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中国とは何者か?~南方モンゴロイド=倭族からみた古代中国

●南方モンゴロイドO1、O2が古代中国の基層文化をつくった
古代中国の形成過程は、南方モンゴロイド(原中国人)と北方モンゴロイド(新モンゴロイド=モンゴル族・ツングース族)と西方のチベット族とのせめぎあいである。
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なんで屋劇場資料より。南方モンゴロイド(原中国人)はO1、O2にあたる。また苗族は新モンゴロイドO3の一種である。ポップアップしてみてください。
より古層を形成した南方モンゴロイド(原中国人)の広がりは広く、朝鮮そして日本にまでその人種的、文化的影響は広がっている。彼ら原中国人を鳥越憲三郎氏は倭族と呼んでいる。「古代朝鮮と倭族」「古代中国と倭族」を参考に、南方モンゴロイド=倭族の中国史に果たした役割を見ていきたい。


●長江で生まれた倭人とその北上
稲作を伴って日本列島に渡来した弥生人は「倭人」と呼ばれるが、中国の古い文献をみると中国大陸そして朝鮮半島にも倭人がいた。彼ら倭人は新石器時代の初め頃、雲南省のてんち(さんずいに眞+池)またはその周辺の湖畔で水稲栽培に成功し、独自の文化を形成した。そのひとつが高床式建物である。黄河農耕民(漢族・苗族)が土間式建物であったのに対して、高床式となったのは水害対策に工夫をこらした結果である。彼らは稲作農耕民であると同時に漁猟民でもあり、漁具も発達していた。
彼らの最古の遺跡は7000年前の  河姆渡(かぼとorほむど)遺跡である。彼らの信仰の遺物として鳥形の棟飾りが発見されているが、鳥信仰、鳥の卵信仰は、倭族の特徴である。また女性の方に副葬品が多く、母系社会だったとの見方がある。この地域は後に越が都をおいた地域である。越の国は苗族が南下して倭人が帰属して出来た国である。
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河姆渡遺跡で再現されている高床式倉庫の写真です。http://www5.tok2.com/home/iseki/hemudu/hemudu.htm よりお借りしました。
また上海市郊外の松沢遺跡(6000年前)他、長江三角州内の遺跡も倭人の遺跡である。のちに越と覇権を競い合った、呉の国を建てたのはこの倭人たちの末裔たちである。(呉は周公の長子、太伯が継承問題で身の危険を感じて逃れた際、現地にいた倭人の千余家が帰服して作られた国とされている。)
河姆渡、馬家浜、松沢と続く長江下流域の稲作農耕文化は豊な蓄積をもたらし、良渚文化へと移行していった。良渚文化を象徴するのは玉器であるが、同時期に北方で栄えた紅山文化が龍をかたどった幻想的な龍玉であるのに対して、良渚文化の玉器は祭祀用の「玉そう(おうへんに宗)」と呼ばれるもので、その造形は後の青銅器の饕餮文(とうてつもん)に引き継がれる獣面文である。
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上は紅山文化の龍玉。対して中央が良渚文化の獣面文。下は饕餮文。饕餮文には獣面文の影響があることが判る。
尚、長江下流は後の呉・越につながる倭人文化圏が形成されていったが、長江中流には、黄河から南下した苗族が別の文化を作り出し、倭人文化圏は途絶えてた。
尚、古川久雄氏のオアシス農業起源論によると長江中華流にはまずモンクメール系の百ぼく(さんずいに僕)と呼ばれる‘性格が温和で口数が少なく喧嘩が弱い’人々がいたという。そこへミャオ、ヤオ、タイ、キンと呼ばれる‘商売がうまくて喧嘩の強い’百越が来た。そして最後にもっとも喧嘩の強い漢族が来たという。
他方、長江下流域に達した倭族の一部は北上し、山東省へと進出した。6000年前のりゅうきゅうそう(龍きゅう荘)遺跡からは稲作の跡も見られる。周代には徐、わい、たん、きょ、奄、らい、といった国々がみられるが、これら漢族が東夷と呼んだ人々の国も倭人の国々なのである。特に徐国は卵生神話を残しており、倭族とみて間違いがない。また黄河下流~淮河流域には、紀元前6000年より前から粟を栽培していた後李文化も埋葬時には頭を東に向けており、これは倭人文化とみることもできる。その場合、これにつらなる5000年頃の北辛文化、前4000年頃からの象牙製品に特徴のある大シ文口文化も倭人文化とみることもできる。長江文化は日本の縄文後期にも稲を除いて伝わっており、稲を欠いた倭人文化圏の北方への広がりは十分可能性がある。
