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シリーズ「日本人の“考える力”を考える」第7回 共同体を繋ぐ神道と国家統合の為の仏教

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前項では、共同体内部で自然神信仰を守ってきた縄文人が、祖霊信仰、農耕神信仰を受け入れていった過程から、「無数に存在する」「極度に具体的な」「移動しない自然神」への信仰が、縄文人の信仰形態であり、日本人の信仰の原点でもあることを明らかにしました。
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しかし、このような信仰形態だけでは、古代中央集権国家は成立しません。どうしても、「抽象的な神」を持ってくる必要があります。古代日本において、その働きをした宗教が仏教でした。
共同体内部の祖霊を繋ぎ、大和王権を成立せしめた神道=神社システム
抽象的な”神”を作った仏教
天皇制が確立されて以降、この二つの”宗教”が、日本の観念世界の二大主軸となってきました。
その原点ともなる抽象神=太陽神の発生から、歴史を紐解いてみたいと思います。


■抽象化されたカミ=太陽神信仰=銅鏡信仰
縄文時代にも太陽神信仰は存在したであろうが、それも伊勢湾の「夫婦岩から昇る太陽」のように、非常に具体性を持ったものだった。この「夫婦岩から昇る太陽」は夏至であることを示すものであり、海洋民にとっての太陽神信仰であった。
doukyou.jpg [3]農耕生産が拡大にするに従って、それまでの自然神の中でも、太陽神が重要視されていく。ここでの太陽信仰は、「春になったら昇ってきてくれるから、豊穣がある」というものであり、冬至から太陽が再びのぼり、豊かな恵みをもたらしてくれることを祈るようになっていく。(この象徴的神話が、天岩戸神話なのであろう)
そして、太陽神のご神体として、銅鏡が用いられる。太陽の寄り代としての銅鏡は、「極度に具体性をもった」「移動しない」神ではなく、「抽象的な」「移動する」神が登場したことになる。そして、抽象的な太陽神の寄り代となった銅鏡は、農耕祭祀の中心的な位置づけとなり、被支配部族に配られていく。
そして、太陽神信仰は、祖霊信仰=大王信仰と一体になり、太陽神=大王を頂点とする宗教体系が作られていった。その象徴が古墳であり、古墳には太陽神の象徴である銅鏡が埋納されることになる。各部族の銅鐸を祭器とする農耕祭祀は姿を消し、銅鏡を祭器とする太陽神祭祀に取って代わったことを意味している。
■神社の登場
しかし、「極度に具体的な」「移動しない自然神」への信仰が、縄文人の信仰形態であり、日本人の信仰の原点でもあったために、抽象的な太陽神信仰を、一般庶民までが心の底から受け入れることには、抵抗があったに違いない。だから、土着の土地に根ざした土地神=農耕神は生き残り続けることになる。それが、「神社」であった。
神社は、その神話から氏族部族間の支配関係を明確にするものであり、また土地神(=農耕神)を、(移動せずに)守るものでもあった。神道=神社は、国家統合の必要から作られ、ネットワーク化されていったが、クニとしてのまとまりを維持するためには、古来日本人の信仰を全く無視した形では、成立し得なかったという訳だ。
■日本人的宗教観が、もたらしたもの
「無数に存在する」「極度に具体的な」「移動しない自然神」である縄文人の信仰が底流に流れ続けながら、神道という宗教体系が確立されていく。そして、これは「具体的な神が」「無数に登場し」「それぞれが寄り代を持つ」神話体系の誕生と期を一にしている。
このような宗教体系が確立されながら「(原始)国家」を作り上げていった日本列島では、多神教世界であるが故に、皆殺しにするような戦争が発生することは無く、概ね服属・支配→神話に被支配部族の神を取り込むという形で、国家が作られていった。また、「極度に具体性を持った移動しない神」であるが故に、被支配部族が土着の土地から切り離されて移住させられることもなく、多くの場合、その土地で生き、農耕祭祀・祖霊祭祀を続けることを許されていた。
■国家統合の必要から生じた「仏教の受容」
しかし、それぞれの氏族共同体ごとで祀っている農耕神、祖霊神を繋ぐだけでは、統一的な国家形成は難しくなる。統一国家からの指令も、氏族共同体の祖霊が認めるかどうかが焦点となり、もし受け入れられないものならが、指令そのものが無効化してしまうからだ。そうである限り、国家的な施策も、各氏族共同体が争うことのないような、最大公約数的な施策を取る事になっていく。また、施策を打ち出す前に、氏族間の調整が必要となる。
しかし、これでは中国大陸や朝鮮半島の国家に伍して、強力な中央集権的な国家を作ることは出来ない。氏族共同体ごとの祖霊を越えて、共通して祀ることができる「国家宗教」が求められるようになった。この時、受容されたのが6世紀前半には、中国大陸また朝鮮半島で「国家守護の宗教」としての地位を確立していた「仏教」だった。
仏教の需要は一般民衆から生じたのではなく、王権による一元的な統治を実現するために、氏族共同体を超えて、「国家」に対する「まつりごと」として位置づけられる宗教、ここでは仏教が、為政者によって求められ始める。だから、朝鮮半島や日本列島では、仏教は国家守護のための宗教として受け入れられたのであり、上位の支配者氏族が取り入れていくことになる。
■神道と仏教が並存する世界
日本では氏族共同体における神道システム=神社システムが健在であったため、仏教もそれに取り込まれる形で日本に広まっていく。仏教が広まると同時に、神仏習合が進み、各地に神宮寺が建てられていった。
こうして、日本独自の体制、すなわち「各共同体の祖霊を繋ぐシステム=神社ネットワーク」と「国家守護のための仏教」とが並存する体制へと移行していった。このシステムも、(氏族)共同体社会を基層としながら、東アジア世界において中国大陸・朝鮮半島と対抗するための中央集権国家を作ろうとした、極めて日本的な仕組みだったと言える。
<参考>
KNブログ:http://kn2006.blog66.fc2.com/blog-category-2.html
(ないとう)
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「日本人の‘考える力’を考える」シリーズ
第1回~序:追求の目的と視点 [4]
第2回~追求の立脚点 [5]
第3回~縄文土器はなぜ凝ったのか? [6]
第4回~銅器にみる縄文以来の自然観 [7]
第5回~神話を国家起源に持つ日本の可能性と限界(前) [8]
第5回~神話を国家起源に持つ日本の可能性と限界(後) [9]
第6回~縄文人の信仰は如何にして受け継がれたか [10]

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