こんにちは♪milktea です
前回までに国家成立の道のりの中で、日本の『王』がどのように誕生し、また引き継がれていったかを考察してきました。そのまとめはシリーズ6で示した通りです。
今回、エントリーの締めくくりとして『私見ー天皇の存在意義』を示したいと思います。
私見であればこそ、本当にこれで伝わるのか、何度となく自問しました。一読していただければ嬉しく思います。またご意見をいただければ幸いです。
それではまず、こんな問いかけから始めたいと思います。
「日の丸ではダメですか?」
[1]
[2]
私見ー天皇の存在意義
天皇の存在意義…それは、憲法に定められた「日本国統合の象徴」そう言ってしまえばそこまでです。では、漠然としたイメージの『象徴』とは、いったいどのようなものなのでしょうか。
1 『場の倫理感』が成立する理由
シリーズ3で示したように、日本人は『場の倫理感』を持つことを示しました。(社会心理学)場の内においては、妥協以前の一体感が成立していて、言語化しがたい感情的統合によって、あらゆることが曖昧に一様になっている状態であり、「おまかせする」態度も必要となる、母性原理をベースにした倫理感です。負の部分では、場の外の者に対して、警戒が強すぎるといった面もあります。場と対比するものが、父性原理をベースにした『個の倫理感』です。
母性原理を持つ国はたくさんありますが、この場の倫理感というのは、日本特有のものであるかも知れません。けれど、この場の倫理感が成立するためには、有形でも無形でも構わない、場を包容するような、何かしらの旗印のようなものが必用ではないでしょうか。そうでなければ、バランスを取るのが難しく、潜在的不安が高まり、現代社会の中で機能していくのは困難であると、わたしは思います。
例えば、無形であれば、理念やルール、血縁、共通の思い出等があるかも知れません。有形であれば、森や川、学校という建物、家族の住む家、祭りの広場等こちらも様々でしょう。この『場』の規模が大きくなったものが国家であるとすれば、旗印にふさわしいのは他ならぬ天皇である、そう思えてなりません。
実際、何年か前に某テレビ局の討論番組で、「天皇がいるから日本人はファジーでいられる」という内容の議論がされていました。
人は包容されていると感じる時、自分にあった自己表現が可能になります。社会生活を送る上で必用となる『自立』や『自己責任』を妨げるものは、過干渉とそこから発生する行き過ぎた相互依存で、包容とは全く異なります。
そしてわたし達が旗印としの天皇に求め得るものの程度は、文末でも示しますが、あくまでも広く・浅くが原則でしょう。意識と無意識の間に滑り込むようなものであると考えます。だからこそ、普段天皇がシンボルだと意識することがあまり無くても、無意識にそれを知っている可能性が存在するのではないでしょうか。
それでは、なぜ天皇が日本という『場』の旗印になるのでしょうか
2歴史の承認者
シリーズ5で、権力の承認について示しました。抜粋します。
「そして『天皇』がいなければ、摂関を代表する朝廷も院も意味を成さなくなる(権力者としての正当性をどこに求めるのか)とは、考えられないでしょうか。
実権を失っても、実権の正当性を保証する『権威』が天皇の存在自体から発生する、ということです。これは天皇に即位した人物の資質、例えば、政務能力に 長けていたとか、我欲ばかり目立ったとか、民衆の暮らし向きに心を寄せたとか、そのような個の内容とは別次元に、天皇位そのものに付着されたものとわたし は考えます。
天皇位に就いた人物の本音はどこにあろうと、結果的に時代ごと、その時 々の権力者及び権力構造の正当性を直接・間接的に承認する…」
日本の大王・天皇は当初、常にその正当性を求められ、同意を求め、政務能力を期待され、それに答えることで権力を有していました。その後の権力の移り代わりを示します。
摂関家→上皇→武士(平家を経て将軍)→戦国乱世の後関白(豊臣秀吉)→将軍→首相を長とする閣僚
