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ポスト近代市場の可能性を日本史に探る~通史的まとめ(前編)

縄文ブログ会員のみなさんの協力のもと、ポスト近代市場の可能性を日本史に探るシリーズ13話が完了しました。その記事を踏まえて日本市場史から見えてきたポスト近代市場の可能性についてのまとめを2回に分けて投稿します。
●以下は序論から中世までの論考です。
○ブログ記事より( )内は担当した会員です。
序:「ポスト近代市場の可能性を日本史に探る」をはじめます [1](怒るでしかし~)
 
①古代市場の萌芽は贈与ネットワークにあった 前編 [2]後編 [3](tano)
 
②古代日本外交史 ”主体的”外交への転換 [4](ないとう)
 
③神道の広まりが租税を可能にし、市場発達の基盤を作った [5](ないとう)
 
④日本古代市場の魁=修験道ネットワーク [6](怒るでしかし~)
 
⑤宮廷サロンをつくった商人とそれを支えた受領 [7](うらら)
 
⑥中央集権から封建制へ~武士の台頭 [8](yoriya)
⑦中央集権から封建制へ~農民の武装化と地方市場の拡大 [9](yoriya)
⑧中世市場をリードした「堺」の武器と茶の湯 [10](tano)
 
○以下はるいネット掲示板での論考です。
単一民族日本が持つ特殊性と可能性について [11] 
貴族階級の豪奢と横暴がもたらした都市難民と寺社勢力の台頭 [12]
古代日本に、中央集権国家は実現したといえるのか? [13]
 一遍上人の登場は市場と仏教の関係を示唆している [14]


