まだ宗教のなかった縄文時代。縄文人たちは仲間や家族の死に対してどうとらえたのでしょうか。その考え方は埋葬の方法に表われています。彼らの生きていた時代状況に同化しつつ、死者の埋葬のしかたを通じて縄文人の精神世界に迫ります。
図:縄文人の埋葬あれこれ
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縄文人の埋葬のしかた
上の表は縄文人の埋葬のしかたとおおよその出現時期をまとめた表です。
地面に穴を掘って、脚を折り曲げて埋める屈葬が基本となっています。それに副葬品や赤色顔料が加わったり、石を抱かせる抱石葬やお墓の上に石を並べる配石墓が見られることがあります。
身体を伸ばしたかたちで埋葬する伸展葬は中期以降にとくに西日本で増加します。また、後期以降になると九州地方を中心に、石で部屋をつくり大きな石で蓋をする支石墓が多く見られるようになります。これらは大陸で見られる埋葬方法で、弥生人の渡来に伴って出現しているものと考えられます。早期から中期の伸展葬が見られる遺跡では、屈葬を中心としつつ、一部に伸展葬が行われており、これは早期より弥生人が少数渡来し、縄文人の集団に融合し、ともに暮らしていたことを表わしていると考えられます。
埋葬方法に込められた縄文人の思いは?
当ブログの過去記事にいろいろ紹介され、分析もされています。まずはそれを紹介します。
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■子供の埋葬は再生への祈り
・子供(とくに乳児)の墓が多い。土器に入れる。抱石は、魂が古い肉体に戻ってこないようにした?
⇒縄文人は死者を恐れたってホント!? [4]
・子供が亡くなると住居の近くなどに甕に入れて埋葬。魂が再び母胎に宿り、その再生を願った。
⇒縄文:なんで子を大切にしたか? [5]
・縄文人が埋葬に込めた思いは「再生への願い」=充足や活力の再生
⇒縄文人、再生への祈り [6]
■墓にまかれた赤は再生の色
・屈葬にベンガラ(赤顔料)葬がある。赤=朝焼・夕焼・出産の血は再生を表わし、屈葬は胎児の姿勢。
⇒屈葬とベンガラについて [7]
・ベンガラ葬の多くは縄文晩期の北海道~東北地方。底に数センチ。朱塗櫛。赤染人骨。同時期の東南アジアでも類似例。最古は旧石器時代の道南。ベンガラ以外にも水銀朱もあり。
⇒屈葬とベンガラについて~その2 [8]
■ストーンサークルは死と生をつなぐまつり場
・東日本の集落の基本構造は、墓地(広場)を中心に外周縁に居住区域、その周りに廃棄域。
⇒縄文人にとってお墓とは何だったのか? [9]
・ストーンサークルは人口増と縄張り緊張が高まるなかで、集団統合力を高めるため必要だった
⇒縄文の超集団統合は、北方民族から取り入れられた手法か? [10]
・ストーンサークル(縄文後期)は、墓であり、その上で踊ったまつりの場。
⇒ストーンサークルは「生きるために死がある」を体現した祭り場 [11]
■再葬は死者に同化し、継承する儀式
・再葬墓は、死者(≒指導者)に同化し、役割を継承し、集団を再生していくための儀式。
⇒縄文:再葬墓≒死者への同化⇒再生 [12]
これまでの当ブログでの分析からわかるのは、縄文人が埋葬に込めたのは再生への願いです。再生といっても死んだ本人が戻ってくるのではなく、失った仲間が新たにまた生まれてきて、活力や充足が元のように再生されるように、という意味だったと考えられます。
では、縄文人はどのようにして「再生」という思いにいたったのか。それらの考え方と埋葬方法はどのようにつながっているのか。とくに、まだスッキリとした答えに至っていない抱石葬についてはもっとスッキリする答えはないのか。
次回は、そられを明らかにします。