権力基盤は、朝廷→幕府(鎌倉・室町)→戦国乱世後、秀吉を経て→幕府→政府
幕府の長、征夷大将軍も、内閣総理大臣も天皇の任命によって就任となります。
時代ごとの権力者とその権力構造を直接・間接的に承認するということは、そこに常に『同義的責任』が発生することになります。「政治的利用・選択肢の有無・形骸化」それらを超越したところに期待されているように思います。
当初は複数であった大王を選出しうる一族も、継体以後は、一つの一族に集約され、今日に至っています。国際社会の中で天皇家が世界一の旧家といわれる所以です。
時代ごとの『同義的責任』を一貫して一つの一族の長、その時代ごとの天皇が持つ。これは想像を絶する過酷な任とは言えないでしょうか。
国のその時々の政治的判断は、その時点で知りえている前例、入手可能な情報、そこに思考を重ね合わせてくだされても、その執政の是非は、後になって評価されるものです。 歴史というスパンで考えれば、繰り返し議論の対象になります。そしてその結論も様々なのです。
歴史のひとコマごとに、天皇一族が負う同義的責任は、歴史の承認であり、歴史の象徴であり、それゆえ日本国統合の象徴なのだとわたしは考えます。その象徴に包容されて、わたし達は特有といわれる社会を形成しているのではないでしょうか。
さて日の丸の話に戻ります。世界に国旗が誕生して以来、一度たりとも血に染まった歴史を持たない国がどの位あるのでしょうか。
例えば独立して名実共に新しい国家を建設すれば、それにふさわしい国旗に変えるのは当然です。けれど、間違いを起こす度に国旗を変えても、その間違いを無かったことにはできないのです。
国の内外を問わず日の丸を燃やす人もいるでしょう、逆に敬愛する人もいるでしょう。思いはそれぞれです。そのそれぞれの思いを背負ってこそ国旗なのではないでしょうか。日の丸を見て戦争を思い出せば、反省と不戦の誓いをたてることこそが大切で、新しい国旗に変えることでは無い、そのようにわたしは思います。
天皇とはいえ、ひとりの人間です。日の丸と同じ様に語ることはできません。シリーズ6でも示したように、私権文化を取り入れた時から、(渡来民によってもたらされた稲作文化も、力による強制ではなく、渡来民族の日本人への同化と共に、自ら選択した社会がもたらしたものでしょう)模索し、選択した国家成立の道のりも、新しい思想、概念が誕生し情報は動き、時代と共に一様ではなかった社会は、これからも模索を繰り返すはずです。
象徴による包容が自己表現を促すものであるがゆえ、個人も国家も、依存ではない、特性を生かした自立を目指し、各場の共立、更にそれを超えた部分での「共に生きる社会」を模索し歩んでいきたいものです。
また天皇家の激務は周知の通りです。個々の内容には皇室典範を見直す必要生じたとしても、それは自然なことです。それでも現在、日本国統合の象徴としてその任にあたる天皇陛下に敬意を表し、わたしの私見を終わりたいと思います。
応援してくださった皆様、ありがとうございました。
過去ログ
王権の生産 1 [3] 共通課題になった王の生産 序論
王権の生産 2 [4] 共通課題になった王の生産 本論
王権の生産 3 [5] 王の再生産…卑弥呼と古墳の存在理由
王権の生産 4 [6] 王の再生産…複数の王位継承権保持者
王権の生産 5 [7] 王の再生産…生前譲位という王権移行の形
王権の生産 6 [8] 葛城・蘇我・藤原の役割
参考文献…大化改新(遠山美都男) 中央公論社
天皇と日本の起源(遠山美都男) 講談社
古代日本と朝鮮・中国(直木孝次郎) 講談社
日本の古代文化(林屋辰三郎) 同時代ライブラリー
日本の歴史 小学館ライブラリー
日本人の誕生(佐原眞)
古墳の時代(和田萃)
古代国家の歩み(吉田孝)
『場の倫理感』に関しては、河合隼雄氏が著書『日本社会とジェンダー』の中で説明していますので、興味のある方は、参照してください
使用した画像は、シリーズ3、6以外 フリー画像素材『EyesPic』 [9]よりお借りしました