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【中央アジア】遊牧民の展開

今回は中央アジアの先史時代に遡って当時の様子をみてみたいと思いますが、その前に、中央アジアってそもそもどこなのかご存知でしょうか?

ウィキペディアでは『旧ソ連諸国のうちカザフスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタンの5ヶ国を意味することが多い。』とされていますが、アジアの中央部という言葉が示しているように、国境という概念ではなく地理的範囲での見方が良いように思われます。
そうした場合、中央アジアは、東はゴビ沙漠、西はカスピ海、南はコペト・ダー、ヒンドゥ・クシュ、コンロンの山々、そして北はアルタイ山脈とカザフ高原に囲まれた横長の長方形の地域となります。






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[拡大図] [1]


この地域は、アジアの内陸部に位置し、年間降雨量の極めて少ない、極度の乾燥地帯に属します。そして、そこにはタクラマカン、キジル・クム、カラ・クムといった広大な沙漠が横たわり、この地域で人間が居住できるのは、アルタイ山麓からカスピ海の北岸へと続く広大な草原地帯と、天山、アルタイ、ヒンドゥ・クシュ、コンロンなどの山々の谷間とか中腹にみられる山間牧地、そして高山の雪解け水を集めて流れる河川の流域と、天山その他の山麓につくられたオアシス地に限られています。

この3つの地域に居住する人々は、その生活様式によって2つに区分されることになります。つまり、北部の草原地帯と山間牧地は、夏営地と冬営地の間を季節移動する遊牧民であり、南部のオアシス地は農業を主とする定住民です。
両者の生活様式・文化の違いは相互補完的な共存関係だけでなく、時には支配と被支配という関係をも築くことになります。その為、この両者をみていく必要がありますが、まずは草原の民である遊牧民について見てみたいと思います。

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【2200年前までのイラン系遊牧民】
中央アジアにおける遊牧民の活動は、すでに先史時代からその存在が確認されています。






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こちら [4]よりお借りしました

3800年前~2800年前のおよそ1000年間、草原地帯にはアンドロノヴァ文化と呼ばれる青銅器文化が続きます。3200年前~2900年前頃になると羊の飼育と乗用の馬を持つ遊牧民の活動が開始され、つづく2900年前~2800年前になると、乗用の馬を利用して、多数の羊、山羊、馬を飼育する遊牧社会が成立していました。

この中央アジアの遊牧民は、やがて西方へも活動の範囲を延ばし、古代オリエントから鉄器文化を学びとると、飛躍的な発展を遂げ、ここに強力な遊牧国家が出現しました。

黒海北岸を本拠に、2600年前~2500年前を中心にギリシア、古代オリエントの両世界に相対したスキタイ人の国家は、遊牧民によって史上はじめて建設された強力な国家でした。
このギリシア人によってスキタイ人と呼ばれた遊牧民は、もともと中央アジアの草原地帯に居住したイラン語を話す遊牧民の一部であり、2800年前頃、サルマートと呼ばれる同じくイラン系遊牧民の東方からの圧力を受け、黒海北岸方向へと追いやられた人々であったようです。

スキタイ人を含めて、中央アジアの草原地帯に活躍したのは、すべてイラン系遊牧民であったと考えられています。

【2200年前以降の侵略闘争の激化】








■匈奴帝国および周辺勢力の状況
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こちら [5]よりお借りしました[拡大図] [6]

2200年前頃、中央アジアの草原地帯の東隣、モンゴルの草原地帯に匈奴と呼ばれる遊牧民による強力な国家が成立し、中央アジアにもその勢力をのばし始めます。
当時、中央アジアの草原地帯の主人公は「月氏(ゲッシ)」と呼ばれた遊牧民でした。この月氏とは、スキタイをあらわすアッシリア語の史料(スクジャ)を写したものといわれています。

これに対して、東方に興った匈奴は、アルタイ系の言語を話す遊牧民でした。そして、この匈奴による三次にわたる中央アジア遠征は、月氏を遠くアフガニスタン北部へと追いやったのです。
ここに中央アジアの草原地帯における、イラン系遊牧民に代わるアルタイ系遊牧民の活動の時代が始まります。

