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宗教ってなに? ~7.知識人の操ってきた観念群~

😀 くまなです。
これまで7回にわたって「宗教ってなに?」について追求してきました。
1.宗教の認識論と近代思想 [1]
2.精霊信仰と守護神信仰の違いについて [2]
3.不安発の古代宗教と感謝・同化の精霊信仰 [3]
4.宗教の変換について [4]
5~全ての古代宗教の起源? 原始ミトラ信仰①~ [5]
5~全ての古代宗教の起源? 原始ミトラ信仰②~ [6]
6~近代思想と宗教は同根~ [7]
今回は、その最終回です。宗教の核心に迫る記事を紹介します。
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知識人の操ってきた観念群 [10]より引用です。(各段落のタイトルはkumana)
宗教とは現実否定発の、頭の中だけの共認充足
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古代思想(宗教)は、支配体制が確立する過程で生まれた。それまでの原始共同体は破壊され、人々の存在基盤は崩壊してゆく。その結果、世には、貧困や病苦、そして何よりも人間にとって絶対的である共認充足が失なわれてゆく。
そのような大衆の状況や意識=救い欠乏を見て取って、古代宗教は登場したのである。
しかし、この古代宗教が特徴的なのは、「現実の否定→現実の捨象」(「来世」等)という認識ベクトルである。
それまで人々にとって現実=圧力というものは、否定の対象ではなく、あくまでそれに立ち向かい、克服してゆく対象であった。
ところが、当時の現実=支配圧力=序列圧力を生み出した下部構造は、人々の私権収束である。従って、万人が私権を共認し、私権に収束している限り、この社会の全体構造を覆す事は出来ない。そのような状況認識に立ったが故に、古代宗教は直接の苦を生み出す序列圧力と私権収束を否定し捨象し、頭の中だけで「神の愛」などの本源価値に収束するしかなかったのである。
しかし共認充足が人類にとって絶対的なものである限り、そして共認充足の可能性がそこにしかない限り、人々は必然的にこの古代宗教に収束する。

近代思想「個人」「平等」「博愛」は宗教と同じ
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近代も同様で、市場=万人の私権闘争の場が開かれる事によって、私権の現実の可能性が一部開かれたが、逆に私権格差は拡大し、村落共同体や、人々のつながりは崩壊し、人々の苦しみや共認非充足もより拡大してゆく。その過程で私権闘争の場が開かれたという現実に照応して登場したのが近代思想である。つまり近代思想は、「神」に代わって私権主体である「個人」を絶対的な位置に置き、同時に失われてゆく本源価値を「平等や博愛」という観念によってそれをつなぎとめようとしたのである。しかし、人々が私権収束している限り、必然的に私権闘争は発生し、敗者は勝者に否応なく従わざるを得なくなる。その結果「自由」や「平等」や「博愛」という理念は常に空虚なものと化す。
その意味で近代思想も現実を捨象した、頭の中だけの充足にすぎないという、構造は何ら古代宗教と変わりがない。
それでも共認充足の可能性がそこにしかない限り、同じく人々は近代思想に収束する。

「貧困の消滅」は、現実の変革可能性を開き、宗教や近代思想を無力化していく

ところが70年の貧困の消滅は全く新しい現実を生み出す。即ちあらゆる苦しみの元であった「貧困」の消滅は、人々の救い欠乏を著しく衰弱させる。加えてそれ以上に重要な事は、貧困の消滅によって、私権への収束力が急速に衰弱したことである。つまり現実を不動のものとしていた最大の下部構造が崩壊した事にある。
つまり、この事は私権時代3000年を貫く、変革不可能視に基づく現実否定のパラダイムが崩れ、現実の変革可能性が開かれた事を意味する。

                    
今回紹介した記事に、宗教ってなにの本質があります。現実否定発の頭の中だけの共認充足。その存在構造を図解してみたのが下図です。
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根本に、現実としての自らの自我・私権の欠乏がある限り、現実は変えられない。でも、変えたい(認めたくない)現実がそこから生じる。共認充足が不可欠な人間は、せめて頭の中だけでも充足させようと、宗教に収束していく。
                  
現実直視の実践思考で、本源共認社会を再生する
今回の「宗教ってなに?」のシリーズを通じて、古代宗教が成立する基盤構造とそこまでの流れを考えてきました。各記事を作成にあたり議論した内容を図解にしてみました。
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宗教には、その本源共認的世界がどうしたら実現できるか、その実現基盤が語られていません(「皆が信じればいい」は答えになっていません)。また、宗教は現実から離れた場として用意されていて、現実をどうするという課題に真っすぐ向き合っていないように感じられます。それらはすべて、宗教が現実否定を出発点にしているからです。
1970年、貧困の消滅とともに、宗教の存在構造の根本が失われました。現実否定を原動力にしている宗教(及び近代思想)は、否定すべき対象が薄らいでいけば、自ずとその引力も小さくなっていきます。今後、共認収束の潮流と本源共認が再生される中で、宗教の存在意義は薄れていくことでしょう。
現実肯定視に基づくと、みなが求める本源共認の再生は、企業の共同体化(⇒本源集団化)と集団を超えた社会を統合するしくみ=認識形成サイトの実現にあります。その実現態にいま、もっとも近いのは、るいグループ [11]と るいネット [12]ではないでしょうか。その実践は、社会構造・歴史構造に基づく事実の認識に裏打ちされており、その確かさを実証するように、現在も進化し続けています。

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