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シリーズ:『イスラムを探る』第7回 イスラム帝国の拡大と分裂

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<アッバース朝の国旗 ウィキペディア(リンク) [1]より引用させていただきました。>
これまでの『イスラムを探る』シリーズで見てきたように、570年頃、神の啓示を受けた一人の人間=ムハンマドから始まったイスラムの教え(=イスラム教)ですが、彼を中心としたイスラム共同体=ウンマは、紆余曲折を経ながらも、イスラム帝国を築くまでに拡大していきます
また、イスラム教徒の数は、現在もなお増え続け、その数は13億人とも15億人 とも推測されており、近い将来、キリスト教を追い抜き、世界最大の宗教?になるとまで言われております
これって、よくよく考えてみたらすごいことですよね 🙄
そこで今回は、おさらいの意味も含めて、イスラム共同体の拡大過程を見ていきたいと思います
その前に、いつものヤツをお願いします
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ありがとうございます
それでは、さっそく、イスラム共同体の拡大過程をみていきましょう
イスラム世界が生まれる前から発展していく過程の社会状況が、よくまとまってある
『世界史地図理解(リンク) [4]
さんのサイトより引用させていただきます。
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 ◆622年アラビア半島状況
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イスラム教成立前夜である6世紀後半の西アジアでは、ビザンツ帝国とササン朝ペルシアとの抗争により、メソポタミア経由の従来のシルク=ロードが遮断され、代わってアラビア半島経由の交易路が活性化した。特に紅海沿岸のヒジャーズ地方のメッカなどの諸都市が繁栄し、貧富の格差増大や部族社会(相互扶助の伝統)の崩壊などの変化が生じ、宗教・社会改革の必要性が生じ、イスラム教成立の背景となった。メッカで預言者として活動を始めたムハンマドが、保守勢力の迫害を受けメディナへ移った西暦622年の事件をヒジュラ(聖遷)と呼び、イスラム暦の元年となっている。

◆アラビア半島からの視点
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アラビア半島から西アジアを俯瞰すると、その北方でササン朝ペルシアがビザンツ帝国と激しく抗争している様子がうかがえる。これによって途絶したメソポタミア地方を通るシルクロードにかわり、メッカを含め紅海沿岸のヒジャーズ地方が繁栄したのである。また、アラビア半島から北上すれば、ササン朝ペルシアの首都クテシフォンは目の前である。

◆632年アラビア半島状況
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メディナでイスラム教団の原点を形成したムハンマドは、630年にはメッカを逆に征服し、632年に死去するまでの間にアラビア半島全域の統一に成功した。ビザンツ帝国との抗争に明け暮れていたササン朝ペルシア側から見れば、彼らにとっての本拠地である首都クテシフォンを含むメソポタミア地方に対して、突如左側面からイスラム勢力の攻撃を受けることになったのである。一方ヨーロッパに目を移すと、ゲルマン民族の大移動が一段落しつつあったこの時代には、フランク王国・西ゴート王国などのゲルマン国家が西ヨーロッパに成立していた。

◆661年アラビア半島状況
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ムハンマドの死後、彼の後継者として近親者から選出された4代に渡る正統カリフの時代に、イスラム勢力はアラビア半島外に進出を開始し、ササン朝ペルシアを642年のニハーヴァンドの戦いで破り滅亡に追いやり、ビザンツ帝国からは地中海東岸のシリア地方・地中海南東岸のエジプト地方などを奪うに至った。彼らの異教徒の対する戦いはジハード(聖戦)と呼ばれ、その士気は殉教の信念に支えられて非常に高かった。

◆750年アラビア半島状況
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第4代正統カリフのアリーを暗殺してムアーウィアによって成立したウマイヤ朝は、首都をダマスクスに移して、異教徒に対するジハード(聖戦)をさらに拡大した。西方では地中海の出入り口であるジブラルタル海峡を越えヨーロッパに侵入し、711年にイベリア半島にあった西ゴート王国を滅ぼした後、ピレネー山脈を越えフランク王国に侵入し、732年にはトゥール・ポアティエ間の戦いで激戦を交えた。東方ではその勢力はインダス川に達し、中央アジアでは最盛期を迎えていた唐の勢力と接することとなった。

