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王権の生産 6

こんにちは~♪ さてさてシリーズ6になりました
前回までに、3回にわけて『王の再生産』について考えてきました。
もちろんひとつの意見に過ぎないのですが…
今回は、王権に限りなく近い位置で、歴史の表舞台に立った
三氏の豪族について示してみたいと思います。
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 葛城・蘇我・藤原の特殊な役割
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(大英博物館にて撮影した、奈良時代をイメージした巻き絵)
 今回のこのテーマは、記事の構成上直接の引用が難しいため、わたしの文章で書かせていただきましたが、わたしがシリーズのベースにさせていただいた遠山美都男氏が研究・発表した内容を、共感した一読者のわたしが記事として紹介させていただくものであることを、予めお断りさせていただきます。
 (ラインイラストでくくった部分です)
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1葛城氏
 大和地方の豪族の中でも、『葛城王朝』と言われる程、強い力を誇ったのが葛城氏です。古くから朝鮮半島との貿易に従事し、渡来系の人々を重用して鍛冶を中心とした武器の生産を行い、豊富な資金をバックに力を持った豪族です。ただ5~6世紀という謎の多い時代に最も繁栄した豪族であったため、葛城氏に関しての諸説は様々で、簡単に解明できるものではないのが現実です。
 ただ葛城氏には、選ばれて独占していた役割があったことは確かです。大王及び、大王家の有力な人物と婚姻関係を結ぶ豪族であったということです。地方や、比較的規模の小さい豪族も大王に未婚の女性を差し出すことは、あったのですが、それらとは違ったれっきとしたミメとして婚姻関係を結び、生まれた子供が即位するという、大王家の外戚としての役割を担っていました。王族内部での婚姻も頻繁に行われていましたが、別の血を入れる場合、それは、やはり選ばれた特殊な一族に限られていました。それが葛城氏だったのです。
2蘇我氏
 歴史の表舞台に突然現れた蘇我稲目。その父以前の語られている系図は、信憑性が薄いとされています。伝承を信頼できるだけの資料が、現在まで発見されていないということです。朝鮮半島を思わせる名前が連なっていますが、朝鮮の人名としては常識的でない(人名としては考えられない)ため、渡来人であったという説は、現在は信憑性のないものとされているようです。ただ、蘇我の中でも、石川系は、半島から輸入された(貢物)物資を保管する倉を管理し、また饗応にあたっていたため、朝鮮との関係が深かったのは事実のようです。もともとは有力豪族とは言いきれなかった蘇我ですが、稲目が、どの様ないきさつからか、葛城氏の女性と婚姻関係を結ぶことになったのが、その後の繁栄の原点です。この段階で葛城氏はすでに力を失っていたのですが、やはりその血統は捨てがたいものがあったようです。稲目は、婚姻により葛城氏の血統と連なる豪族として、その娘(母は、葛城の女性)を大王のミメとすることに成功したわけです。ここに蘇我繁栄の原点があります。
 蘇我家は、有名な乙巳の変で滅ぼされたとされていますが、これは時の蘇我本宗家であって、分家の蘇我倉山田家は、その後本宗家に昇格し天智にミメを出し、生まれた子供が後の持統にあたります。倉山田家の後は、蘇我連子が本宗家に昇格しています。
3藤原氏
 藤原と言えば、真っ先に思い浮かべるのは鎌足でしょう。ただ彼の繁栄は、彼一代のものです。鎌足の没後、後継者だった藤原金は、壬申の乱で大友軍の重臣であったため処刑されています。
 藤原家繁栄の祖は、鎌足の第二子藤原不比等にあったと言えるでしょう。ほとんどゼロからの出発であった不比等ですが、幸運にも鎌足の遺児をまったく冷遇したわけではなかった天武は、鎌足の娘二人をミメとして迎えいれていました。不比等にとっては幸運だったはずです。そして決定的だったのが、不比等と蘇我連子の娘、娼子との結婚でした。この婚姻により、不比等は蘇我の血統を受け継いだ存在として認知され、彼の娘、宮子を文武天皇のミメにたてることができたのです。かつての葛城と蘇我と同じ役割です。更に文武の息子、後の聖武天皇に宮子の異母妹の光明子がミメとなり、後に皇后の地位を獲得することになります。その後の藤原の繁栄はここに記すまでもありません。
 葛城と蘇我の婚姻、蘇我と藤原の婚姻、これにより蘇我・藤原は、かつての葛城氏が独占していた重要な役回りを継承し、繁栄していった一族となったわけです。
 それでは、この重要な役回りは、彼らにどのような政治的立場をとらせたのでしょうか。
三氏を代表して蘇我氏のあり方を見てみたいと思います。これは遠山氏が明らかにした代表的な説です。
  三氏が独占した役割は『王族の外戚として、王族の王権継承を擁護し、王権の円滑かつ安定的な再生産を補助すること』となります。王族の身内的存在になる可能性は、いずれの氏族も有していましたが、その役割を確固なものとし、その役割において繁栄したのが三氏の共通点です。
 社会科の強化書等では、蘇我氏は、王の力を凌駕し、『王になりかわり』権力を握ろうとしたために滅ぼされた、とされています。つまり王権の奪取を試みたということでしょう。
 皇太子制度が確立するまで、同時期に複数の王位継承権保持者がいたことは、シリーズの4で示しました。その中で誰を支持するか、その思惑は充分に持っていました。実際に蘇我の指示であろう暗殺計画があったこと、またそれを実行したこと、最悪な部分では、大王自体の暗殺までやってのけています。けれど、単独の一族で王権の奪取などできるはずがないことは、一目瞭然です。有力な大王候補者が、実際に即位にこぎつけるためには、ヤマト朝廷の王権周辺に位置する多数の合意が必要でした。古代日本の王とは、そのような存在で、頭だけのすげ替えでは済まされなかったわけです。
  大王家の外戚というのは、大王家あっての存在です。大王家に寄生して繁栄する存在です。大王家が安定してその継承を行い、繁栄してこそ、蘇我の繁栄は約束されるものだったのです。蘇我蝦夷・入鹿親子が討たれたのは、古人大兄の即位に固執したため、反対する一派によって廃された、遠山説ではそのように述べています。その証拠に、蝦夷・入鹿が討たれた後、この戦いに加担した蘇我倉山田石川麻呂は、蘇我本宗家の後を受け継ぎ、外戚としての役割を継続しています。
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 このように三氏は、朝廷内において大王(天皇)周辺に位置し、常にキーポイントを握っていたことは間違いありませんが、『王位そのものの奪取』は憶測の可能性が高いとわたしは考え、少なくとも『奪取』は起きなかったという事実を、再確認したいと思います。
 また力関係において絶対性のあるものではなかった大王(天皇になり少しずつ確立)にとって、王族ではない外戚は、互いの利害関係が合致すれば必要不可欠な存在となったはずです。