匈奴は2050年前以降、東西に分裂、さらにその東部も1950年前頃(1世紀中葉)、南北に分裂し、中央アジア草原地帯に対する支配権を失っていきます(なお、北匈奴の一部は、1900年前(1世紀後半)頃、西走して中央アジアの天山山中のイリ河畔に、さらにその一部が西方に移動し、フィン族、スラブ族と混合しながら、新たな混合民族として、4世紀には南ロシアに出現し、5世紀にはアッチラという指導者にひきいられて、ヨーロッパに侵入しました)。

匈奴国家の崩壊後、モンゴルの支配者となったのは鮮卑族(モンゴル系orトルコ系)でした。彼らは2世紀中葉、匈奴の旧領土を支配下に納めますが、3世紀半ばには南下して中国北部に移住し、いわゆる五胡十六国の時代を現出しました。

鮮卑南下後のモンゴルでは、はじめ高輪の車を使用したことから、高車とも呼ばれたトルコ系遊牧民の勢力が盛んであったが、やがてその支配下にあったモンゴル系の柔然部が独立して、5世紀の初頭にはモンゴルの統一に成功しました。このため高車部は、5世紀後半には西走して中央アジアの草原地帯(アルタイ山西麓より天山北麓にかけての地域)に移住し、遊牧国家「高車王国」を建設しました。つまり、5世紀後半から6世紀はじめにかけてのアジアの草原地帯には、モンゴル系の柔然、トルコ系の高車という二つの遊牧国家が対峙していたことになります。

そして、その後も突厥と呼ばれる新たなトルコ族の遊牧国家、8世紀半ばには、突厥の支配下にあったウイグル人によって、アジアの草原地帯における支配権を奪われることになります。
9世紀半ばのウイグル遊牧国家の崩壊後、12世紀末期のチンギス・ハーン帝国の成立まで、アジアの草原地帯には、独立した比較的小さな遊牧国家をつくっていたとされています。

このように中央アジアの遊牧国家は、イラン系遊牧民(アーリア人)に始まり、アルタイ系、モンゴル系・トルコ系など様々な部族によって形成されたようです。

【遊牧国家の構造】
遊牧国家の形成にあたり、君主はその国家形成の中核となった特定の一氏族から選出され、その民族以外の出身者がつくとこは、原則として不可能であったようです。また、これらの君主たちは、各遊牧国家の支配階級の成員たちが集まる国会<クリルタイ>において選出されていました。

これは、遊牧が家畜を財産として、移動を基本的な生活形態としたため、自然の苛酷さに加え、常に他者の襲撃にさらされるという危険がつきまとっていたが故に、有能な指導者のもとに、強固な団結を維持することを目的として、国会の意見による交代、選出という君主選定の手続きをとっていたようです。

また、君主交代や外国遠征などの重要な国家的事項を決定する国会に参加できたのは、君主の出された特定氏族の成員たちと遊牧貴族(多数の一般遊牧民を支配下に持つ遊牧部族の支配者)たちであったようです。
君主や国会の構成員というのは身分制度の上に成り立っていたと思われます。

では、遊牧国家の構成はどのようになっていたのでしょうか?

遊牧生活におけるもっとも基本的な集団は、その成員たちが同一の祖先をという共通の意識を所有しており、氏族と呼ぶことができます。この氏族が他のいくつかの氏族と合して、一つのより大きな遊牧集団を形成した場合、これを部族連合体、あるいは国家と呼びます。

つまり遊牧国家とは、氏族、部族をその構成要素とするピラミッド状の政治的統一体であり、この統一体が外部の部族ないし部族連合体をその支配下に収めた時、その支配領域をきわめて広大なものとなります。匈奴、突厥、ウイグルなどの遊牧国家は、いずれもこのような構造を持った国家であり、この遊牧国家の基本的構造は、後のモンゴル系、トルコ系の遊牧諸国家においてもほとんど変わることはありませんでした。

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