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【縄文の集団に学ぶ~その9】縄文から弥生にかけて何が変わったか

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前回まで追求してきた縄文時代はやがて弥生時代に移行する。
1万年も続いた縄文時代に対し弥生時代以降は、稲作農業により食料の備蓄が可能となり、それがやがて私有意識が芽生させ、私有財産をめぐる争いを生み出し、力の原理による社会統合→国家の誕生を生み出した。
この時代を転機にして、共同体性を社会統合の基礎としていた時代は終焉し、隣接する中国や大陸国家と同様に、私権時代が幕開けし現在に至る国家・社会構成の基盤ができあがったと考えられている。
ところがこれらの社会構造の変化は統合階級側の一面的な表の変化であり、大多数である庶民階級の生活様式(=婚姻様式や私有意識など)は縄文体質を連綿と受け継いでいるという考え方もある。
力(武力や資本力)で社会を統合してきた人類史が限界を迎えている現在、日本人に色濃く残っている縄文体質の可能性に注目が集まっている。
今回は弥生時代以降、私有意識と国家支配が加速されていく中で、受け継がれてきた縄文気質とはなんだったのか?を考察する。
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■弥生時代の社会統合様式は?

2000年前には部族連合国家が乱立し、力による覇権争いが始まっています。最初の統一国家邪馬台国の王卑弥呼は、各部族の間から選挙に近い形で選ばれ、強制的色彩は薄く、しかも巫女であった。武力による強制的・一元的統合国家ではあるが、他方各部族とも自治制は高く、統合のためには軍事より占い信仰が上位に立つ構造(いわゆる祭政一致の政治形態)を示しています。
血縁関係にはない被支配部族をも含めた統合のためには、それまでの自然的精霊信仰を一気に統合する守護神を設定し、共認統合軸にする必要があったのでしょう。

リンク [4]
巫女を社会の指導者として奉り、社会統合をはかる様式は極めてユニークである。
ここにいたる社会の意識はどのようなものだったのか?

これは仮説になりますが、邪馬台国の社会組織は、部族連合の範疇に留まっており、私権時代の国家にまではなっていなかったのではないかと思います。同類闘争(戦争圧力)の高まりを受けて、各部族が連合を組んで他の部族連合に立ち向かう必要があり、そのために指導者(巫女)と軍人、生産者(農作業を指揮する人と働く人)などの★役割分化★が必要であった。また、連合の軍隊を維持するために、各氏族が物資や兵隊を出し合う必要があった、と考えれば、身分制と祖税制の存在もある程度説明できるような気がします。
つまり、邪馬台国の身分制は、組織の大規模化のための階級(タテの役割)分化の段階であり、強制権力に基づく身分制度にまでは至っていなかった、祖税制も強制権力に基づく収奪制度にまでは至っていなかったのではないかと思います。
おそらく、部族連合と国家の違いは、強制圧力(権力)の存在とそれに基づく絶対的な身分制度、収奪制度の有無によって区分されるし、されに言えば、そのような強制圧力を生み出す私有婚と私有制の共認の有無によって区分されるであろうと考えます。
人々の意識が私有婚と私有制の共認に収束し、誰もが私権闘争を繰り広げることによって、その結果としての勝者・敗者⇒支配・非支配⇒武力国家ができあがっていったという構造を考えると、私有婚制度と私有制への共認収束度が、部族連合と国家を区分する決定的な概念になると思います。
そのような概念区分から考えると、邪馬台国は部族連合の範疇に区分されるべきであるし、時代区分としても弥生時代(少なくとも古墳時代の手前の中間)に区分するのが妥当なのではないだろうかと考えます(だからこそ、その後古墳時代=国家を作った後期弥生人(大挙しておしかけた略奪部族)によって、邪馬台国は滅ぼされてしまったのだろうと思います。)

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強制圧力を生み出す私有婚と私有制の共認のが無く、同類闘争外圧に適応する「役割分担」⇒専門分化が統合軸の中心であり、それが力の原理=序列原理による支配共認を生み出すことはなかった。
この結果、社会全体としての共同体性がすぐに破壊されることはなかったが、いずれ役割分担は身分固定に転じていく。
■役割分担が身分固定に転じていく。

いったん同類圧力(この場合は略奪闘争の圧力)が顕在化すれば、それを制御する力は序列の共認しかありません。具体的にいえばそれは、私権時代初期においては、先ず制覇集団(部族)と被制覇集団(部族)間の集団間の序列として登場し、それがやがて身分序列に転じていきます。集団秩序や社会秩序の維持=統合が絶対課題だとすれば、彼我の力量を鑑みて服属を受け入れるしか選択肢がない、という状況判断も成立したことでしょう。その際にぎりぎりの妥協策として、集団の共認(婚姻制度など)は可能な限り維持し、社会的序列だけを受け入れるという判断が成立したのでしょう。
略奪闘争の高まりはある意味で社会空間=同類圧力が顕在化する空間がいびつな形で開かれたことを意味すると思います。この同類圧力(私権圧力)の満ちる空間=社会に対して、とことんそれを捨象した、これが縄文人=その後の日本人の特徴だともいえます。つまり大半は、それを前向きの可能性として受け取ったとはいいがたいように思います。これが身内意識の強さやお上意識の強さ等の、本源的だが社会空間に対して閉鎖的な日本人の体質として、現在も濃厚に残存しているといえるのではないでしょうか。

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※この「本源的だが社会空間に対して閉鎖的な日本人の体質」が縄文体質の正体である。
この体質の可能性については、現代に受け継がれる 縄文体質 [7] を参照しながらもう少し追求してみたい。

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