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中世市場をリードした「堺」の武器と茶の湯

こんばんわ。 🙂
「ポスト近代市場の可能性を日本史に探る」シリーズ10回目をお送りします。
日本の市場の発展段階は何段階かありますが、その中で近世市場の基点となったのは中世に誕生した商人都市「堺」 [1]です。堺の市場としての歴史は、応仁の乱以降に西日本の交易拠点として機能しはじめてからその歴史が動き出します。
しかし注目すべきは交易拠点の方ではなく、応仁の乱以降1世紀ほど後に始まる鉄砲の生産です。堺はすでに構築していた南九州、琉球との交易ルートを使って種子島に伝来した鉄砲に目をつけ、技術者を送り込むと鉄砲の仕組みを学び取り数年後には地元で生産を開始します。
なぜ堺にそれが可能だったのか?中世の市場史を紐解くヒントがあるように思います。
今日は宇田川武久氏の「鉄砲伝来の日本史」を参考に記事を作成しました。
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武士社会が定着し、それまでは馬と刀と弓矢が武士の戦う道具でしたが、鉄砲を導入することで飛躍的に攻撃力は増大します。すでに16世紀以前には中国や朝鮮半島で鉄砲の用いた戦争が行われており、日本国内でも鉄砲の導入が待望まれていました。市場都市「堺」の発展は鉄砲の生産から販売までほぼ独占的に支配した16世紀の半以降の時代を抜きにしては語れないのです。
なぜ堺で鉄砲の生産が可能になったのか、販売網が構築できたのか、巨万の富を得るほどの力を得たのかについてはいくつかの複合的な要因が重なっています。
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1)堺にはすでに古墳時代から鉄の加工工場があり、鉄職人が集結していた。
2)以降も鋳物師として皇室に使える鉄職人を要していた。堺の鋳物師は全国に散らばることで販売網を構築し、製鉄技術を拡大すると共に堺を中心としたネットワークが緩やかに形成されていた。
3)堺は奈良、京都、大阪と3つの接点に位置し、さらに海洋ルートから直結する港をかかえ市場都市の条件である要としての立地を有していた。
4)本願寺と繋がることで寺社ルートと深く繋がりを持ち、時の権力者に対抗する力を備えた。
5)応仁の乱で兵庫津が敵方に占領され使えなくなったことで西日本の船舶ルートは堺から紀州~高知の先を通って南九州へというルートが定型化した。それによって南九州の有力者である薩摩の島津氏との関係を作り、さらには琉球から中国までの交易ルートが形成されていた。
6)倭寇からの鉄砲の伝来があったとされる種子島はそのルートに中間の位置しており、堺が最初に製造技術を開発した。

上記の理由が複合的に前提条件としてあった上で、武器商人としてその地位を確立すると堺商人はもはや将軍も武士も逆らえない力を持つ事になります。
足利も上杉も織田も豊臣も堺商人の手の平の上にあったのでしょう。逆らえば鉄砲を手に入れることができない。また堺商人は最も高く買ってくれる武将のところに行けば良いわけで、武器の値段はどんどん吊り上げることが可能になったのです。
市場の中心は平安時代に作り上げられた貴重品やぜいたく品という宮廷市場から中世後期には武器や弾薬といった縄張り争いや氏族の存続に直結する武器市場に移行していくのです。
そうした背景を元に巨万の富を築き力を付けた堺商人はお上の力も及ばない自治都市としてその地位が確立されていきました。これに危機を持った信長は堺を攻撃し一旦はその配下に納めますが、信長の代が滅びると再び堺はその地位を取り戻していきます。江戸時代に至るまで市場都市「堺」は影響を持ち続け、武器商人で得た富を元手に金貸しとしての豪商に成長していきます。
このように見ていくと現在の世界経済同様に日本の中世においては、まさに武器を制するものが市場を制するという構図が一時期、成立してきた事がわかります。
注目すべきは堺商人が戦国の敵味方の武将の双方に対して商売していた点です。
以下の記事はブログ「ツール・ド・堺 [4]」から抜粋させていただきました。