◆750年以降アラビア半島状況
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ウマイヤ朝は750年に首都をバグダードに置いたアッバース朝によって打倒されたが、その後もジハード(聖戦)は継続され、イスラム世界は拡大を続けた。ヨーロッパではフランク王国とビザンツ帝国の必死の抵抗に阻まれ、シチリア島などを得るにとどまったが、東方では751年にタラス河畔の戦いで、唐の軍隊を撃破し中央アジアのイスラム化を加速化することとなった。この戦いは中国で発明された製紙法が西方に伝搬したことで有名である。ただし、今まで単一の勢力としてまとまっていたイスラム教徒は、この頃から分裂を開始し、まずイベリア半島でウマイア家の末裔がコルドバを首都に後ウマイア朝を建国したのを端緒に、これ以後アッバーズ朝は分裂を開始することになる。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇(引用終わり)
引用文にもありますが、歴史にその名を残すほどの大帝国を築いたアッバース朝ですが、黄金期はそう長く続かず、早い段階でアッバース朝内に分派・独立勢力が現れ、分裂していきます 🙁
アッバース朝が分裂を始めた10世紀頃、共同体の外部世界に目を向ければ、私権時代の真っ只中です。各地域では、略奪と侵略が繰り広げられ、王権が成立しては、新たな勢力によって滅ぼされ、新政権が誕生しては、また新たな勢力によって滅ぼされるといった具合に私権闘争が延々と繰り返されていました
そのような社会背景にあって、アッバース朝が分裂に至った理由は様々考えられますが、一つの大きな理由として、共同体内の反乱分子による自我・私権意識の芽生えがあったのではないかと考えられます。
→イスラム共同体(ウンマ)は、もともとアラブ人を中心にした部族共同体からスタートしましたが、アッバース朝の頃は、アラブ人以外の新参者も多数受け入れています。共同体内の反乱分子の中心は、そのような新たに共同体に属した層から生まれたと言われています。部族共同体の下敷きを持たない新参者にとっては、イスラム社会の交易による利権をものにしたいと考えても不思議ではありません。
また、古くから共同体に属していた層の中からも、本来のムハンマドの教えに反するとして、反旗を翻した者が多数出現したと言われています。しかし、これに関しては、アッバース朝時代に始まったことではなく、上位階級(たとえば家長)の位相では、ムハンマドが死んだ後も、カリフの座をめぐり骨肉の後継者争いが繰り広げられていたと言われています。
イスラム共同体内部で、早い段階から家同士の対立が頻繁にあったということは、カリフを輩出した家には、(たとえば交易ルートが優先的に確保できるなど)なんらかのうまみがあったということは容易に想像できます。
また、イスラム教徒同士での、イスラム教の解釈の違いをめぐっての争いは、現在も続いています。
ただし、共同体の独立および分裂へと導く層は上位階級のごく一部の人間で、多くの大衆は、コーランの教えに可能性を感じ、生活規範として教えを忠実に実行していたのではないかと考えます
その証拠に、分裂・独立を繰り返し、また、たとえ対立構造にあっても、集団を超えた規範観念=イスラム教への信仰心は変わらず残り続けているからです。
イスラム教の最大の魅力は、教えを忠実に守ることで集団秩序が保たれることにあります。つまり、イスラム教のコーランは、こうすればみんなが上手くいくという『規範集』なのです。したがって、コーランには、なにか問題が起こったときの対処方法など、日常での生活規範がとことん具体的に書かれています。この点は、架空の観念を振りかざした宗教(キリスト教など)とは、一線を画しています
冒頭にも述べましたが、イスラム教徒は現在も尚増え続けています。コーランが規範集であることと照らし合わせて考えてみても、イスラム教徒が増大している理由として、金融破綻→世界的な秩序崩壊の危機を前にして、世界中の人が大きな秩序収束の流れに乗っているという見方もできるのかもしれません 😉
今回はここまでとします
次回は、キリスト教とイスラム教との違いを記事にしていきますので、お楽しみに

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