩りをしていたヒッタイトも同様である。
まず、過酷な奴隷狩り(略奪闘争)によって逃げ延びた敗者が続々と登場し、彼らが海賊に転じてゆく。これが海の民の正体である。この大量の海賊(海の民)の波状攻撃によってヒッタイトもミケーネも疲弊してゆく。
そうなると、セム系の傭兵部隊が寝返ればヒッタイトもミケーネもお終いであり、その内部でも下克上を狙う者が出てくるのは当然である。ミケーネが内部反乱で滅亡したという説があるが、それは事の本質ではなく、大きく見ればその内部反乱も海の民の度重なる侵略が引き起こしたものであり、ヒッタイトもミケーネも海の民によって滅ぼされたのである。

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以下続く


②その略奪集団が勝てた真の理由「それは略奪以外に飯を食う道がなかったから。」とは?

そして、海の民=海賊が地中海沿岸を荒らしまわって以降、3000年前にギリシア・アナトリアをはじめとする地中海沿岸に拡散・定着して以降は、この地域には略奪集団(海賊・山賊)と彼らが作った支配国家しか残っていない状態になった。
その後、山賊(海賊)集団が作ったスパルタやローマが強国になったのは、略奪を生業⇒国家戦略としたからであるが、それは彼らが豊かな土地を獲得できず、略奪以外に飯を食う道がなかったからである。

③スパルタ・ローマはどういう国家だったか?

2900年前に印欧語族ドーリア人R1aがギリシアに南下してきてスパルタをつくる。しかし、その農業生産力は乏しかったため(それでは食っていけないので)スパルタは略奪を国家戦略として生きてゆくことになる。スパルタが男子に少年期から施した戦闘教育は掠奪教育と言ってもよいものである。スパルタが強国と化したのはそのためである。
2750年前のローマも同様である。滅亡した部族の生き残り3人がローマを建国したという伝説は、ローマが3つの略奪集団からできたことを示しているが、彼らが最初に建国したイタリア半島中心部は貧しい地域で
、略奪闘争(戦争)を生業として生きてゆくしかなかったので、戦争を国家戦略として強国と化したのである。そういう意味で、スパルタもローマも「逆境でこそ進化する」の(悪い例だが)一例である。

戦争の起源と拡大過程

まとめると、戦争の起源と拡大過程は3段階になる。
【資料】「■地域別古代史年表」 [6]
【1】5500年前、イラン高原で最初の略奪闘争勃発→略奪集団と緊張圧力の伝播。
【2】3500年前、略奪闘争の玉突きで、略奪部族の支配国家、あるいは山賊・海賊しか存在しない状態になった。
【3】2900年前、海の民がギリシア・アナトリアをはじめとして、地中海沿岸を荒らし回ったあげく、拡散→定着。全てが略奪集団の作った国家となる。
このような段階を経て、地中海沿岸では部族共同体は完全に崩壊してしまった。但し、この段階では欧州の一部には部族共同体が残存していた可能性が高い。

