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中央集権から封建制へ(農民の武装化と地方市場の拡大)

「ポスト近代市場の可能性を日本史に探る」シリーズ9回目です。
前回は、日本を覆う外圧の低下→それに伴う中央集権体制の瓦解→地方(受領)の暴走→武士の台頭という大きな流れを見てきました。今回は、武士の台頭という現象を、農民の側からおさえ直し、この武士階級の台頭と中世の市場拡大の関係を考えてみたいと思います。

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【中央の貴族寺社勢力(荘園)と地方官僚(受領)の農業経営競争がもたらした市場拡大】
中世における農民たちの自衛化・武装化を考えるうえ上では、土地制度の変遷を抑えておく必要があります。

8世紀初頭、大陸の動乱という大きな外圧に晒されていました。白村江の戦いで唐に敗れた日本は、唐及び隣国の新羅からの侵略を警戒し、中央集権制の強い国家を目指して、大宝律令(701年)を制定し律令制度(公地公民)を推し進めます。

そして戸毎に人民を把握する戸籍制度(籍帳支配)を取り入れ、またそれに基づいて班田収受(法)を制定します。つまり人民の把握=兵役の強化と、徴税の徹底を図っていきました。しかし、農民に課される租・調・庸・雑徭・出挙・兵役などの負担(参考:■班田収受による負担 [3])はかなり大きなもので、凶作になったり、農民が病気になったりすると、たちまち生活が破綻してしまいます。

参考:国家と中央の寺社・貴族による取引関係=『初期荘園』 [4]より

農民は負担を逃れようと偽籍を行ったり、労働に耐えかねて逃げ出す農民が後を絶たず、班田収授の実施も難しくなっていきます。この農民の浮浪や逃亡の増加は、国家財政を直撃し、さらに口分田の荒廃を引き起こしましたが、これに対して朝廷は、再度、中央支配を高めようと現地派遣の筆頭国司である受領に租税納入を請け負わせる国司請負への移行させました。

と同時に、朝廷は743年に墾田永年私財法を出し、開墾した土地は永久に私有することを認めます。外圧低下によって肥大した貴族たちの快美欠乏に応えるには、自力による私有権拡大を認めるしかなかったという事になりそうです。
これによって、貴族や寺社は自前で地方豪族(地元農場主)と手を組み、口分田を逃げだした農民たちを使って、新たな田畑の開墾(私有地拡大)を行っていきます。=荘園の拡大です。

■朝廷の徴税を免除される荘園
【複雑な土地制度「荘園制」の天皇制存続の関係】 [5]より~
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つまり、一方で地方官僚の裁量権を拡大させ、他方で、中央貴族や寺社勢力による自力の荘園経営=土地私有を認めたわけです。この地方官僚と貴族寺社による荘園の双方が平安から中世に至る農業経営の競争圧力を形成しました。それによって実際、農業の生産性は上昇していきます。鎌倉時代後期は、鉄製農機具の普及とそれを使った牛馬耕により、二毛作を実現しています。

大陸からの動乱外圧の低下した平安な時代ゆえ、中央の貴族寺社勢力(荘園)及び地方官僚(受領)の双方が競い合うように、富の拡大競争を行っていった結果が、平安から中世へと至る市場拡大を導いたと言えるのではないでしょうか。

【上からの統合(徴税)期待と下からの統合(縄張り闘争平定)期待→封建体制へ】
しかし、対外的には平安であっても、貴族寺社勢力(荘園)と地方官僚(受領)の農業経営競争は国内における縄張り争い=戦争の火種をも生み出しました。特に水田農業は単純に区画された農地さえあれば経営できるものではなく、必然的に公共財である水利権を巡る争いへと発展していきます。

■農耕用水路の開発風景
【文覚井(もんがくゆ)(中世農耕用水路跡)】 [6]より~
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受領(国司)との対立、水利権などの境界紛争・戦乱や盗賊からの自衛を契機にして、各地で成長した荘官や開発領主(有力農民)は、勢力を拡大するために武装を行うことになります。

こうして、もともと縄文以来、贈与関係(婚姻制度を含む)を通じて近隣集落とは縄張り緊張の緊張緩和を図ってきた日本の地域共同体も、武装蜂起することで自集団を守るという段階へ移行していくことになりました。所謂、惣村の誕生です。しかし、乱世の時代はいつまでも続くものではありません。勝ち抜き戦の戦国時代を経て次第に、各惣村の自治権を認めた社会を構築する統一機運が高まっていきます。
勿論、中央の貴族寺社勢力も既得権を手放したくはないとはいえ、いつまでも戦乱が続いては、自らの欠乏の中核である快美欠乏を充たすことも出来ません。しかも有閑階級である貴族勢力は自ら返り血を浴びる覚悟はなく、死を穢れと忌み嫌うため、死を恐れない武士には実質的に従うしかなくなります。

こうして、中央貴族階級発=上からの統合期待(その内実は徴税期待)と、農村発=下からの縄張り闘争平定期待の交点に、武士階級による社会統合=封建体制が実現されていったのです。

そして、この戦乱とそれを乗り越えた封建体制の形成というプロセスを通じて市場拡大はますます進展していくことになります。

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