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シリーズ「インドを探求する」第3回 ~地理的観点からインド史を観る

こんばんは。
不思議の国、インドシリーズ [1]ですが、今回は、インドの歴史の概況について紹介していきます。
インドといっても、広大な国土で、一つの王朝も多岐に渡り、一口には語りきれませんが、大きな捉え方としては、アリーア人の侵入以降、外部周辺地域の他民族の侵入を期に王朝の移り変わりを繰り返してきた北部インドの地域と、アーリア人の侵入以前から存在し、他民族の侵入に押しやられるように南部地域に移動し居住域を構えた、ドラビダ人が中心の南インドに分けられます。
こうした、南北インドの違いの主要因として、その地理的条件が大きく影響していますので、まずは、インドの地理的条件から見ていくことにしましょう。
(地理的、歴史的にインドを見ていく場合、現在の国家としてのインドの他、パキスタンやバングラディッシュ等周辺諸国も含めた地域全体として捉えていく必要があります。)
 
 
 
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<ガネーシャ神> 
さるみみの見た世界 [2] HPより
  
  
 
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○地理的条件から見たインド
●四周を自然の障壁に囲まれた大地としてのインド
太古の昔、インド洋にあった巨大な島が、プレートテクトニクスによってユーラシア大陸にぶつかりインド亜大陸になったと言われています。ぶつかったインドの北に世界有数の山脈である、ヒマラヤ山脈やカラコルム山脈等の巨大な山脈ができたといわれています。。
その山脈を源として、インダス川やガンジス川などの大河がインドの北東、北西部をヒマラヤ山脈に平行に縦断し海に注いでいます。
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<インド周辺の地形図>
http://www3.aa.tufs.ac.jp/~kmach/map.htm
北を山脈に、東西を大河に、南を海に囲まれたインド亜大陸は、いわば、ユーラシア大陸における、巨大な陸の孤島状態といってもいいでしょう。そのためインドへ到る進入ルートは、海上を除くと、ヒマラヤを迂回しアフガニスタンとパキスタンの国境にあるカイバル峠を超えるなど限られたルートのみとなっており、インドに侵入した民族は、このルートを経てインドに侵入してきています。とはいっても、決して他地域から孤立していたわけではなく、BC1500年頃のアーリア人を始め、BC4世紀のマケドニア軍、BC3世紀の大月氏やクシャーナ人、12~13世紀のトルコ系モスラムなど多くの外来民族が上記を経由してインドの地に入り、新たな文化の形成に加わっています。
●肥沃な北部と広大な南部
次に、インド亜大陸の内部はどのような地理的特色があるかを見てみます。
ヒマラヤの南部、インダスやガンジス等の大河添いには、ヒンドスタン平野という肥沃な広大な平野が横たわっています。インド北部の歴史上の主要な文明や諸王朝も、この平野沿いに発展したといってもいいでしょう。
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<ヒンドスタン平野>
ヒンドスタン平野の南には、北辺をヴィンディヤ山脈、東西端を東ガーツ山脈・西ガーツ山脈に囲まれたインドの大部分を構成するデカン高原が横たわっています。
高原は西から東に緩く傾斜しており、河川も西のベンガル湾に流れ込んでいます。またこの高原は両ガーツ山脈の風下になるため半乾燥地帯です。
インドを北と南に分ける時は、デカン高原の北辺(ヒンドスタン平野の南辺)に横たわるヴィンディヤ山脈がその境目となります。
現在でも、デカン高原の奥地や海岸沿いの南インドでは、ドラビダ人などの先住民族が多く住んでいる地域になっています。
一般的にインドをイメージする場合、多くは、北インドが中心になることが多いようです。
北インドはアーリア人の侵入以来、他民族の侵入と混血によって成立しています。広大なインドをこうした視点で見ると、遊牧起源の民族の血が濃い北インドの人々と、本源的な色彩が残る南インドの人々という見方も出来るかもしれません。
  
 
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<インドの言語地図>
知られざる人類婚姻史と共同体社会 [5] HPより
以下に、歴史概要をもう少し詳細に紹介していきたいと思います。
 
