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シリーズ「インドを探求する」第11回~なぜインドで仏教は誕生し、衰退したのか<その3>~

Posted By jomon10 On 2010年8月6日 @ 11:38 PM In Ⅶエジプト・インダス文明 | 3 Comments

3.仏教の発展、そして衰退へ~早すぎた仏教誕生~
 インドにおける仏教は、先行するヒンドゥー教に対抗して出現し、アショーカ王による仏教の国教化政策によって一挙に広域波及しました。その後はヒンドゥーの国教化等により、盛衰を繰り返しますが、クシャーナ朝(1~3世紀頃)の全盛期カニシカ王の時代に、今一度仏教が保護され、小乗仏教と大乗仏教の複線的な発展が加わって、インド全域に広がりました。
 ところが、そのインド仏教が13世紀には、廃れてしまったのです。これはなぜなのでしょうか。
 このことについては一般的には、1203年に東インドの密教の根本道場だったヴィクラマシラー寺が、イスラム教徒の軍隊によって破却され、多くの僧尼が殺害されたことを以って、インド仏教の終焉とみるのが“常識”になっています
 しかし、大道場ではあってもその拠点が破壊されたというだけのことで、インド仏教全体が廃れるというのは考えにくく、むしろ、それ以前から仏教は民衆離れを起していたのではないか?(中村元氏)といった説もありますが、果たしてそれは、大乗仏教時代にも言えるのか疑問が残ります。
 また、仏教が貴族層や商人層に受け入れられた割に、もともと家庭儀礼や日常儀礼を重視しなかったために、社会の底辺にゆきとどいていなかったのではないか?(奈良康明氏)といった説もあります。
 しかし、どれも決定的な理由にはなりえないように感じられます。なぜなら、そのようにインドで廃れた仏教は中国や日本では蘇ったばかりか、歴史家によって認められているように、むしろインドの外で世界宗教としての力を発揮していったからです。
 ここには、インド社会独自の原因が潜んでいるのではないでしょうか。
 今回は、その辺の謎に迫っていきたいと思います。
シリーズ「インドを探求する」第9回~なぜインドで仏教は誕生し、衰退したのか<その1>~ [1]
シリーズ「インドを探求する」第10回~なぜインドで仏教は誕生し、衰退したのか<その2>~ [2]
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○大乗仏教への発展

 初期の仏教教団を取り囲む社会は、相変わらずのヒンドゥー(バラモン)的社会でした。釈迦が、ダルマ(法)に基づいて四姓・男女の平等を説いたといっても、それが実現されていたのは、厳密には教団内に限ってのことでした。教団の外では、相変わらずヒンドゥー的女性観が根強く横行していたのです。
 また、教団内を見ても、50%以上がバラモン階級出身ということがあり、釈迦の滅後、特に上座部、そして小乗と呼ばれる時代に、ヒンドゥー的女性観が次第に教団内に影響を及ぼすようになります
 さらに、バラモン的考え方から、在家に対する出家の優位の強調もはじまり、厳格な戒律主義が横行するようになります。そんな中から、大衆の中に入って、大衆とともに語り、悩み、修行に励んでいこうとする集団が現れます。それが大衆部でした。ここに、戒律・出家優位を説く「上座部」と、在家を中心とした、釈迦の時代に戻るべきだとする「大衆部」とに根本分裂します。
 後のアショーカ王の時代(紀元前三世紀頃)には、その上座部も大衆部も興隆をみましたが、それ以後は、またバラモン教を国教とする王が立ち、バラモン教が勢力を盛り返し、仏教は衰退の一途を辿ります。それは、バラモンがインド社会と一体化していたのに対して、上座部仏教は世俗の社会から離れた閉鎖集団であったと同時に、自ら分裂を繰り返しながら、互いに閉鎖集団化していった事実にもよります
 この時代に、大衆部仏教の延長として、各地で大乗仏教が興起します。彼ら大乗教徒は、政治的(ヒンドゥー)勢力による弾圧の危機に直面したことによって、仏教徒としての原点に帰る運動をもう一度興したのでした。彼らは僧院に閉じこもるのではなく、仏教を社会に開かれたものにしました。大乗の諸経典には、政治上の権力者である「王」のあるべき姿も説かれ、仏教の理念である「法」の立場から政治にも発言するようになります。それだけ弾圧も厳しいものがありましたが、その弾圧をはねのけて社会に挑戦しようとするエネルギーが上座部(小乗)と大衆部(大乗)との明確な違いとなって現れました。
 そして、ここに改めて、四姓平等、女性の地位向上が成されることになり、特に女性が先に仏教に帰依し、それを受けて夫が帰依するという流れが出てきます
 これは、いつの時代も、女性が先に可能性に収束する、ということの現われだと思います。

○大乗仏教から密教へ

 原始仏教から部派仏教、そして大乗仏教へと形を変えていったインド仏教でしたが、ヒンドゥー教が国教化され、弾圧が強まるに従って、一部の僧侶達は、徐々にヒンドゥー的な要素(祭式や呪句等)を取り入れてゆき、密教と呼ばれる新たな形態を生み出しました。しかし、密教化する過程で、次第にヒンドゥー教との区別が曖昧になっていき、僧侶はバラモン的存在になり、一子相伝が当たり前になっていきました。その過程で出家修行者が特定の大寺院に集中する傾向も見られ、その結果、ともすれば出家修行者と民衆の信仰が乖離しがちでありました。