戦国動乱期だった中世末期、日本随一の港町・堺では都市自治が行われ、唯一のピースゾーンであったことを、当時ヨーロッパからやってきたキリスト教宣教師が伝えていた。その一方で、鉄砲や軍需品を戦国大名に売りまくっていた「死の商人」たちによって運営されていた都市であったとも言える。政商達が信長・秀吉・家康など、戦国時代の中心となった武将達と結びついて大活躍していた時代である。かの鉄砲を敵対し合っていた大坂方にも徳川方にも御用達していた。
そのツケは、1615年(元和元年)に支払われることになる。大坂夏の陣に際して、遂に大坂方・大野道犬によって全市が焼き払われることになったのである。


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堺商人はこの時代、全国の武将に鉄砲を売り歩いており、まさに戦争を作り出した日本版ロックフェラーさながらでした。しかし、中世の血なまぐさい武家にどのようにしてもぐりこんでいったのか、まさか鉄砲はいりませんかと行商したわけでもないでしょう。
この部分は堺の茶坊主”商人”としての特徴を想像して見ていかなければならないと思います。鉄砲の生産、販売と同時期に堺で登場したのが茶道であり、今井宗久が始めたわびさびの文化です。これは偶然でしょうか?
限定した自然を用いながら世の無常を表現した「わびさび」という世界は武士の置かれている心情に合致し、さらに武家が望んで手に入らなかった貴族文化の象徴としての茶道を新しいものとして武士社会に持ち込むことに成功しました。
わびさびとはまさに茶坊主という言葉のごとく武器を売らんがために一商人が武将に取り入る為に用意した双方に都合のよい“文化”ではなかったのでしょうか。
堺商人の成功したもう一つの理由に武器という“実質”とそれをまぶす芸能、文化という“入り口”を両方セットで兼ね備えていたという事が言えるのではないかと思います。
事実、織田信長は表では千利休と茶道で繋がると共に、鉄砲を一手に生産販売していた堺をコントロールし、天下取りを有利に進めました。
堺商人は同様に他の戦国武将にも茶道を入り口として懐に入り、その後に鉄砲の効果を語り販売していたのではないかと思われます。実態としてはこの時代は信長こそ鉄砲を推奨していましたが、他の武将の間では命中率の低い鉄砲は戦の道具としてはあまり注目しておらず、地位が低かったと言う説もあります。
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以上、見てきたように中世の市場を考える上で茶道の存在は大きく、血なまぐさい鉄砲だけでは市場は開かないのではないかと思うのです。市場はいつの時代もそうであるようにプラス側の幻想価値を商品に加えることで商人は幻想分を利益として得ていきます。戦争という私権闘争が激化すればするほど、それを中和させる為の(平和)市場がセットで必要になったのではないでしょうか。この時代の茶道も後の江戸時代の芸能文化もそのような背景を元に需要が創出されていったように思います。
江戸時代には多様な芸能が登場しますが、その供給者も需要者も商人発であったようです。

中世の市場を見てきましたが、武士階級の登場を契機に金属需要が登場し、鋳物師がその下で力を蓄え、交易拠点を中心に武力を規定する鉄砲で商人としての地位を確たるものにしていきました。すでに堺が自由都市として存在していたという事はこの時点で国家を上回っていた可能性もあります。信長はその勢力を武力という力で押さえ込もうとしますがその流れは変えられませんでした。その後の江戸時代は市場を上から押さえ込むのではなく共存するために行き過ぎないようなバランスを考えていったのではないでしょうか?武士道と商人道も人を騙す事を邪として目指した辺りにそのヒントがあるように思います。
次へバトンを渡します。
商人道と武士道の参考に~
「近江商人の商魂とは~滋賀県史より紹介」 [5]
『国家の品格』を読んで [6]
シリーズ投稿過去記事
『ポスト近代市場の可能性を日本史に探る』
新シリーズ「ポスト近代市場の可能性を日本史に探る」をはじめます [7]
古代市場の萌芽は贈与ネットワークにあった(前半) [8]
古代市場の萌芽は贈与ネットワークにあった(後半) [9]
古代日本外交史 ”主体的”外交への転換 [10]
神道の広まりが租税を可能にし、市場発達の基盤を作った [11]
日本古代市場の魁=修験道ネットワーク [12]
宮廷サロンをつくった商人とそれを支えた受領 [13]
中央集権から封建制へ(武士の台頭)
中央集権から封建制へ(農民の武装化と地方市場の拡大) [14]

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