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王権の生産 5

こんにちは~♪ milktea です
 前回は、継承順位のない王位継承権保持者が、同時期に複数存在したことを示しました。
伴造ー部民制から律令制への過程において、王権の一括譲渡だ比較的容易になりつつあり、新たな王権移行(時期大王の選出)の形も、模索されるようになりました。
 それを受けてトライされた方法について、今回考察してみたいと思います。
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王の再生産…生前譲位という王権移行の形
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日本という国号、天皇号の成立は、天武の時代であるとする説が有力視されています。自らの国を主体に世界観を描き、その世界観の中で存続する国家、という意識が出来上がった時代です。皇太子の設立もこの時代にあたります。ところが、過去に死期が迫った段階で、次期大王を指名した人物がいます。推古大王です。予想される王族内部での紛争を未然に防ぐ目的があったのでしょう。そして推古の死後、蘇我を中心に、主力豪族が推古の意思に従ったわけです。舒明の後も、最有力と目されていた山背大兄ではなく、大后であった皇極が即位したということは、舒明による指名があったとも言われています。
 次期大王を、現大王が指名する。簡単なようですが、これを実行するためには、やはり豪族の同意が必要だったのです。この豪族の同意は、皇太子制度が確立するまで続きます。
 何と言っても、指名した大王本人が死去している以上、拘力は不透明と言わざるを得ません。そのために、次期大王を誰にするか、その構想を大王自身が持っていたとしても、果たして保証されたものであったかというと、疑問が残ります。
 王位継承の原則を新たに定めようという構想を持ったのが天智大王です。彼の母である斉明大王の後継者として(皇極と斉明は同一人物ですが、皇極の段階では、彼はまだ大王候補としては、低い位置にいました)次期大王候補のトップに立った天智ですが、斉明が急死したため、各豪族の同意を得るために年月を要することになり、即位が大幅に遅れています。この経験から、新しい原則を定めようとしたわけです。その原則は血統に求めるというものでした。しかしそれが制度として確立する日を待たずに天智は永眠しています。
 それでは他にどのような手段があるか…推古の例によって、指名は可能となっています。ただ本当に履行できるかどうか、指名した本人が見届けることができない。そこで考え出されたのが『生前譲位』です。A大王がB大王に王位を譲り、A大王自身がB大王の正当性を保証する。もちろん実行には根回しや、タイミング、譲位を行う根拠(タテマエ)が不可欠ですが、正当性の保証という点では、確固たるものがあったと考えられるでしょう。天智大王は、譲位を受ける前に斉明大王の急死があり、更に『白村江の敗戦』で即位のタイミングを逃しています。
 この生前譲位を実行したのが主に女帝であったため、彼女達が大きな働きをしたにも拘らず、後世まで中継ぎと言われ軽んじられています。前回のシリーズでも示したように、持統天皇まで、彼女達は即位前から大王を補佐し、執政に加わり、何より中継ぎというお飾り的存在では、当時の複雑な社会構造を統率・管理することなどできなかったと考えられます。キャリアも能力も、日本史をあげて突出した女性であったはずです。その後の元明・元正両天皇も、官僚化した豪族を統率する強い権力と責任を持っていました。また、次回詳しく示すつもりですが、蘇我が持っていた特殊な役割を、藤原に移行させるという過渡期でもありました。男である大王は、いくらでもミメを娶ることができました。しかし女性である彼女達は、政略結婚・離婚・未婚等を求められています。そして重い責任を背負い、人生を駆けてゆきました。けれども彼女達は、野心をも持ち合わせていたのでしょう。だからこそ、平凡な幸せよりもキャリアに賭けたのかも知れません。「悔いの無い人生でしたか?」聞けるものなら聞いてみたい…「国の最高位に立ち、臣下、民衆を従える以上、一日たりとも気の休まる時はありませんでした。でもやれるだけのことはやりました。運命とはいえ、後悔はしていません」もしかしたらそんな答えが返ってくるかも知れません…そしてこれは余談になりますが、確かに過去の女帝は、皆男系で、譲位した相手も男系に連なる、これはそのとおりです。けれど、繰り返しになりますが国家成立時期の大王・天皇は、政務能力、調整能力・統率能力が求められ、それに答え得る存在として、リーダーシップを発揮していた。そのようにわたしは考えます。現在『伝統』をたてに女系を否定する人達の意見が虚しく思えます。
 ここで皇太子という制度の確立について遠山氏の説を引用します。
* 壬申の乱を経て、列島各地の首長層配下の農民たちを彼らが住んでいる場所で把握し、それを領域的に編成することが格段にすすんだ。その結果、大王に対する貢納・奉仕の内容ごとに農民を把握するシステムであった伴造・部民制が完全に廃棄され、天皇の地位も、農民の領域的編成の頂点に位置し、それを一括して把握する存在になった。天皇に集中された権力の他者への譲渡が比較的容易となり、天皇存在中に次期天皇をあらかじめ確定しておくことが可能となってきた。ここに、皇太子制が成立する前提がようやくできあがったのである。*(遠山美都男著・大化改新より)
 律令制の確立と共に、次期天皇の正当性を保証するものが、制度として確立することとなったのです。
 今回示した生前譲位が『先例』となって、後に摂関政治、院政を生み出していくことになり、天皇の「実権」が薄れてゆきますが、この段階では選択肢のひとつとして、評価できる行為だったと考えます。
そして『天皇』がいなければ、摂関を代表する朝廷も院も意味を成さなくなる(権力者としての正当性をどこに求めるのか)とは、考えられないでしょうか。
 実権を失っても、実権の正当性を保証する『権威』が天皇の存在自体から発生する、ということです。これは天皇に即位した人物の資質、例えば、政務能力に長けていたとか、我欲ばかり目立ったとか、民衆の暮らし向きに心を寄せたとか、そのような個の内容とは別次元に、天皇位そのものに付着されたものとわたしは考えます。

 そして言うまでもなく、この権威を背負った天皇という地位は、その後の歴史の中で、天皇一族以外の者からは、決して奪取されることなく存続したということを改めて記したいと思います。
 天皇位に就いた人物の本音はどこにあろうと、結果的に時代ごと、その時々の権力者及び権力構造の正当性を直接・間接的に承認する。それが天皇制の長きにわたる存続の、大きな理由の一つであったとは言えないでしょうか。
 これまでシリーズ 3・4・5 で、王権の移行について考えてきました。
 常に『同意』が求められ、『正当性』を示す必要があったのが古代日本国家の『王』でした。
 次回は、国家成立時期にキーポイントになった、豪族三氏について考えてみたいと思います。
過去ログ
 王権の生産 1 [3]
 王権の生産 2 [4]
 王権の生産 3 [5]
 王権の生産 4 [6]

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