<以下参考>
◇海の民
海の民とは、ミケーネを捨てた先行アカイア人と、後発合流したアカイア人が主軸? [7]
・・・『航海技術を身につけたミケーネ人(先行アカイア人)』と、『後発合流したアカイア人』を主軸として構成されていたと考えていいのではないか!?。(中略)
この海の民側の軍勢にはリュキア人、~おそらく将来のサルデーニャ人とエトルリア人に相当する民族集団、そして【アカイア人とミュケナイ人】が含まれていた。★エジプトの文書に「長身、肌白く巨漢、体毛金色にして碧眼の」人間と描かれている。
フェニキア人とは(2) [8]
「海の民」は特に前13世紀に東地中海世界一帯を荒らし回った集団で、民族的にはギリシャ系と考えられている。彼らはエジプトまで攻め込んでそこでラムセス3世の軍勢に敗れ、拡大に歯止めが掛かった。
同地域一体に非常に大きな影響を与え、特に当時の大国、ヒッタイトやエジプトの勢力を衰退に向かわせ、フェニキアの側から見れば、権力の空白地帯を生み出し彼らの活躍の場を与えた。荒らし回った「海の民」が沿岸部に定住し、原フェニキア人と結合して外洋航海術を彼らの与えたと考えると、フェニキアの航海術の起源について自然な説明を得ることが出来る。
フェニキア人が勢力を拡散していく、すなわち地中海に進出していくのは、前述の通り、12世紀頃からであるため、時期的にも符合する。あるいはさらに、シドンからテュロスに覇権が移るのも、「海の民」によってシドンが破壊され、彼らがテュロスに逃げたためであると説明されることもある。
彼らの出身がどこであったかなどは未だ定説がなく、詳細は不明であるが、「海の民」による侵略の影響は、レパント地域の歴史を、殊にフェニキアの歴史を考える際には、非常に大きかった。
◇スパルタ
スパルタ [9]
 スパルタ教育の語源となったスパルタとは?
スパルタ 奴隷人口は市民の5倍~10倍 [10]
 リュクルゴスの制の中身
 ・超スパルタ教育。
 ・男子は生まれたときから国家のものである。
 ・エフォルイが出世児を調べて、虚弱なものはタイゲトス山に捨てさせた。
 ・7歳から集団生活を送る。
 ・偉い人の指導と監督のもとに夏も冬も一枚の着衣、アシの寝床、粗食という質実剛健な生活。
 ・20歳になると、選挙されて青年組に編入されて一人前になる。
 ・青年組は、ほぼ15人単位の戦士団で、戦場ではもちろん日常でも共同の生活を送る。
 ・結婚しても30歳までは青年組のなかで生活しなければならない。
 当時の平均寿命を考えると、スパルタ人の一生は兵営生活の連続ということになる。
◇ギリシャローマ史
「ギリシア~ローマ史まとめ② 4000年前~3200年前 ミケーネ文明登場、海の民」 [11]
「ギリシア~ローマ史まとめ③ 3200年前~2800年前 ラテン人の南下、ポリス成立」 [12]
ギリシア~ローマ史まとめ④ 2750年前~2200年前 ローマ建国、大帝国の登場 [13]
2750年前 ローマの建国(伝説)印欧語族のラテン人(R1b)がローマ周辺に都市国家を建設し始める。建国当初の都市国家ローマは、エトルリア人の支配下にあったと考えられる。
・a href=”http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=97337″>部族連合から国家へ①  ~ローマの事例より~
始原ローマは、掠奪闘争に敗れた生き残りや、部族のはみ出し者の男達が集まり、ロムルスという指導者を中心に建国したことから始まります。
彼らはまず、男だけの集団統合のためにも、女の掠奪を図ります。
・・・・このようにしてローマはサビーニ族、次いで周辺のルケルス族を引き込み、3つの部族(約300の氏族)が100年の間に連合を組みローマに集合したのです。
【ローマの出自1】Y遺伝子分布と地理特性から→ローマの出自は特異な存在 [14]
地図を眺めればわかるが、地理的連続性の中で、なぜローマの出自が分断されているのか?
【ローマの出自6】ローマの出自は、西ヨーロッパからの「はぐれ流れ者集団」 [15]
ローマ人の出自は、西ヨーロッパでの戦争の敗者の落人か、集団からのはぐれ流れ者が、エトルリアとギリシアの影響の少ないイタリア半島の中部ラティウム地方に逃げ込み定住し、山賊になった集団と考えられる。
『白人の源流~ギリシア・ローマ編~6』 ギリシャとエトルリアに挟まれたローマの起源 [16]
自らの土地を追われ、山賊(海賊)となったが故、彼らが豊かな土地を獲得できず、略奪以外に飯を食う道がなかったのです。
『白人の源流~ギリシア・ローマ編~7』 古代ローマは、山賊の寄せ集めだから、略奪を拡大し続けるしかなかった [17]

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