 
○インドの歴史の概観
 
●インダス文明 (BC2600~BC1700)
紀元前2600年頃より、インダス川流域にインダス文明が栄えた。民族系統は諸説あるが、紀元前3500年頃に西アジアから移住してきたとの説もあるドラヴィダ人によるものという考えが有力である。モヘンジョダロやハラッパの遺跡から発見された様々な遺物や痕跡から青銅器を用いた都市文明であったことが判明している。紀元前1700年頃までに滅亡したとされ、その要因として環境問題などが指摘されているが、インダス文字が未解読なこともあり、詳細ははっきりとしていない。
現在のインド東北部には、オーストロアジア語族に属するムンダ人も住んでおり、時系列的にはドラヴィダ人よりも古いという説もある。彼らもインダス文明に何らかの形で寄与していた可能性もあります。
●アーリア人の侵入とヴェーダ時代(BC1500~BC1000)
紀元前1500年頃にアーリヤ人がカイバル峠を越えてパンジャーブ地方に移住し、先住民を征服しました。
このアーリヤ人の社会は、いくつかの部族集団によって構成されていました。部族を率いたものを「ラージャン」と称し、ラージャンの統制下で戦争などが遂行されていたようです。ラージャンの地位は世襲されることが多かったが、部族の構成員からの支持を前提としており、その権力は専制的なものではなかったとされています。
アーリヤ人は、軍事力において先住民を圧倒する一方で、先住民から農耕文化の諸技術を学びました。こうして、前期ヴェーダ時代後半には、牧畜生活から農耕生活への移行が進んでいきます。また、アーリヤ人と先住民の混血も進んでいきました。
紀元前1000年頃より、アーリヤ人はガンジス川流域へと移動します。そして、この地に定着して本格的な農耕社会を形成していきます。農耕技術の発展と余剰生産物の発生にともない、徐々に商工業の発展も見られるようになり、諸勢力が台頭して十六王国が興亡を繰り広げる時代へと突入します。こうした中で、祭司階級であるバラモンがその絶対的地位を失い、戦争や商工業に深く関わるクシャトリヤ・ヴァイシャの社会的な地位上昇がもたらされるようになります。
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<アーリヤ人の侵入経路図>
横 浜 金 沢 みてあるき [6] HPより
 
 
●地方王朝からムガール帝国まで
アーリア人の侵入以降、多くの王朝が興りますが、インド亜大陸全土を網羅する統一王朝のなかで、比較的支配地域の大きいものをあげてみると、マウリア朝(BC321年:北・中インド)、クシャーナ朝(78年:中央アジアの大月氏から自立した王朝、イラン系)、グプタ朝(320年:北インド)、チョーラ朝(8世紀半ば:南インド)、奴隷王朝(1206年:北インド、イスラム王朝)トゥグルク朝(1320年:北インド、イスラム王朝)、ヴィジャヤナルガ朝(1336年:南インド)などがあります。
1526年には、ムガール朝(北・中インド、イスラム系)が興り、16世紀半ばにはインド最大の隆盛を誇ります。英国は1600年に東インド会社を設立し、インドに足がかりを築ます。これがその後のムガール帝国の衰退を招くきっかけとなっていきます。
アーリア系→イラン系→イスラム系と時代とともに移り変わってはいますが、北インドに成立した王朝については、外来民族が多くかかわっています。また南インドについては、主にドラビダ人によって、王朝が興されていることがわかります。
 
