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日本古代市場の魁=修験道ネットワーク

tanoさんから「縄文ネットワークが古代市場の基盤をなすのでは」という視点が提起されました。他方で、ないとうさんからは「神道ネットワークを基盤とした徴税ネットワーク」が古代市場の基盤とする論考が提起されています。
「海洋民=縄文ネットワーク」「神道=徴税ネットワーク」「古代市場」・・・この3つはどのようにつながっているのでしょうか?
この3つの結節点こそ、「没落貴族と反体制海洋民による秘密政治結社=修験道ネットワーク」ではないでしょうか。今日は、「修験道ネットワークこそ、日本の古代市場の魁」という仮説を考えて見たいと思います。
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↑今回参考とした「役行者―修験道と海人と黄金伝説」前田良一著
日本経済新聞社 刊 ※オススメです


日本の物流網は、どのようにして贈与=共認原理から市場=私権原理へと転換していったのか
「贈与」何を学ぶべきか?シリーズでも提起しているように、縄文ネットワークとは贈与を基盤とした物流ネットワークであり、それがそのままで市場としてのネットワークになる訳ではありません。同じ物流網であっても、「贈与=共認原理」「市場=騙しと搾取を方法論とする私権原理」では物流を突き動かしている原理が全く違うのです。
贈与は友好関係の構築を目的とした、多角的なネットワークであるのに対して、市場は武力支配=力の原理によって構築された序列体制のニッチから、なんとか、私権の旨みを取り出せないかと暗躍する闇世界的な暗躍こそが、その基盤です。
言い換えれば、力の支配→階級社会の成立を前提としない市場関係はありえないのです。ないとうさんの論考により、日本の場合、本格的な争い→力の支配がなかった代わりに、国家による徴税そのものが「弥生信仰」のベールを纏うという手法によって構築されてきたことが明らかになりました。実も蓋もない言い方をするならば、「稲作の司祭王」としての天皇とは国家権力による徴税を正当化するための道具だてだったのである。
そして、この「自然神への返礼」というベールをまとった徴税ネットワークが平安王朝に富の集積をもたらすと、平安王朝は、源氏物語や竹取物語に代表される、有閑階級が富を散財する一大消費都市となる。国家としては、国を閉ざし、闇商人たちの暗躍を防ごうとしたものの、有閑階級の消費欲が、それを許さない。かくして、平安王朝の豪奢と性愛は、一方で、徴税システムを強引なものに変えていき、他方で、有閑階級の消費欲を充たすための民間市場をつくりだしていく。
と同時に「神道=自然神への祈念」というベールの奥から支配権力の行使という国家=徴税ネットワークの本質が垣間見える時、人心は離れ、抵抗勢力となるネットワーク構築への企てが動き始める。それは、権力闘争故に必然的に発生する反体制の没落貴族と、同じく体制に納得の行かない人々をつないでいく。
そのような抵抗勢力の闇の政治結社的なネットワークが、他方で、支配階級に蓄積された富を回収するための仕組みとして、先駆的な古代市場は始まった、とみていいのではないだろうか。それを主導したのは、稲作になじめなかった海洋民たちであり、彼らの思想的支柱となったのが、修験道であったのであろう。
以下に、「日本古代市場の魁=修験道ネットワーク」という仮説根拠を挙げる。
そもそもの修験道の基礎が、新羅の没落貴族たちによる‘花郎集団’に遡ること、彼ら半島出自の没落貴族が西日本と半島を自由に往来する安曇族や宗像氏などの海洋民に手助けされて日本の各地に広がっていったことは「花郎集会と修験の発生にみる共同体の解体過程」で既に述べた。http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2008/12/000673.htmlを参照。勿論、葛城氏、大海人皇子、後醍醐天皇と日本史上、政治体制の重要な局面において、修験の総本山吉野が反体制の拠点として機能してきたことは疑うべくもない。
※ 修験道→山伏の習俗には彼らの出自が海洋民であることを物語るものがたくさんある。腰に付けたほら貝や鹿皮はその象徴。また修験総本山、吉野には、海洋民である安曇族や隼人族に連なる地名が多数ある。魏志倭人伝に出てくる「伊都国」を思わせる「伊都郡」が五條市の先にあり、そこには奴国王の金印のでた「志賀」を思わせる「志賀」という地名もある。その他にも那賀、海部、オオスミ、阿多、大山祇神、海神社・・と吉野は海洋民の名残を多くとどめている。
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※ 何故、海洋民が山へ上がったのか、については諸説あるが、中央構造線の山間部からとれる朱が船の防腐剤として有効だったから、という説が有力である。船が朱塗りであったことは万葉集の歌謡からも伺える。
※ 道教は体制思想としての儒教のカウンターカルチャーとして、より旧い祖霊信仰・占いを中心とした宗教であるし、修験道は、八百万の神という縄文的≒海洋民的な信仰の名残を神仏習合という形でとどめている。
※ また修験道は、金・銀・水銀等の貴金属の発掘とそれを活用した冶金・製薬そして販売を活動資金としている。これら貴金属を使った仏像や薬品は、豪奢への欠乏に取り付かれた貴族階級を騙して、高く売りつけるには絶好の商品であった。実際、行基は金ピカの大仏を売りつけることに成功したし、役小角が使った妖術の正体とは、医術であり薬の処方であったようだ。
このように海洋民=縄文ネットワークは、徴税ネットワークの登場を契機に、そのアンチテーゼとして没落貴族と反体制海洋民による秘密政治結社=修験道ネットワークへと修練していった。この修験道ネットワークこそが日本古代市場の魁ではないか。
そして、徴税ネットワークに対するアンチテーゼとしての修験道=市場の拡大という流れは、貴族階級の暴走が加速する中世においては、密教ネットワークへと引き継がれていく。そして海賊を生み出し、民間の海外貿易ネットワーク網へと発展していったのではないだろうか。シリーズ中盤はそのような、平安王朝の豪奢と没落、他方で台頭する市場の住人たちの暗躍を見ていきたい。
尚、タツさんから「‘ポスト近代市場の可能性を日本史に探る’という大テーマのもと、5回までの論考を通読して、“可能性”がまったく見えんのです。」とのお叱りを頂いております。確かに・・・明るい未来は見えてきません。しかし、「主体的外交」や「贈与精神」といった可能性の萌芽は感じます。いましばらく、お付き合い下さい。

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