この地は、後に呉の領域となるが、越によって呉が破られると、呉の領民たちは朝鮮、日本列島へと逃げ延びた。こうして日本に弥生文化がもたらされたのである。
前述の通り、倭族の中には稲作を欠いて北方まで到達した人々もいて、ツングース系の扶余国の一部に、倭人の地域があったようだ。『後漢書・烏桓鮮卑伝』によると、鮮卑の首領「檀石槐(ダン・セッカイ)」は遼河に騎馬を進めたとき部族の食糧難に苦しみ、東方にいた「倭人」を千余家連行して河の魚を捕らせたとされ、現在もこの北方の地でも高床式住居がみられる
また、殷もそれを支えたのは東夷とされ、倭族に共通な卵生神話が認められる
●長江上流に花開いた倭人の王国
また長江上流域の四川、雲南、貴州の各省にいくつもの倭人の王国があった。史記が示すてん(さんずいに眞)やろう(夜郎)、しょらん(且蘭)、きょうと(たくみへんにおおざと+都)、こんめい(昆明)、ずい、し、さく、ぜん、ぼう、しょく(蜀)、は(巴)などの国々がそれである。
特に蜀、巴の歴史は古く、蜀は考古学的には三星堆遺跡に比定されている。(ただし前期蜀国はチベット族の国とされる。)また巴人は文身断髪し歌垣をしたという風習が『文選』に記されている。しかし、秦の始皇帝と前漢武帝の征討を受けて、滅亡していった。特に武帝は匈奴によってふさがれた草原の路に変わる商業ルートを求め、タリム盆地に勢力を伸ばした。これによって、その途上にあたる蜀、巴の国は漢に吸収されてしまった。
てん(さんずいに眞)は漢の時代に金印を得ているが、それは志賀島と同じ蛇紐であり、同じ倭族の系列であることが伺われる。
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長江上流に繁栄した蜀、巴、てんの王国。インド貿易の要でもあったとされる。 http://www.asahi-net.or.jp/~vm3s-kwkm/kodai/g01.files/00/kks-siso.html よりお借りしました。
唐の時代となってシ耳海周辺に倭族の6部族が興った。その内、唐と結んだ蒙舎詔が他を討ち、738年に<南詔>国を樹立した。豊富な鉱物資源を背景に、後に吐蕃と結んで唐と対抗し、領土を広げた。北は成都、東は貴州西部、南は西双版南、西はミャンマー北部に達した。クーデターで902年に滅んだが、政変の後に 937 年に<大理>国となり約300年間続いた。1254年蒙古フビライの攻撃を受けて滅んだ。これで、中国の倭族の王国はすべて滅んだ。
彼ら倭族は雲南からサルウィン川、メコン川を伝ってミャンマー、ラオス、タイ、カンボジアへ。コンソイ川を伝ってベトナムへ。紅水河、珠江を経て広東、さらにはボルネオ島へと逃げ延びていった
まとめると南方モンゴロイドは長江流域の豊な自然に育まれて下流・中流・上流に渡って広がり、更には海岸線に沿って山東省から朝鮮、旧満州へと北上し、一部は日本へと渡った。そして黄河に興った漢族・苗族の南下によって、長江中流域からその文化は失われ、更に、漢の武帝が進めた匈奴に対抗する西方へのシルクロード開拓のために、雲南、四川といった長江上流の倭人の国々も滅亡させられ、メコン川等を伝って、東南アジアへと逃げ延びていった。
倭人が豊な東アジア農耕文明の基盤をつくった性格の温和な人々であったことは確かだが、漢族・苗族との争いの中で、戦闘的になっていったのも事実だ。殷、越、呉を支えたのも東夷の人々であり、殷人はきょう族を生贄として虐殺したし、首狩の風習は倭人全般に見られるという。この私権闘争の激しさが、中国において倭人文化が滅び、日本において発展していった大きな違いをなしている。
特にこの私権闘争の激しさは、単に農耕地を巡る争いではなく、流通路としてのシルクロードを巡る争い、商業権益を巡る争いであったことも注目が必要だ。中国文明は豊な南の文化と戦闘的で交易に長けた北の文化のせめぎあいの産物なのである。

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