 ここまで、日本という国家の成立時期における『王権の生産』について考えてきました。
 いやおう無しに訪れた「私権文化」は、縄文の常識を瓦解し、大混乱を招きました。けれど一万年かけて構築された縄文のパーソナリティーは、形を変えながらも受け継がれ、「私権文化」を日本独自の在り方で表現・構築し、日本国を成立させてきたようにわたしは思います。
 さまざまな理由、思惑を持ってやって来た渡来民も、婚姻による同化が進み、そうであれば彼らはもはや渡来民族であっても、れっきとした日本人であると考えます。土地も人も文化も、他国によって征服されたのではなく、日本人が模索し、選択した国家成立への道のりではないでしょうか。
 その後の歴史は時代と共に一様ではなかった…当然のことでしょう。情報は動き、新しい思想や概念はいつでも誕生し得るものです。行き過ぎはゆり戻しを生み、試行錯誤は常に求められるはずです。逆にいえば、だからこそ国家成立の過程が重要であり、そこに国家のパーソナリティーの原点が見え、無意識に遺伝として受け継がれていくものであると考えます。
 次回、シリーズの最終段階として、私見『天皇の存在意義』を示したいと思います。
過去ログ
 王権の生産 1 [3]
 王権の生産 2 [4]
 王権の生産 3 [5]
 王権の生産 4 [6]
 王権の生産 5 [7]

[8] [9] [10]