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縄文探求シリーズ【縄文人のお墓】 ~埋葬から縄文人の精神世界に迫る-2~

縄文人の埋葬は再生への願い(前投稿 [1])。では、縄文人はどのようにして再生という概念を思いついたのか。埋葬方法とどのようにリンクしているのか。
 
埋葬の意味を知るには、縄文以前の始原人類にまで遡る必要があります。なぜなら、縄文人の埋葬方法はそれ以前の人類がすでに始めているからです。
 
始原人類の埋葬
人類は猿人⇒原人⇒旧人⇒新人と進化したと考えられています。その中で、旧人(ex.ネアンデルタール人)以降で、埋葬をした痕跡が見られます。
 
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画像を拡大して見る [2]
  
初めて埋葬を行ったのは旧人です(写真左・中央上)。すでに屈葬や副葬していることがわかります。(そのほかの例はムスティエ文化 [3]参照。埋葬が一般化し、様式化するのは新人(ex.クロマニョン人)です。彼らは屈葬に加え、合葬、副葬品、赤顔料も見られます。(写真中央下・右)
  
埋葬の場所はいずれも洞窟内です。洞窟に住んでいた人類にとって、遺体を洞窟内に置いておく事は肉食獣を誘うことになり、危険が大きかったはずです。また、遺体(死者)を恐れたならば、洞窟の外、それも遠くに放置したはずです。遺体を近くに置いておきたいという思いがあったのです。
  
このように縄文人の埋葬のしかたは、それ以前の人類が行っていたものをそのまま受け継いでいます。では、当時の人類は、なぜそのような埋葬方法を始めたのか それには当時の人類の状況に迫る必要があります。
 
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始原人類の置かれた状況
人類が進化したのは、極限的な外圧にさらされ続けたからです。そのような状況の中から、埋葬を始めたのです。当時の人類に何が起こったのか。
 
まずは人類(猿人)につながるサル。その身体的特徴は樹をつかめない足の指です。足の指が先祖返りしたことで、足で木の枝が掴めなくなり、樹の上で生活できなくなります。樹上は、食べ物が豊富で他の動物に襲われにくい。その有利な生存の場を失います。そうなるとどんな動物よりも弱い存在です。極限的な外圧にさらされます。数十人程度の仲間と洞窟の中に隠れ住み、肩を寄せ合いながら、動物の死骸などをあさる日々です。骨を割って髄をすすっていたことがわかっています。
 
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そんな状況でも絶望しなかったのは、仲間との充足があったからです。お互いの苦しみを分かち合い、助け合うことで、生きる希望を保ち続けました。始原人類にとって数十人の仲間が世界のすべてです。
 
始原人類にとって、仲間のとは、そのようなかけがえのないない存在を失うということです。その喪失感たるや計り知れません。悲しみに苛まれると同時に、新たに分かち合える仲間が生まれることを切に願ったに違いありません。その思いは、新たな仲間の誕生=「」への希求につながります。
 
始原人類は、絶望的な生存圧力の中でも生きることへの欠乏は強く持ち続けていました。だからこそ、生き延び、現在の我々がいるのです。
 
絶望的な生存圧力に対して、仲間との充足を基盤に、互いの期待応望でなんとか活力を維持します。そんな仲間の期待応望に応える中で、その充足を基盤に絶望的対象ともいえる自然を注視し続けます。そしてついに、万物の背後に、仲間と同じような期待応望対象を見出します。それが精霊です。
 
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期待応望対象として精霊を見出したことで、自然への同化が急速に進みます。自然現象は精霊の期待や応望の結果として、そこに法則(因果)を見出していきます。そのような対象認識が母胎となり、自然科学は発達します。以後、人類は自然物を加工し、道具を発明し、徐々に過酷な生存圧力を克服していきます。
 
人類にとって精霊は、生存圧力を克服していける可能性であり、彼らの意識のすべては、精霊への同化へと収斂していきます。これを精霊信仰と呼んでいます。精霊に同化し、応望することが生活のすべてになっていきます。
 
したがって、始原人類や縄文人にとって、生も死も、精霊との関わりで考えるようになります。
 
精霊は万物に宿り、食物もすべて精霊です。エサとしての動物たちは精霊がもたらしてくれる恵みです。精霊の恵みが続くにはどうしたらいいのか。精霊にどう応望したらいいのか。しかし、ぎりぎりで生きている人類にとって、捧げられる物はありません。捧げられるのは祈りだけです。(後世の文明では豊かになり、生贄という発想が出てきます。)
 
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恵みへの祈りは、すべての食物に及びます。動物を獲って食べたら、残った骨に祈ります。貝を食べれば、残った貝殻に祈ります。再び恵みがあるようにと、祈らずにはいられません。
  
では、仲間の死に際して、縄文人はどう考えたのでしょうか。
 
人類は、仲間の死に対して、新たな仲間の誕生=「生」を希求しました。精霊への同化が進むにつれ、誕生の現象も注視し、胎内から生まれ出る営みも精霊が自分たちが期待したことへの応望であるととらえます。死もまた、精霊の仕業です。生も死も精霊を通じてつながっています。そこに、「死に際して、生を願う心」が芽生えます。どちらも精霊への祈りとして統合されます。
 
死者が精霊世界へ戻ることで、新たな生へつながってほしい…。精霊世界を介した死と生の連関が、生まれた場所へ戻すという発想につながったのだと思います。生まれた場所とは母胎です。
 
つまり、縄文人の埋葬には母胎へ戻すという発想が込められているのではないでしょうか。
 
 
 
精霊世界へ戻し、次なる生を願う
 
母胎へ戻す。そう考えると、埋葬のしかたの意味が鮮明になってきます。
 
●屈葬は母胎内の胎児の姿
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縄文人は出産時の赤ちゃんの格好は誰もが知っています。また、不幸にして出産に際して母子とも亡くなった(まれではなかった)場合は、お腹を裂いて赤ちゃんを抱かせて埋葬した例もあるように、母胎内の様子もわかっていたはずです。またベンガラの赤色は、血の色です。単純に再現しているというより、生まれることと血との間に意味があると考えたはずです。
 
●抱石葬の石は胎盤
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胎盤が命を育むのに不可欠なものであることは出産を見ていればわかったはずです。ところで、よくこの石が死者を蘇らせないための重しだという説がありますが、その発想なら、もっと大きくて重いものを選ぶはずです。また遺体を覆うほどであってもいいはずです。抱石の石はたいてい20~30センチ程度で1つです。大きさといい、だいたい1つであるということといい、胎盤を模している可能性は高いでしょう。また、石には残された者の祈りも込められているはずです。
 
●頭の土器は子宮
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頭に土器や甕を被らせる埋葬方法があります。この土器や甕は子宮(精霊世界への門?)を表わしていて、子宮へ戻るイメージを込めたのではないでしょうか。埋葬以外でも、土器には性器を表わした文様や赤ちゃんが生まれ出る瞬間を表わした文様が施されることがあります。そのような土器は、彼らにとって<最上の恵み=新たな仲間>を生み出す子宮に見立てたものであり、充足を生み出す象徴物でもあったのです。
  
すべてに一貫しているのは、精霊への祈りです。かけがえのない仲間のを乗り越え、次なる新たなを求める充足(活力)再生への願い。それが埋葬に込められた縄文人の思いです。
 

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