○イスラム進攻→インド仏教衰滅

 そのような中で、8世紀初頭から、イスラム勢力が西北インドに進攻してきます。そして、1203年、イスラム教徒の襲撃により、東インド・ベンガル地方のヴィクラマシラー寺院が破壊されました。この時期には、その他多くの大寺院も破壊され、同時に多くの仏教僧が殺されました。そして、辛うじて生き残った者たちはチベットやその他の周辺地域に逃れていきました。一般にはこの一連の大寺院の破壊を以って、インド仏教の滅亡と見做しています。
 しかし、なぜヒンドゥー教は姿を消さずに、仏教だけが姿を消したのでしょうか?ヒンドゥーの寺院も破壊されたはずです。
 
 この疑問を解くに当たって重要なのが、上記のイスラム教徒によって破壊された仏教寺院は主に、小乗あるいは密教がほとんどだったことです。大乗の寺院の破壊はほとんどありませんでした。その理由は、大乗派のほとんどは、農村に住む人々であり、村全体で仏教を信仰されていたためです。
 では、なぜそれが破壊に繋がらなかったのかを以下、見ていきたいと思います。
 農村の仏教(大乗)信仰は比較的柔軟性の高いもので、それが仏教の良いところでもあり、弱点でもあったのです。
 その仏教には、特に固定的な実現基盤というものはなく、その時代時代に合わせて、その現実を見据えながら、可能性のある方へと、変化していく特性がありました。
 それは、言い換えれば、仏教独自の普遍主義・平等主義ともいえるもので、カースト制に基づいたヒンドゥー教とは全く違っています(ヒンドゥー教も、他の宗教を取り入れるといった柔軟性はありますが)。しかしそれゆえに、その平等主義がアダとなって、そこに、私権時代に適応し、しかも共同体的体制を残し、宗教教団内での平等を打ち出しているイスラムの容易な進入を許してしまったのです。
 インド社会においては、バラモン教の誕生以降、宗教による身分固定(カースト)により、宗教は生活の一部となり、切っても切れない存在となっていました。そこで、仏教は長らく反カーストの装置、あるいは抗ヒンドゥーの装置としての社会的な役割を果たしていましたが、その社会装置としての役割が、インド進出を頻繁に繰り返すイスラムに取って代わられてしまったのです
 また、ここにはもうひとつの原因も重なっていました。それは、イスラムの進出とヒンドゥー教の再興隆が時期を一にしていたということです。これが8世紀から11世紀のことです。
 元々イスラムは、土着宗教には寛容なところがあり、いずれはなびくという過剰な自信を持っていました。しかし、抵抗する勢力には決定的な蹂躙を辞さないものも持っており、これが世間にしばしば「剣か、コーランか」と言われるものです。
 イスラムがインド社会に怒涛のごとく進攻していったとき、そこに立ちはだかったのは仏教徒ではなく、ヒンドゥー教徒だったのです。仏教徒はイスラムとヒンドゥーのパワー・バランスの中で、イスラムに着いた方が有利な状況にさえ立たされたといって良く、記録によれば、多くの仏教徒はスムーズにイスラム教徒に鞍替えをしているという事実も少なくなく、特に大乗仏教はそのような柔軟性に富んでいました。こうして、イスラムは仏教徒を味方につけつつ、ヒンドゥーに対峙していったのです。
 
 しかし、新興勢力としての密教徒だけはこれらに抵抗し、密教の根本道場だったヴィクラマシラー寺が破壊されたのは、その一例です。
 そして、密教がチベット等に去り、やがてヒンドゥー教の抵抗も落ち着いてくると、イスラム側もヒンドゥー側と抗争することもなくなり、インド国内において共存することとなりました。
 こうして仏教はインドにおいては廃れていき、故郷のインドを離れて、その類い稀な柔軟性(普遍主義・平等主義)から、西域や中国や東南アジア、そして日本へとその土地の土着宗教と習合しながら、現代まで残っていくこととなるのです。

 以上、インド仏教の発展から、衰退までを見てきましたが、仏教はそのはじまりから、特にこれといった実現基盤を持たずに発展してきました。そのため、貧困にあふれた、私権の拡大期に、私権を否定すれば、社会から遊離するしかなく、釈迦の戒律等を重視した小乗派や密教においては、中村元氏が指摘するように、民衆との乖離が増していき、釈迦の柔軟性を重視した大乗派においては、逆に、より強大な(私権的な)ものに飲み込まれるといった傾向が見られました
 やはり、実現基盤・実現イメージの有無が、社会を変えていくには最も重要なファクターであり、今現在は、私権の圧力(序列原理)が衰弱する一方であり、逆に、共認原理という実現基盤ができつつあることが、最大の可能性なのです
参考文献:
・「古代インド」中村元
・「世界の歴史③古代インドの文明と社会」山崎元一
・「インド仏教はなぜ亡んだのか」保坂俊司
・「ブッダは歩むブッダは語る」友岡雅弥
・「仏教のなかの男女観」植木雅俊


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