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私権文明を問い直す シリーズ7 私権の共認と一対婚の特殊性

こんにちはsaahです。
前回 [1]、私婚の共認からいかにして私権の共認に繋がってゆくかを投稿しました。
今回もう少し、その因果関係を補足してみたいと思います。
■ポイントは、本源集団の解体により婚姻規範が消滅して私的な婚姻関係(私婚)になったこと。
○私婚関係から性権力の共認へ
 女:本源集団を失った女が性を武器に存在権確保に向かう
   →男を挑発しつつ供給制限⇒性の幻想化
 男:(農耕で)生産基盤の安定=外圧低下⇒解脱収束→性欠乏上昇
   →女の挑発と供給制限でますます性欠乏上昇
両者が重なって「性的商品価値の共認」が成立。
それを手に入れる為に男は女に迎合せざるを得ない
∴「私的な男女解脱共認が成立」=「性の権力化」
こうして性権力の共認が成立します。
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○性権力の共認から占有権の共認へ 
女:性を武器に存在権の安定確保の為に私有要求を強める──┐
                         占有権が共認される 
男:性権力を共認している以上男は女の要求に迎合   ──┘
○社会の最基底部にある私的な男女解脱共認に基づいている以上、占有権の共認も社会の最基底部の共認となる。⇒「私権の共認」
○社会の最基底部の共認を「私的な男女解脱共認」とし、それに基づく私的な婚姻関係を基底単位とすれば、私権に基づく私的婚姻=私有婚は社会の最基底部の制度となる。
∴婚姻関係は私有婚=一夫多妻となる。(一人の男が女を所有する)
さらに世代交代のたびに土地の分割単位が縮小され、養える女の数が減り一夫一婦制へ!
一対婚とは、そもそも本源集団が消滅したが故に出来た「私的な」男女解脱共認に基づく占有権(私権)の共認により生まれた私有婚である。もともと本源集団内では、婚姻関係に限らず私的な関係などなく、したがって婚姻関係も総遇婚であった。
■一対婚の特殊性
以下、実現論 [4]より引用です。
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今日、一対婚はあたかも人類の始原からそうであったかの様に、思われている。あるいは、初めはそうではなかったとしても、ごく自然に、一対婚という「あるべき形」に移行してきたのだと信じられている。(例えば、サル学者の中には、何とか一対婚家族の萌芽を見つけようという偏見に満ちた問題意識を持ってサル集団を研究している者さえ、多数いる始末である。)だが、それは大きな誤りである。事実は全く逆であって、一対婚は女と男の性的邪心を源泉とする掠奪闘争の帰結として、掠奪国家によって作られた私権(性権と占有権)に基づく婚姻制であり、かつ世界中が自然に移行したのではなく、掠奪国家が人口の過半を占める採集部族をはじめ全ての平和な部族を皆殺しにし、あるいは支配することによって強制的に普遍化されていった婚姻制である。

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一対婚規範が書かれた「十械」(写真はこちら [6]よりお借りしました)

なお、この点でも日本は特筆に値する文化基盤を持っている。日本人は長い間、採集部族として総偶婚(それも、最も原始的な兄妹総偶婚)を続け、一七〇〇年前に朝鮮からやってきた侵略部族に支配され統一国家が形成された後も、長い間総偶婚の流れを汲む夜這い婚を続けてきた(夜這い婚は、昭和30年頃まで一部で残っていた)。国家権力によって上から押し付けられた一対婚が庶民に定着するのは江戸時代中期からであり、現在までわずか三〇〇年間ぐらいしか経過していない。婚姻様式が社会の最基底に位置するものであることを考える時、この総偶婚のつい最近までの残存(or 一対婚の歴史の浅さ)は、日本人の心の底に残る縄文人的精神性を物語る貴重な文化基盤である。

東洋と西洋の違い(リンク [7]リンク [8])でも挙げたように、日本は1700年前まで掠奪闘争に巻き込まれず長い間本源集団を残し、それゆえ婚姻関係も総遇婚の流れを永く残してきました。
形の上では大陸からの侵略部族による支配を受け入れながらも、実質上は総遇婚の流れ、本源集団の規範を残してきた日本人。
私的な関係による充足よりも、本源的な集団性による行動により、日々充足を得てきたといえます。それは婚姻関係のみならず、ありとあらゆる関係において、私的な関係に勝るものだったのではないでしょうか。

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