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「縄文体質を切開する」3)縄文時代の集団はどうあったのか?

いよいよシリーズ投稿も3回目です。
前回までの投稿で、縄文時代の外圧状況 [1] と 縄文時代の生産様式 [2] をおさえてきました。
当時の状況が、かなり具体的になってきたのではないでしょうか
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今回は、縄文時代の集団に焦点をあて、当時の集団のあり方をあきらかにしていきたいと思います。
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○縄文時代の集団形態 環状集落(1):血縁による区分 [5] 引用

環状集落の中央には広場があり、周囲に住居が配置されています。最小で、直径70メートル程度、最大で150メートル以上に及びますが、中央広場には集団墓地が営まれるのが大きな特徴です。同心円状に所定の範囲内に、建物・施設を配置する構造は「重帯構造」と呼ばれ、当然新旧の遺構が重複します。有名な群馬県三原田遺跡では、中期後半の数百年にわたり、300軒以上の住居跡が重複しながら、直径130メートルの円を描いており、集落は外周から徐々に内側へ向って形成されていて、長期的な計画性をうかがわせます。

次に、住居群や墓群が大きく二分されていることもよく知られています。これを「分節構造」と呼びますが、墓域の区分は特に厳格で、埋葬場所は長期にわたって踏襲されていることから、分節は血筋・系譜の区別に基づくものだという可能性が高くなります。大群のなかにさらに小群が枝分かれすることもあり、八王子の多摩ニュータウン107遺跡(中期)はこの典型例で、何百年にわたり、直径32メートルの円内に整然と200基もの墓群が2×2の分節をなして営まれています。ここから、構成員の血縁的区分の厳格さ、血縁集団への帰属性の高さがうかがえます。さらに、各小群内の墓の数には差があり、他の二大群構造の遺跡においても、墓の数に不均衡があることが多いのです。これも、ランダムに墓を作った結果、と見るより、各血縁集団の成員数に違いがあるのが自然で、そこからの必然的結果と見るほうが妥当でしょう。

何世代にもまたがり、文化を受け継ぎ、祖先を祭祀する血縁集団としては氏族・系族と言われる「単系出自集団」が知られています。父系または母系のどちらかの血統により、系譜と成員の資格が受け継がれる集団です。G・C・マードックは数代から10代ぐらいの、実際の系譜が記憶されている単系出自集団を「リネージ」と呼んでいます。死者も含めてリネージの成員とみなしている社会も少なくないそうで、「リネージは生きた成員と死んだ成員との一つの共同体」と言われる所以です。

縄文時代の集団は、現代の私たちが考える以上に、血縁集団への帰属性が強かったようです。
初期のころの単位集団は、やがて集団規模の拡大という新たな事態を迎えることになります。
彼らは、どのようにしてその事態を乗り越えたのでしょう?
○総遇婚の共認 集団規模の大きさ [6] 引用

集団規模が大きくなるとそれまでの「顔の見える」生まれた時から一緒の単位集団(バンド)と違って、より上位の組織統合の課題が登場する事は間違いありません。
弓矢の登場以降、(2から1万年前)安定した生存域と食糧が確保できるようになると、集団規模が拡大してきます。
例えば縄文中期~後期(5500~4000年前)に登場した三内丸山遺跡の事例では、竪穴式住居が1000件存在したとされています。推定5000人近い集団です。また他の未開部族などの事例でも、大きなものは推定3000から5000人近くの部族連合を作っていたようです。
これらの集団は基本的に原始共同体です。

そしてこれらの大規模な集団は次のような形で統合されていた様です。
まず末端に30から50人規模の血縁集団(単位集団・氏族)が存在する。そしてその上位に氏族3~4グループを統合する胞族というグループが作られる。そして更にその上位に、胞族を更に3~4グループ統合する部族が形成される。という3段構成がとられており、これら全体が一つの集団を構成していたようです。各氏族、胞族は全体で集団規範を共有しており、各段階の決定は現代風に言えば合議制だったようです。これらの集団の一番基礎にある、氏族は血族であり、生産と生活をともにする集団です。だからおそらく各構成員は役割充足も充分に感じていたと思います。

