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縄文探求シリーズ【縄文時代の道具】~縄文土器を総括する(後編)~

こんにちは、sasaです。
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縄文時代全般を通じて、文様が最も装飾的となった縄文中期、立体的な隆線が器面を縦横にめぐり、大きな把手や突起が発達しました。
 特に、関東・中部の勝坂式土器様式や新潟県地方の火焔土器様式、東北南部の大木様式などはその代表といえます。
 これらの各様式では、浅鉢の製作が盛んになり、煮沸用以外の器種が増加しました。
 土器シリーズ後編は、その中でも飛びぬけて派手で美しい、火炎土器の謎に迫りたいと思います。
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それでは、続きをどうぞ、


■中期の中頃に出現、中期の終わり頃に突然姿を消す

火焔型土器は、縄文時代中期の中頃(約4,500年前)に出現し、そして消滅してしまった短命な土器です。
その出現に関しては、北陸地方の新保・新崎式土器、東北地方南部の大木式土器など周辺地域からの複雑な影響を受けたとされています。
(中略)
火焔型土器は、最盛期をむかえた後、続く中期の終わり頃の土器にほとんど影響をあたえずに、突然姿を消してしまいます。その消滅の様相については、まだ解明されていません

■火炎土器は、そのほとんどが新潟で見つかっている。 [3]
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北関東や福島県で「火炎形系土器」などと呼ばれているものが出土していますが、これは形と文様帯の区分だけが似ている土器群であって「火焔型土器」とは呼べないものです。
私は、火炎土器について調べる前までは、この土器は1個しか発見されていないのだと思っていましたが、東日本の200を超える遺跡から発見されているそうです。
 そのほとんどが新潟県内で発見されていて、山形・福島・群馬・栃木・富山などの周辺地域でも出土していますが、それらは新潟県内のものに比べて、器形・文様ともかなり変化したものになっています。
典型的な火焔型土器は、新潟県内に分布が限られ、なかでも最盛期の火焔型土器は中魚沼郡津南町から長岡市にかけての信濃川上・中流域で集中的に出土しています。
■火炎土器には「火焔型土器」と「王冠型土器」の2つの形式がある
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「火炎土器?火焔土器?どっちやねん!」と思っていらっしゃった方に朗報です。
「火焔土器」は、昭和11年12月31日、新潟県長岡市馬高(うまたか)遺跡において初めて出土したものに付けられた愛称です。その形が燃え上がる焔に似ていたことから、この名称が生まれました。
その後、似たような土器が数多く出土しましたが、特に大きく飛び出た把手部分の形状から、鋸状の鶏頭冠形を持つ「火焔型土器」と、短冊形の突起を持つ「王冠型土器」の2つの形式に分類されました。そして、この2つを包摂して「火炎土器」様式と呼んでいるそうです。(研究者によって使い分けられ、統一されずに使用されているのが現状だそうですが、参考文献『火炎土器の研究』ではこう呼ばれていました。)
 この2つは多くの場合、ペアで出土しているため、なんらかの対立する概念として象形されたものではないかと推測されているそうです。(火焔土器の中にも、鶏頭冠形を左右に反転した2タイプ見つかっているそうですが、これにも何か意味があるのでしょうか!?)
■火炎土器の特徴~突起と渦模様の謎~manabu_about01_fig03.jpg
 中期の土器は、火炎土器以外にも、
「円筒土器上層、北筒式、中期大木式、阿玉台式、狢沢式、勝坂式、加曽利E式、曽利式、唐草文系、北関東加曽利E式、五領ヶ台式、新保・新崎式、串田新、大杉谷式、上山田・天神山式、咲畑・醍醐式、舩元・里木式、阿高式」
と数多くの形式が存在していますが、火炎土器には以下のような特長があります。

①器面に縄目文様が一切施されない。
②半裁竹管様(竹を半分に割ったようなもの)の施文具を用いた隆線による文様表現
③器面の文様区画の基本。器体の上下を区画し、胴下半部は筒形、その上に乗る胴上半部は膨らむ。胴上半部:胴下半部=約1:1.3の割合。
 口縁から大きくせり上がる突起はともに4つであり、4以外の数はない。(ただし、火炎土器様式の本拠地に隣接する会津地方においては、突起の数が3をとる例があり、会津集団が同調せず意地を残し、主体性を確立していた様子がうかがわれる)

