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日本人の起源10 侵略部族の流入から見る縄文気質の特質

>※男原理と女原理、変異と安定、さらには縄文気質と大陸文化など、異なる2つの要素が塗重なるように日本人を形成していった。<
倭国大乱からはじまる同類闘争圧力の上昇 [1]
 前回の議論を深め、今日は弥生以降日本人を形成していった流入民の動きをダイジェスト版で見ていきたいと思います。その流入によって、何が変化して、何が変化しなかったのか?日本人の気質を読み取る上でここが重要なポイントとなりそうです。
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★流入第一波 ~紀元前4世紀頃 楚からの難民流入~

約2400年前(紀元前4世紀頃)、中国は戦国時代と呼ばれる時代で、諸国(燕・斉・趙・魏・秦・韓・楚)が争っており、燕・秦・楚からの難民が南朝鮮へ流入し、日本列島へも海洋ルートで楚からの難民が流入していた。
彼らが「弥生人」の起源である。

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DNA的には旧くから日本列島にいた縄文人とは異なるが、精神構造は縄文人に同化し融合していった。
★流入第二波 ~2世紀頃 朝鮮半島からの亡命部族(侵略部族)の流入~

紀元後146年~189年(桓帝・霊帝の治世)の間に「倭国大乱」が起こったと「後漢書」(東夷伝)に記されており、「三国志」(魏志倭人伝)他の書物にも2世紀後半に「倭国大乱」があったことを記述している。
一般には「倭国」=「日本」と解されていることが多いが、戦国時代~前漢時代にかけて編纂された「山海経」の記述からは、朝鮮半島中部にあった国であると読み解け、「倭国」の範囲は倭人たちの領有地域に規定されており、前漢以前の時代はむしろ朝鮮半島中部~南部が「倭国」の主要領土で、倭人の一部が日本列島にも上陸していたとみなせる。
 よって、「倭国大乱」とは、日本列島だけでの出来事ではなく、2世紀頃に朝鮮半島南部にあった3つの部族連合「馬韓(→4世紀に百済によって統一)」「弁韓(→4世紀に部族連合のまま伽耶連合)」「辰韓(→4世紀に新羅によって統一)」の争いであり、その争いによって追いやられた部族が、日本列島へ流入したと考えられる。
 「倭国大乱」期に朝鮮半島からの流入民は、数的に第一波より多いのはもちろん、亡命部族であると同時に武装した侵略部族であり、彼らによって縄文人たちは制圧されたであろう。

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この大乱は最終的に女王(卑弥呼)を共立して収まったとされているが、これは女首長をおく母系集団的な治め方であり、この時期でも縄文的性質が失われておらず、むしろ統治のためには縄文的性質への同化が不可欠であったと言える。
★流入第三波 ~6世紀の任那滅亡、7世紀の百済滅亡と流入民~

朝鮮半島では、新羅によって562年に任那が、新羅-唐連合軍によって660年に百済が滅ぼされた。
「倭国」がもともとは現在の「日本」だけではなく、南朝鮮と日本列島の一部を占めていたことを考えると、これは単なる朝鮮半島という地域の出来事ではない。
 
これは、日本列島にいた(伽耶を出身地とする)「倭人」にとっては、故地(伽耶・任那)を奪われ、同盟国(百済)を滅ぼされたことを意味する。
滅亡した百済の遺臣達からの要請に応じて、「倭国」が大軍を派遣して白村江の戦い(663年/百済・倭国軍敗戦)に挑んだのは、このような事情があったからに他ならない。
 
そして伽耶・任那滅亡から百済滅亡、白村江の戦いまで、大量に伽耶人、百済人の流入が続き、これらの中には社会的に高位の者も少なからずいた。

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このような大量流入が起これば、使用言語が大きく変化したり、あるいは流入者の母語に取って代わられかねないが、この流入第三波によってもそのような事態にならず、縄文的性質が継承されていった。
◆流入民との融和を実現してきた古代日本人の性質

ここまで見てきたように、日本列島ではアジア大陸(朝鮮半島)からの流入(≒侵略)、混血を繰り返されてきた。
しかし、集団統合において重要な意味を持つ婚姻様式をみても、一部の地域では戦後までよばい婚のような母系の婚姻様式が存続していたし(大陸は父系制が主)、用いる言語においても大量流入によって大変化は起こらなかった。

このことから、南方モンゴロイドに起源を持つ縄文的な受入れ体質や本源性は、異なる精神性を持つ民が(支配者層として)流入してきても、友好的に受け入れながら当事者として集団統合を担っていったことがわかる。
◆名字の風習・神社も日本古来のものではなかった

日本では名字をもっていることが、支配階級(朝鮮からの渡来部族)の証であった。それが氏族の血統の証であり、当然名字のある階級と無い階級が交じり合うことは殆ど無かったと見られること。
従って姓を持っている名家は明らかに侵略部族の末裔であり、支配階級であった。  
 
侵略部族は自分の氏神として神社をもっていた。
・邪馬台国(ヒミコ)・・・・・・・・・・後の伊勢神宮系
・狗奴(くぬ)国(スサノウ、須佐氏)・・・・・宇佐神宮(八幡宮)系
・伊都国( 葛城氏、物部氏)・・・・・・加茂神社系
・不弥国(須佐氏)・・・・・・出雲大社
・・・・など

 日本古来のものと思われていた名字・神社の風習でさえ渡来人が取り入れたもの。ここでまた興味深いのは、侵略部族の持ち込んだこれらの様式にも抵抗・反発を強めることなく、取り込み・融和していってしまうところ。
 侵略部族である渡来人も、ここまで受け入れられ、逆に縄文気質に取り込まれていく感覚は大陸では経験の無いことだったのではないでしょうか。これは日本の宗教観にも表れています。

日本は、古代は道教の農耕文化であったが、その後、儒教の騎馬文化が征服したため、表層が儒教、深層が道教になったようだ。日本は騎馬民族が入った時、丁度仏教が中国でも最盛期であったため、儒教ではなく、仏教になったが。
道教は、気の文化であり、感じるを大事にする。儒教は論理を大事にする。気功は道教、論語は儒教である。この2つが日本では融合している。両文化が、交じり合っている。中国は、それぞれが影響を及ぼしたが、交じり合ってはいない。

「日本の道教について」 [4]より引用
 以上、大陸からの支配部族・宗教・文化の流入と日本人の気質についてみてきましたがいかがでしょうか。歴史を追ってみていくと、縄文気質がいかに日本人の起源をみる上で重要な要素を持っているか、ということを改めて感じさせられました。
 渡来人すら受け入れ、のみこんでいった縄文気質ですが、当然変化した部分もあります。日本人の不変部分と可変部分を見るためにも、次回からは流入してきた大陸の歴史がどうなっていたか?に焦点を当てて追求していきたいと思います。
参考投稿
朝鮮半島からの流入民との融和をもたらした古代日本人の縄文的性質 「日本人の起源」1 [5]
古代朝鮮からの侵略部族が、一貫して日本を支配してきた 「日本人の起源」2 [6]

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