 
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<歴史年表>
悠久のインド 山崎利男著 より
 
 
●歴史上のエポックメーキング 
歴史上のエポックメーキングとしては、最初はアーリア人の侵入が挙げられます。父系制の婚姻形態を持ち込んだこと、リグ・ヴェーダ等、インドの宗教・観念的世界観に影響を与えた聖典を作ったこと等、その後のインドのベースとなる根源的な部分を持ち込んだことを考えると、最も重要な出来事の一つといっていいいでしょう。
その次に歴史上の重要な時代は、8~12世紀のヒンドー諸王朝の時代が挙げられます。この時代は、インド各地に諸王朝が盛衰した時代であり、この諸王朝の中で、今日に繋がる、カースト制度や領主制、地方の諸言語、ヒンデーの宗教運動や儀礼などが生まれており、以後各地の特色が鮮明になっていった時代であったようです。
最後は、13世紀以降17世紀までのイスラム系民族の侵入と支配の時代、そして16世紀以降のヨーロッパ諸国のインド進出、特に18世紀以降のイギリスのインド支配だろう。
西洋技術の流入による近代化と工業化、合理主義や民族主義等の近代思想の流入と、英語と英字による新聞や雑誌の発刊と流通というインドの各民族をまたがる共通のコミュニケーション言語を通じた民族主義の台頭など、その後のインドの方向性に大きな影響を与えている。
またヒンドゥーのインドとイスラムのパキスタンとの分離独立と民族大移動後の現在では、インド国内におけるイスラムの影響は残された遺跡等を除いては衰退していると思われるが、インドとパキスタンの対立等、その根っこは、イスラムによるインド支配とその後のイギリスの統治政策によるところが大きいだろう。
こうしたインドの特徴となる内容についての詳細は、次週以降のエントリーに紹介していく予定です。
 
 
 
○インドの特質、その歴史的な特徴を踏まえて
インド(特に北インド)は、アーリア人の進入以降、多くの民族によって支配されてきた。しかし、依然としてインドという独特の特徴を持ち続けている。
このインドの等質について、インド史の社会構造(木村雅昭著)では、的確な表現をされているので引用・紹介によって、結びにかえたい。

こうした状況にも関わらず、しかしながらインド文明は、依然として独自性を保持し続けていた。征服につぐ征服、戦乱につぐ戦乱に見舞われたにもかかわらず、「何の原則もなく、人倫と宗教の如何なる規制ももたない専制政治が」、住民を疲弊させ、流散させたにもかかわらず、インド文明の固有の生命力は、決して枯渇することがなかった。
一時、王の庇護をうけて全インドを席巻するかに思われた仏教は、時と共に風化し、そのあげくにインド精神風土の中へと吸収、合併されてしまい、また征服者の支援を受けた全くの異質の宗教が、インド伝来の精神風土に激しく敵対したにもかかわらず、その影響は、ほんとうにとるに足らない微々たるものもにとどまっていた。
それどころかインドは、かつて仏教を骨抜きにしてしまったのと同様、外部からの侵入者たちの文化を換骨奪胎し、いつとはなしに改宗者たちを既存の社会秩序の中にのみこんでしまったのである。「われわれがインドで見出すのは、政治的には間断なく征服されつつも、精神的には決して圧倒されることもなければ、屈服することもなかった人々である。
彼らは仏教を駆逐し、イスラムに見事に抗し、キリスト教によっても殆ど影響されていない」と夙に前世紀の後半に、A.C.ライヤールは、インド文明の驚くべき生命力に驚嘆しつつしたためたものである。(本書P5~6引用)

歴史上、仏教をはじめイスラム教やキリスト教等の異教や人々を受け入れ飲み込みながらも、依然としてインドはインドとしての存在感を保ったままである。一つ一つの歴史上の痕跡は、まるでスパイスを組み合わせ混ぜ合わせたカレーの中に入れた具であり、カレーは依然としてカレーのままであるかのように。。。
このインドの独自性はいったい、どこから来ているのだろうか?
次回からのエントリーでは、このインドの秘密についてさらなる追求・紹介をしていきます。
お楽しみに!!
 
 
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紅茶と犬っころ [7]HPより
  
●参考文献・資料
悠久のインド 山崎利男著
南アジアの歴史 内藤雅雄・中村平治著
インド史の社会構造 木村雅昭著
インドの歴史 ウィキペディア [8]
●これまでのシリーズ記事
新シリーズ「インドを探求する」 [1] 
現在のインドの状況 [9] 
インド人とはいかなる民族か?~日本人とインド人の評論から [10]

[11] [12] [13]