●ポスト近代市場の可能性を日本史に探る
世界を見渡しても、近代市場社会へと早期に脱皮することに成功したのは、西洋と日本だけである。今でこそ、BRICSなどと騒がれているが、ロシア、中国、インド、中南米において市場社会が浸透するのは容易なことではなかった。市場経済の成熟・・・この点において日本は西洋と共通性を持つ。
他方、西洋は金貸し主導で近代市場が急拡大していったのに対して、日本は国家主導の管理市場という特性を持つ。この国家主導の管理市場という特性は、所謂戦後の護送船団方式もそうだが、明治政府の「富国強兵」も国家主導であったし、江戸幕府もその出発点においては、貨幣発行権を掌中に収めた管理市場であった。
西洋発の近代市場が行き詰まりをみせ、金貸し規制(管理市場)と自然の摂理に沿った持続可能な経済システムに期待が集まる中、日本が江戸時代に生み出した独自の市場システムに注目が集まっている。江戸時代は①鎖国=管理外交と②参勤交替=超集団統合体制という2大政治システムの特徴を基盤にして①貨幣発行権を掌中に収め、金貸しの暴走を許さない国家管理型市場②自然の摂理に沿った自自給自足経済、自然循環型社会という特徴的な経済システムを構築した。
日本市場の西洋にも負けない市場の歴史的成熟と、金貸し<国家という、西洋とは違う管理市場という特異性はどのようにして生み出されたのであろうか?
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写真は今回の参考書のひとつ鬼頭宏「文明としての江戸システム」人口の歴史研究家による江戸文明についての論考。文明問題を考える上で重要な人口史研究家ならではの視点は非常に参考になった。
●弥生農耕民の従順さと縄文以来の舶来信仰が古代市場拡大の原動力
古代市場が生み出される以前、縄文時代から日本は、贈与ネットワークとして豊かな海洋物流ネットワークを構築していた。大陸から流れ着いた流入民である原日本人は、それ故に、後からやってくる流入民に対しても寛容であり、基本的に「他集団にも共認原理を適用して受け入れる」というスタンスで接してきた。それ故に、集団の間には「集団間の安定的なつながりへの期待」と一体となった「モノ」が行き交うことになる。また、縄文後期の気候変動による日本国内での集団移動も、この贈与ネットワークの拡充に拍車をかけた。
そこへ、江南地方から、朝鮮半島から、稲と鉄の先進文明を携えた渡来民が漂着し、彼らを支配階級として迎え入れることで、弥生文明へと変化し、古墳時代を経て、古代王朝文明へと社会は移行していく。この大転換期にあっても、受け入れ体質の原日本人たちは、彼らと彼らが携えてきた先進文明を基本的に拍手で迎えた。こうして、縄文的な受け入れ体質の上に、マレビト信仰そして舶来信仰が塗り重ねられる。隼人や蝦夷といった少数派の反乱はあったものの、大多数は、既に縄文時代に進んでいた定住化と縄文農耕の発展形として稲作を受け入れ、弥生人=農耕の民になっていく。稲作を受け入れた人々は、稲穂を神からの授かりものと感謝し、豊作の一部を「初穂」として返すことを当然のこととして受け入れた。こうして稲作からの上がりを基盤にした神社ネットワークが国土を統一していき、天皇制の基盤をつくる。(ただし、複数の有力豪族の緩やかなネットワークに過ぎなかったため、中国から輸入した律令制=公地公民制は定着せず、基本的には有力豪族が各地に分散的に経営する荘園ネットワークとして定着していくことになる)
また海を生活の場に選んだ部族の中からは、大陸との交易の水先案内人として、古代交易ネットワークを支える海人族(安曇族、宗像族)が台頭していった。この延長に、住吉神人や日吉神人といった神社に支えられた海運ネットワークがつくられていく。
この神社ネットワーク→荘園ネットワーク+海運ネットワークから吸い上げられた富が平安の都に集積することで、平安京は一大消費都市となる。農民たちの稀な従順さと、島国ゆえの平安故に、軍備増強の必要のなかった平安貴族は、まさに平安ゆえに豪奢への欠乏を肥大させていく。そのため国交を閉ざしていたにも関わらず、唐物を求める舶来信仰への傾斜は相変わらずであった。つまり弥生農耕民の従順さと縄文以来の舶来信仰が古代市場拡大の原動力であり、それゆえに、西洋社会に負けない市場の成熟を非西洋社会において稀に達成したのである。
日本における古代市場の成熟において、仏教教団が果たした役割は極めて大きい。金貸しの源流は初穂を起源とした米貸し=出挙に遡る。金貸しは金があって、かつ計算ができないとやりたくても出来ない。この条件を充たすのは舶来の学問を学んだ僧侶だけだった。こうして日本では神社が仏教を取り込んで行き、神仏習合の形態をとっていく。寺社は「金を返さないと来世は動物になるぞ」と脅して資金回収を行ったことが「日本霊異記」から分かる。古代の出挙は聖なる初穂を起源として、絶対返さないといけないものとされていたが、仏教はそれを悪用したともいえる。
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写真は今回の参考書のひとつ網野善彦「日本の歴史を読み直す」網野氏は左翼的な「自由」観念に拘りすぎるきらいがあり、その点は注意が必要だが、稲作農耕至上主義では見えない歴史の裏側にスポットを当てたという点ではやはり重要な歴史家である。
●日本における金貸しの原点は教団ネットワーク
平安も末期になっていくと、平安貴族の快美欠乏から農民の負担が増大するようになると、農民の反乱を治めるための地方官吏(受領)の暴走と、都市難民の増大が加速する。そして、都市難民を神人、行人として商工業の担い手にした寺社勢力はますます金融主体として活動を拡大させていく。最初に権勢を誇った延暦寺は死の商人として武器輸出にも関わっていたし、為替の変動を予測して、今で言うFX取引のはしりのようなことまでしている。鎌倉時代になると一向宗、浄土宗、禅宗といった鎌倉宗教各派が競い合うように金貸しに精を出すようになる。
西洋・イスラムでは金貸しの暴走からイスラム教・キリスト教による金貸しを卑しいものとする教えが一般化し、ユダヤ民族への差別へと発展していくが、日本では中世まで金貸しは偉い坊主のやることだったのである。
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写真は今回参考とした伊藤正敏「寺社勢力の中世」の口絵に使われている「都名所図会の比叡山延暦寺」網野氏が持ち上げすぎた無縁所の実態を丸裸にしてみせたのは伊藤氏の功績であろう。
引き続き、後編に続きます(文責:怒るでしかし~)

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