突起が4つである理由は、明確には分かりませんが、ちわわさん曰く、
「横から見たときのデザイン性に配慮した結果だろう。そうに違いない。」
だそうです。私もそんな気がします(^^;)
縄目文様がなく、粘土紐をくっつけた隆起線、あるいは竹を割ったようなものを用いて器体表面あるいは粘土紐を掘りくぼめた沈線による凹凸のみを利用し、文様区画を明確にしているという点は、火炎土器の間で厳格に守られています。しかし、渦巻のようなS字状やC字状の文様は土器ごとで異なり、全く同じ模様のものはほとんど見つかっていないようです。

 このS字状モチーフの隆起線は、火炎土器に限らず中期縄文土器には多く見られるもので、火炎土器に限られた特徴ではない。
 火炎土器に限られた最大の特徴は、むしろS字状モチーフを含むさまざまな造形や文様を隆起線ですべて表現している点にある。

 
 中期の土器に共通する渦巻模様(S字状モチーフ)は、何を意味しているのでしょうか?
私たちのグループで議論したところ、以下のような結論になりました。

紐、線によって器面に模様を施そうとした場合、直線か曲線のどちらかになる。器面を模様で埋め尽くそうと考えた結果、渦を巻いたS字状モチーフを使うのが効率的にも、デザイン的にも良かった。

どうでしょうか?曲線というと、円でもいいのでは?と思いましたが、縁だと紐につなぎ目が出来てしまい、ひび割れの原因となってしまうなどあまりメリットがありません。やはり、S字状モチーフは自然界でもよく目にするもので違和感がないため、この文様を多用したのではないでしょうか。
 
突起部分の形が何を表しているのかは、残念ながら解明されていません:x
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■火炎土器の用途は?
火焔型土器は、貯蔵穴や住居跡などから出土していますが、特殊な状態で出土した例はまだ報告されていません。また、内面に炭化物(おこげ)が付着した例が多く見られることから、煮炊きに使われた土器であることは間違いありませんが、日常的に使われるものではなく、祭事などの特別な時に使われた土器であると推定されています。
総数に対する割合を見てみると、笹山遺跡出土928点中、深鉢形土器が57点。その内、火炎土器は火焔型土器14点+王冠型土器6点の計20点ということになり、20/928=約2%と、希少な土器であることから、およそ日常用ではなく、特別な時に用いられたものと考えられます。特別な時とは?祭りでいいのでしょうか?
■なぜ派手になったのか?火炎土器は贈与のため?!
 中期の土器はなぜ派手になり、中でも火炎土器はなぜここまで凝ったデザインになったのでしょうか?
 中期は温暖になり、食べ物がよく採れるようになりました。そのため、仕事の量が減って暇が増えたため、土器に凝ることができたからでしょうか?
 食べ物の量が増え、豊かになれば、意図的に(避妊や間引きなどで)人口調整をしない限り人口は増えるはずです。事実、中期は人口が増え、集団の数も増えました。単位集団あたりの人口がある程度増えてくると、統合できなくなるため集団を分けることで集団の数が増えていきます。
つまり、単位集団あたりの人口はあまり変わりません。つまり、食べ物は増えても、食いぶちも増えているため、食べ物を採る忙しさはあまり変わらないはずで、暇だから凝ったという説はないといえるでしょう。
 単位集団あたりの人口は変化がない、つまり、日常的に接する人の数は一定です。しかし、集団の数が増えたため、集団同士の緊張圧力が増していきます。その緊張圧力を和らげるための集団同士の贈与品として火炎土器が用いられたのではないでしょうか。
 火炎土器としての形式が守られたものが新潟に広く伝わっているというのも、贈与された側が
「こ、これは美しい。これと同じようなものを作って隣の集団に贈れば喜ばれるはずだ。」と、贈与品のレプリカを作って、他の集団に贈与することで形式が伝播していったのだと考えられます。
 S字状モチーフの模様など細かい点が異なるのは、この模様が、現在の指紋認識のように、当時の各集団を認識するための役割を持っていたのではないでしょうか。
読んでいただきありがとうございました。
次回は、いよいよ縄文探求シリーズの最終回、『縄文の犬』について扱います。
お楽しみに。
【参考文献】
・火炎土器の研究, 同成社, 2004年
・http://www.kaen-kaido.com/r_contents/manabu_about02.html
・http://tonko.photo-web.cc/buna-1/doki/2/doki2.html
・http://tonko.photo-web.cc/11gatukara/sinanogawaA/sinanogawaA-html.html

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