しかし逆にそれぞれの氏族(単位集団)はそのままだと独立性が強くなりすぎるということからでしょう、別の胞族のグループ同士で(ある氏族or婚姻班と別の氏族)総偶婚=群婚制がとられていたようです。集団が解体しないための、統合の一つの知恵です。
この集団構成だと概ね300から500人の規模ですが、それ以上の規模となると、緩やかな部族連合を形成していた様です。但し三内丸山は同一地域に棲んでいたことより、集落全体が一集団だったのかもしれませんし、連合体だった可能性もあります。
これらの集団はおそらく規模が大きくなるに従って、血縁を単位に(但し群婚なので当然母系の血縁になります)集団を分割していったのだと思います。

以上、見てきたように、縄文時代は血縁集団を最基底部においた3段構成の共同体社会だったようです。最大の着目点は、総遇婚という婚姻制を導入することにより、集団内の争いを回避していたという点でしょう。
では、当時の集団の成員は、何を活力源とし、どのような規範や世界観をもっていたのでしょうか?
○性の肯定視 性の活力~まず縄文時代から [7] 引用

社会や集団の規範に包摂されつつ性が活力を持っていた時代とはどんなものだったのだろうか?当然それは性を謳歌していたということではないでしょう。性関係や性そのものが集団から肯定的に受け入れられていた時代と解釈すればよいと思うのです。

縄文時代は土器にも見られるように女性の性は生命の源として全面的に肯定されていました。同時に男性の性器自身もその象徴として神聖なるものとして象徴化されていました。生産の原資である子供を産み育てるという意味で農耕生産に性は貢献していたのです。性はおおらかであり、性は集団にとって矛盾なく迎え入れられたのです。女性の性は集団の財産でありそこで生まれた子供は集団で育てることで集団の財産となりました。

性はそのおおらかさをみても、その後の私権時代の幻想化され商品化された性とは大きく異なるものだったと思います。そこでの規範というものは果たしてどのようなものだったのでしょうか。そして婚姻制度や育児環境はどのようなものだったのでしょうか。
集団-女性-子供が矛盾なく共存している社会・・そんなイメージを持ちます。
そこでの規範は性は集団から与えられるものというような共認でもあったのでは?

○縄文人の活力源 縄張り圧力ではなく期待・応望圧力 [8] 引用

この間縄文の婚姻制を解明する中で、改めて考えさせられたことがあります。それは生まれた集団に属す母系集団であったことです。
人類の祖先である真猿が、オス移籍(チンパンジーはメス移籍)であることと比較して、また哺乳類の原点である原モグラが離乳するとオスメスとも追い出すのと比較して、大きな違いがあるからです。
完全に孤立していた始原人類はともかく、隣接する他部族と接触するようになっても、移籍は発生していません。
このことは同類圧力が戦闘的関係でなかったことを示していると思われます。戦闘的関係を婚姻制で解消したということでもなさそうです。何故なら、原モグラも真猿も、元々それまでの生物がもっていた巣離れ本能+哺乳類が増強した性闘争本能と、親和本能との大小関係で移籍するか、残留するかが決まっており、原モグラも真猿も、巣離れ本能+性闘争本能>親和本能で、巣離れ(移籍)していきます。
真猿は集団内の性闘争本能を下敷きにして、集団間同類闘争(縄張り闘争)を戦っています。
しかし人類はその逆で、圧倒的な外圧状況の中で親和本能(+共認充足回路)を増強して、性闘争本能は封印しています。縄文人も同様だったでしょう。婚姻制も母系集団も性闘争本能の封印を前提に成立している以上、他部族に対しても縄張り争い的な関係にはならないのではないでしょうか。
考えられるのは外敵に対する闘争本能ですが、相手が襲ってこない以上、同類を外敵とみなすのは無理があります。遭遇当初は外敵?との緊張感や警戒心が働いた可能性はありますが、お互い同類であり外敵ではないとの相互理解は成立したでしょう。
従って、同族内も他部族間も人々に働いていたのは、専ら生存圧力や未明課題に対して「何とかして」というお互いの期待・応望圧力(という形での同類圧力)だったと考えられます。

最大の活力源である性の肯定視を基底部におく縄文人は、徹頭徹尾、肯定視観に貫かれた存在だったということができるのではないでしょうか?肯定視観に導かれた期待・応合の圧力から溢れ出る「みんな一緒」「みんなの役にたちたい」・「喜んでくれて嬉しい」という想いこそが、縄文人の本質であり、集団全体がこのような本源規範に貫かれていたのだと思います。
次回は、日本人が受け継いできた「男らしさ」「女らしさ」を明らかにし、これからの男の役割・女の役割を考えていきたいと思います。それでは、お楽しみに!

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